10 お嬢さん
「もっと喧嘩みたいになるかと思った」
銀次がそう言ったのは、ホテルの廊下を二人で歩いている時だった。
広い廊下は天井からシャンデリアなどがぶら下がり、あたたかいのにきらきらしい光で満たされている。他に人の姿は見えず、二人分の足音だけがコツコツと響いた。
「そうだねぇ。何か、喧嘩にもなんなかったね。浅野さんって多分、悪いと思ってないんじゃいかな」
「そうなのかなぁ。悪いよね。僕、すっごい迷惑したんだけど」
銀次は不機嫌そうに口を尖らせ、眉をぎゅっと真ん中に寄せた。そして、もう何度目か解らない文句をぶちぶちと繰り返す。
「こっちきてから、べったり監視されててさ。全然一人にしてくれないんだよ。あの夜だって、どうしても荷物取りに戻んないといけないって言い張って何とか家に帰ったんだ」
それでも時間を調整されて、家に着くのは真夜中になった。監視も付けられた。監視は部屋の前まで付いてきて、隣にあるふみさんの部屋でさえ訪ねる事もできなかった。
だから自分の部屋の中で、ふみさんが眠っているのを見付けた時には。
「嬉しくてどうにかなるかと思った」
輝く様な白い顔をうっすら赤くしながらに、はにかむ様子で銀次は言った。不満に満ちた文句のはずが、いつの間にか別の何かになっている。
確かにあの夜、偶然の再会がなかったら私と銀次は浅野さんの計画から抜け出せなかっただろうと思う。
それどころか、私は気が付いてさえいなかったかも知れない。自分で解る。私にはそう言う危うい雑さがある。
電話やメールが繋がらないだけで、人の縁が切れるって感覚が私にはよく解らない。銀次の部屋は隣だし、会社だって一緒だ。顔を合わせないでいるほうが難しい。
そう思っていた。でも、実際はどうだ。
あの夜、銀次が戻ってこなければ。私が酔っていなければ。どうなっていたか解らない。
だからあれは、確かにそうだ。幸運と呼ぶべき偶然だった。
でもな、それとこれとは違うんだよ。
こいつは奇跡だとばかりにきらめいた顔で語っているが、絶対そんないいもんじゃない。
私はさ、寝てたんじゃなくて酔い潰れたの。チーズを求めて人んちに入って、最終的にワイン泥棒として酔い潰れてたの。
どう考えても、苦々しい話だ。
できれば今すぐ忘れて欲しいし、広めないで欲しい。殴ればいいのか。頭を思い切り、殴ればいいのか。
よろよろと歩きながらそんな事を考えていると、銀次に腕の位置を直された。どうも危なっかしく見える様だ。
「もっとちゃんとつかまって」
「つかまってるけど、歩きにくいんだよ」
慣れないドレスも落ち着かないが、慣れない靴が特にいけない。
普段より高そうなスーツに身を包み、今日の銀次はもちろんぴっかぴかの貴公子だ。隣の私も、一応、それなりに、ぴかぴかしている。春先の新入生みたいなテイストで。
我が社の創立記念パーティーは、なかなか盛大なものだそうだ。高級ホテルの大きなホールで行われ、そのため会場まで辿り着くにはドレスコードと言う難関があった。
そんなの、私、一ミリも解らないから。今身に着けているものは、全部お願いして用意してもらった。
お母さんが張り切って、お世話係の松下さんが走り回り、銀次が横で混ぜっ返して、お父さんがカードを切った。
お父さんのカードは私には縁のない色で、金と権威で輝いていた。
そして、お母さんは厳しかった。靴には絶対のこだわりがあった。ドレスに合わせて選んでくれた美しい靴は、細く、硬く、凶器の様に鋭いヒールを持っていた。
変更は、相成らぬ。
お母さんは天使の様にふわふわきらきらした顔で、私を殺した。いや、死んでないけど。曲げて差し出された銀次の腕にしがみ付き、生まれたばかりの小鹿の様に生きている。
飾りの付いた柱の角を曲がった辺りで、ばったりとお兄さんに出くわした。
お兄さんは、察しがよかった。
「帰るのか?」
言い当てられて、私と銀次の顔には多分、ヤバイと太字で書いてあった。仕方がない。後ろめたさしかない。
忙しそうにお兄さんが席を外し、お父さんとお母さんが会場へ戻ったのをいい事にこっそり帰ろうとしていたのだ。ご挨拶もしませんで、ほんと。でも帰りたい。帰りたい。ほんと帰りたい。
強く念じたのが伝わったのか、お兄さんは別に止めなかった。
「まぁ……会場には、煩いのがいるしな」
お兄さんはそう呟くと、車を呼んでくれると言って自分のスマホを取り出した。
「え、ほんと? ありがと兄ちゃん」
銀次はぱっと顔を輝かせ、お兄さんにお礼を言った。その声と、重なる様に。
「銀次郎! 待ちなさい!」
廊下に響く大きな声は、私の後ろから聞こえた。お兄さんの視線が私を飛び越え、その人物を捉える。そして、苦そうに。
「沙妃子。抜けてきたのか」
「うるさいわよ。ね、あなたが平間さん?」
鋭い見た目のお兄さん相手に、ぴしゃりと言って私に尋ねる。
お兄さんに沙妃子と呼ばれたその女性は、存在そのものが華やかで派手だった。メイクはシャープできりっとしていて、タイトな形の赤と黒のドレスが細身の体によく似合う。
銀次が少し顔をしかめて、体を入れ替えて私と女性の間に入る。それを見て、彼女は目を見開きながら大げさに叫んだ。
「あんたが! 女を! かばうとか!」
「うるさいなー。ふみさんに構わないでよ」
「ダメよ。その人でしょ? ちゃんと、今言わなきゃいけないの」
彼女は銀次を押しのけて、私の前で少し屈むと顔をぐいっと近付けた。自分の赤い唇を心配になる程きつく噛み、それから思い切った様に口を開いた。
「浅野さんに頼まれて、わたしが銀次郎を呼んだのよ。嫌だったわよね。ごめんなさい。恋人がいるなんて、知らなかったの」
「それは、私も知らなかったです」
私それ聞いてない。何となくちくちくする胸を押さえて答えると、彼女だけでなくお兄さんまでびっくりしていた。
銀次も少し驚いてから、少し笑う。そして、ものすごく近くから私の顔を覗き込んだ。
「それきっと、ふみさんの事だよ」
「あー……何だ。私か」
びっくりした。恋人がいるのに私に面倒を掛けてるとしたら、理不尽さの余り銀次をコンクリに埋めてやるところだった。
沙妃子さんとは、つまり、社長のお嬢さんの事だそうだ。彼女は堂々としていて、気が強く、そして素直な人だった。
悪魔みたいな社長令嬢と聞いていたから驚いたが、よく考えると情報元は全部銀次だ。元々の印象が偏っていた可能性が大きい。
「気分悪いわよね。本当にごめんなさい」
私達が帰ろうとしていると知って、沙妃子さんはしょんぼりと猫耳を伏せた。存在しない猫耳が、私には見えた。
彼女は落ち込んだ様子で少し俯き、きれいなネイルの指先をいじいじと触る。しかしこうして露骨に気を落としながらも、銀次に対しては容赦ないのはさすがだと思った。
「銀次郎って、顔だけよくて中はふらふらでしょ? だからね、変な女に引っ掛かって大変な事になる前に、ちゃんとした人とくっつけちゃおうと思ったの」
「あー……私それ、よく解んないです。だってこいつ、すっごいワガママですよ。すっごい! ワガママ。相手がぐいぐいきたからって、流れで結婚なんかしますかね」
どうしても、そうは思えない。
でもこれはお母さんも似た事を言っていて、強引に押されたらなくはないって思ってるみたいだ。私には、それが解らない。
しかし解らない事が解らないと言うふうに、沙妃子さんは不思議そうに頭を傾ける。
「するでしょ。銀次郎だもの」
「以前なら、したでしょうね」
苦々しげにお兄さんまでもが頷くと、本人はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「前はね、そうだったんだ。どうでもいいって言うか、別に誰でも変わんないかなーって」
マジかよ銀次。
「今は違うよー。ふみさんいるもん」
自分にしがみ付いた私の手に、銀次はもう一方の手を優しく重ねた。そして、笑って。
「僕が欲しいのは、一人だけ」
当たり前の事みたいに、余りにさらりと。彼は、私を優しく見詰めながら言った。
甘さはなく、熱もない。けれど、だからこそ。それはまるで、本心に聞こえた。
「だったら、もっとちゃんとしたらどうだ」
呆れているのはお兄さんだ。
銀次はへにゃりと眉を下げながら、ちょっと唇を尖らせた。それから何かを思い付いたと言う様子で、楽しそうに笑って言った。
「ダメだよ。僕がちゃんとしちゃったら、ふみさんびっくりして逃げちゃうもん」
驚いた。
冗談みたいな銀次の言葉に、私は酷く驚かされた。耳の中でざらついた音がして、全身の血が引いて行く様な感覚がする。
何だ、そうか。今までずっと。
私は、この男に甘やかされていたのか。




