メイドさんがそこにいた
「…………………………死にたい、な」
「ご主人さま、大丈夫ですよ」
突然。
何の脈絡も無く。
なぜか。
メイドさんが、そこにいた。
見た目からして、ただただ、メイドさんとしか言いようのない女の子だ。
色素が薄めな黒髪の長髪。
メイド服や髪に、小さめなリボンが数個散りばめられている。
瞳は、桃色の様な、紫色の様な、ワインレッドの様な、そのどれともいえる色。
そう、例えるならば薄めのグレープジュースみたいな色。
そんな、女の子。
異常だ。
明らかな不可思議。
理解できない、可笑しさ。
ここは、俺の借りているアパートの一室。
俺の部屋だ。
何の変哲もない、会社員だった者の部屋。
そこに、唐突に現れたメイドさん。
ドアを開けた様子も、窓を開けられた気配もない。カーテンも閉まっている。そんな音は聞こえなかった。
なぜ、いるんだろうな。
一瞬、その思考は浮かんだ。
けれど。
瞬。
霧散。
そんな唐突な異常すら。
俺は、どうでもよかったのだから。
メイドさんの発した言葉に、なにが、とは訊く気も起きなかった。
俺はもう、何もかもどうでもいいんだ。
確かに、驚きはした。
大いに疑問ではある。
悪意を持って何かされるのではないかとも思う。
けれど、だからどうしたという。
何をされたところで、俺は終わっている。
なら、どうだっていいだろう。
考える気力すら、ほとんどないのだから。
既に考えすぎた。
思考自体久しく今の異常で起動したのだ。
もう、いいだろう。
限界だ。
ゆっくり、させてくれ。
メイドさんから視線を外し、白い壁へと視界を移す。
「…………」
……。
静寂が、場を支配しようとする。
と。
「ご主人さま。お腹空いてますよね? 今からすぐに作りますから、待っていて下さい」
メイドさんは、勝手にそんなことを言った。
閉め切ったカーテンを開きながら。
薄暗かった部屋内に太陽の光が差し込んで、眩しい。
俺は手で庇を作った。
メイドさんは俺に向き直り。
「昨日のお昼から何も食べていないじゃないですか」
「…………」
「だから何かお腹に入れておいた方がいいです」
メイドさんはそう話を締め括ると、キッチンへと移動する。
メイドさんは調理器具の場所を全て把握しているかのように、淀みなく準備を進めていった。
カチャカチャと調理する音が静かな部屋に響く。
俺は何もせず、再度壁を見続けていた。
次第にいい匂いが漂ってきて。
「完成ですっ」
十分後くらいには、その言葉が聞こえた。
メイドさんはテーブルの上に、料理したものを置く。
おじやだった。
湯気を立て、匂いが鼻孔に届く。
「さあ、ご主人さま、召し上がれ」
笑顔でメイドさんは両手を前に広げるポーズ。
――――。
その笑顔は。
あまりにも。
今の俺には、眩しすぎた。
「…………」
…………。
そんなことは、どうでもいい。
もう、どうでもいいんだ。
心を閉ざす。
思考を、閉めた。
「食べないんですか?」
「…………」
「……食べないと体に悪い、もとい精神に悪いですよ」
「…………」
「食べましょう」
「…………」
「食べないなら私が食べちゃいますよ?」
「…………」
「むぅ」
メイドさんは口を尖らせた。
「…………」
メイドさんは、器とスプーンを手に取った。
その銀食器でおじやを掬う。
「あ~ん」
パッと光るような、メイドさんの笑顔。
俺の口の前に突き出されるおじやの乗ったスプーン。
「…………」
「口、開けてください」
「…………」
「少し、開けるだけですよ」
「…………」
「美味しいですよ?」
「…………」
「待ってます」
「――」
なんだ。
「いつまでも待ってますからね」
その顔は。
メイドさんの表情は、すべてを包み込むような、慈愛の微笑みだった。
そんな顔、俺は向けられたこと、一度もない。
なん、だ。
なん、で。
そのような表情を、俺に向ける。
突然現れた、初対面の意味不明な存在のくせに。
…………。
くそっ。
メイドさんは、言葉通りに待っている。
スプーンとおじやの器を持ちながら、付き従う侍女、まさにメイドさんと言えた。
俺は。
口を開けた。
そこまでされたら、やはり食べないわけにはいかなかった。
何より、それでずっと待ってられても、困るだけなのだから。
……それが狙いだったのか?
それとも天然か。
俺には、知る手段はない。
俺の動きを見止めて、メイドさんが動く。
「では、あ~ん」
スプーンと一緒におじやが口内に入れられた。
咀嚼し、舌で味わう。
美味かった。
久しぶりに、本気で美味いと思えた。
「あ~ん」
続けてメイドさんがおじやを掬って差し出してくる。
再度口を開いて受け入れた。
やはり美味かった。
さらに続けてメイドさんがおじやを掬う。
「あ~ん」
二口ほど食べて、落ち着いてきたからか。
そこで、俺はふと、冷静になった。
よく考えたら、こんなことをされる必要はない、と。
俺は、子供ではないのだから。
「自分で、食べれる」
俺はそう言ってメイドさんからスプーンと器を引っ手繰った。
「あっ、私が食べさせますよ?」
「問題ない」
自分でスプーンを使い食べていく。
どんどん器の中身は減っていった。
そしてまた、ふと思う。
なんで俺は、突然現れた正体不明のメイドの料理を食べているのだろう、と。
なんか、流されたまま口に入れてしまったが。
見知らぬ他人が作った食べ物を、俺は美味い美味いと食っている。
根本的な不可思議。
無視していた現状。
そして、今更だが。
こんなにも現実的な味覚を感じる以上、これは夢でも幻覚でもないということなのだろう。
このわけのわからない現在は、本当に起こっていることだと。
――――。
けれど。
まあ。
どうでもいいか。
思考を放棄する。
「お粗末様でした」
器の中身を空にすると、メイドさんは片付けに行った。
俺は再度座り込み。
丸まり。
ぼーっとする。
思考を薄めていく。
食器を洗い終えたメイドさんが戻ってきた。
俺の、斜め前辺りの位置に腰を落とす。
「なにか、お話ししましょうか」
唐突に、メイドさんは両手を合わせて、そんなことを言った。
「…………」
食事はしたが、会話をする気など毛頭ない。
意識は、薄皮のように広がったまま。
「ご主人さまは、ゲーム好きでしたよね」
「…………」
「それのお話とか」
「…………」
「したく、ありませんか……?」
「…………」
「う~ん」
メイドさんは、口に手を当て、唸る。
沈思黙考。
そんな様子。
しばらく、蹲って壁を見つめ続ける男と、唸るメイドさんという奇妙な構図が続く。
そして。
ピコンっ、と。
唸るのをやめたメイドさんの頭周辺に、コミカルな電球が灯ったような感覚。
そんな想像が容易に出来てしまうほどに、パッと明るくメイドさんは笑ったのだ。
「なら、一緒にゲームやりましょうっ!」
名案とばかりにメイドさんは元気良く言葉を発した。
「…………」
「話さなくてもいいですから、一緒に遊びましょう」
「…………」
「私、ああいう電子? ゲームって一度やってみたかったんですよ」
「…………」
「ご主人さまがいつも楽しそうにやっているのを見ていたら、いつしかやってみたくなってたんです」
「…………」
「ご主人さまが楽しそうにゲームやってる姿、私大好きなんですよ」
「…………」
「本当に心から純粋に笑って、すごく楽しそうなご主人さま、また見たいです」
「…………」
「とくに、ロボットのゲームを楽しそうにやってましたよね」
「…………」
「一緒に、やりませんか……?」
控えめに首を傾げるメイドさん。
「………………」
メイドさんは、一度目を閉じ、開く。
「なら、今はいいです。休みましょう」
メイドさんは嫌な顔一つせず、穏やかに微笑み、そう言った。
その後、腰を上げ、少し移動。
俺のすぐ隣。
密着するほど近くに座り、寄り添う形になっていた。
近い。
とは思ったが、別によかった。
何が変わるわけでもなしに。
「……」
メイドさんから、なんというか。
いい匂い、甘い香りと言えるべきものが嗅覚に届いて。
少し心が落ち着いた――錯覚に陥った。
時が過ぎた。
大体、数時間ほどだろうか。
今は、窓から差し込む光がない。外が暗く、夜になっている。
「お夕飯作りますね、ご主人さま」
メイドさんが立ち上がり、キッチンへと向かう。
やはり淀みなく、楽しそうに調理を進めるメイドさん。
しばらく経つと。
昼とはまた違った食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「できましたっ」
メイドさんは皿を両手に持って、振り返る。
歩いて来て、テーブルにそれを置いた。
匂いで大体察しはついていたが、オムライスだった。
二つある、メイドさんの分も含めてだろう。
「ご主人さまオムライス大好きですよねっ」
自信を持った笑顔でメイドさんは言う。
確かに、小さい頃からの好物ではある。
「では、ご主人さま。いただきます」
メイドさんは儀礼のように言葉にした後。
一つの皿とスプーンを持ち。
「はい、あ~ん」
また、昼と同じことをしてきた。
食事は昼にしたのだから、食べるつもりはなかった。
しかし、昼と同じ状況になるのも望ましくない。
ならば、食するしかないだろう。
仕方なく。
俺はオムライスが、好きではあるのだから。
俺はメイドさんの差し出してくるスプーンをスルーし、テーブルに置いてあるもう一つのオムライスを手に取った。
「あ、ご主人さま……私、あ~んしたいのに……」
後半は小声だったが、ほとんど無音なこの部屋ではしっかりと聞こえた。
だが、気にすることではない。
俺はそれを、望まないのだから。
多分。
メイドさんの作ったオムライスは、料理店のものよりも美味いのではないだろうかと思えた。
そう。
まるで宮廷料理のような、その道のプロと言えるかのような。
宮廷料理を、食べたことはないが。
夕飯後、少し経った時。
「ご主人さま、お風呂入りましょう」
とメイドさんが口にした。
「…………」
食事は、生命活動に必須だ。
だが。
それは、必須ではない。
「ばっちくなっちゃいますよ?」
「…………」
俺は、家から出ない。
誰に、迷惑も、掛からない。
「入りましょう」
だから俺は、動かない。
立ち上がる気力すらないのだ。
「……入りましょう?」
「…………」
「お風呂、気持ちいいですよ?」
「…………」
「気分もすっきりしますし」
「…………」
「いいことずくめです」
「…………」
意識は、彼方。
「うーん」
「……」
「なら、身体だけでも拭きましょう」
妥協案を出してきた。
「それならできますか?」
――――――――――。
「放っておいてくれ」
メイドさんはすぐさま。
「いやです」
断言した。
絶対に譲らない。表情がそう言っていた。
「…………」
「もう一度訊きます。身体を自分で拭くことはできますか?」
「…………」
メイドさんは一息吐いて。
微笑み。
「仕方ないですね。なら私が拭きましょう」
なに。
「待て」
「待ちません」
メイドさんは、俺の服に手を掛けた。
強硬手段、ということか。
そのまま脱がそうとしてくる。
「なんで、そこまでする」
たまらず訊いた。
「ご主人さまに楽しく生きてほしいからです」
「俺は君を知らない、君も俺を知らないはずだ」
「確かに知らないと言えばそうかもしれないですけど、ご主人様が考えてるほどじゃないと思いますよ」
「どういう意味だ?」
「それはそうと、お風呂入りましょ」
「…………」
もういい、好きにすればいい。俺は動かないからな。
どうせ、ほんとに脱がすなんてできやしないのだろうから。
本当に脱がしてきたので全力で距離を取った。
「馬鹿かあんたは!?」
服を整えながら思わず声を荒げた。
「ふっふっふ、ご主人さま、メイドを侮らないことです。ご主人さまのためなら尿瓶を使うことすら分けないのですから」
戦慄。
メイドさんは、やはり正しくメイドだった。
献身度では介護士すら上回るであろう。
このままでは、介護されるように脱がされ見られ拭かれてしまう。
ならば。
「……わかった。入るから、もうやめてくれ」
仕方なく、風呂に避難することにした。
「はいっ。では、どうぞ」
メイドさんがニコニコしながら道を開けるように横に下がった。
俺は立ち上がり、部屋から出ていく。
まったく俺は、何をやっているのだろう。
洗面所で服を脱ぎ、洗濯機に放り込むと風呂場に入る。
お湯をかけてから、風呂に浸かる。
「ふぅーーーー……」
久しぶりに、湯船に浸かったように思えた。
不本意ではあったが、気持ちよくはあった。
ぼーっとしていると、次第に落ち着いていく。
そのまま、眠りにでも堕ちそうになった時。
物音。
ドアを開ける音。
衣擦れの音。
「…………」
風呂のドア、ガラス越しに見る。
メイドさんが、服を脱いでいる様子。
「はぁ…………」
もう、どうでもよかった。
元々落ち着いていなかったわけではないが、風呂に入ってさらに落ち着いたからか。
さらに冷静度が上がった結果か。
もう、好きにさせてもいいのではないのだろうか。と思えた。
むしろ冷静さを欠いたトチ狂った結論の可能性もあるが。
いいのではないかと思ったのなら、いいのだろう。
誰かもしれない、警戒するべき相手。
確かにそうかもしれない。
けれど、そうだとしても、最初に思った通りに、最終的な至り。
どうでもいい。
ということだ。
靄の掛かったガラス越しにタオルを巻いた姿。
「お背中流します」
ドアを開け、入ってくるメイドさん。
その体は、端的に言ってしまうと白かった。
触れたくなるような、艶めかしい白さだった。
均整の取れた魅力的な体つき。
太ももは、凝視してしまうほど滑らか。
素敵な体だと、心から思った。
思いはした。
下半身が反応もしたにはした。
けれど。
動揺は、しなかった。
流すことは、容易だった。
なぜか、安心感があったからだ。
それと、元からの無気力感。
二つの影響。
「では、一旦湯船から上がってください」
「…………」
「それとも、もうしばらく浸かってからにしますか?」
「…………」
全部言われるまま、思考停止で流されることを決める。
タオルを腰に巻き、立ち上がる。
風呂椅子に腰を落ち着けた。
メイドさんが、自らのタオルを取り払う。
一瞬桃色が見えた気がしたが、すぐに目を逸らし壁を見つめた。
俺は、思春期ほど性に貪欲ではない。
一応、紳士のつもりだ。
今の俺に、性も紳士もくそもないだろうけれど。
メイドさんは、風呂桶で自分の身体に掛け湯をした。
そしてボディソープをメイドさんは自身に塗りたくった。
後ろから抱き付いてくる。
温かい、柔らかい、主に二つのふくらみが。
メイドさんは全身を使って、俺の身体を洗い出す。
華奢で綺麗な手は、胸や腹、腕、足を。
柔らかな胸や腹は、背中を。
優しく、丁寧に、洗っていく。
やけに楽しそうに、メイドさんは背中を流していた。
首や耳に、吐息が掛かる。
なんというか。
今更だが。
俺はすごい状況にいるのではないだろうか。
「こちらも洗いますね~」
股間に手を伸ばしたのでそれは阻止して自分で洗った。
好きにさせるとはいっても限度がある。
その後、頭もメイドさんは洗った。
一瞬。
ほんの一瞬。
別に、覚えてもいなかったことだというのに。
昔、母親に頭を洗ってもらった幼い記憶を、思い出した。
風呂から出ると、何もしたいことがないこともあり、眠気が襲ってきた。
敷いてある万年床に横になる。
頭を乾かすのもメイドさんがやると言ったので任せたが、ドライヤーを向けられ頭を撫でられる感覚は、まるで介護されている気分だった。
そんな気分になってしまったものだから、歯磨きは自分でやった。
瞼を閉じようとした時。
ゴソゴソと、なぜかメイドさんは俺の布団に入ってきた。
メイドさんは、寝るときもメイド服だった。
もう、何も言うまい。
好きにさせると、決めたのだ。
例え、この後眠った後に、命を奪われるようなことがあったとしても。
メイドさんは、まるで守るように俺を抱きしめ、包んできた。
「おやすみなさいご主人さま。大丈夫ですからね」
なぜ――
なぜ君は、そうやって――
俺は眠気に耐え切れず。
意識は、穏やかに落ちた。
意識が、浮上してくる。
段々と、上へ。
なんだか、安らかな、感覚。
癒される、絶対的な安心感。
それを感じながら、瞼を開けた。
メイドさんがいた。
一度寝て目を覚ましても、メイドさんは存在していた。
昨日からのことは、夢ではなかったということ、か。
そして、俺は死んでいなかった。
殺されるどころか、そのメイドさんが、微笑みながら俺を抱きしめて。
なぜか頭を、撫でていた。
「あ、起きました? おはようございます、ご主人さま」
朝に似合う、陽光のような笑顔だった。
「では、今から朝ごはん作りますね」
メイドさんはそう言って立ち上がり、キッチンの方へ向かった。
「…………」
俺は二度寝した。
――――。
「……ご主人さま~……起きてくださ~い……」
ゆすりゆさり。
控えめに肩を揺すられる。
目を開けると、揺するメイドさん。
胸部も揺れていた。
たわわだ。
たわわ以外の何ものでもない。
俺は昨日これを直に押し当てられていたのか。
それはともかく。
起き上がった。
「ご飯もう出来てますよ。冷めないうちに食べましょう」
テーブルには、朝食が並んでいた。
食パン、目玉焼き、スープ、サラダ。
オーソドックスなブレックファーストだろう。
けれど、一品一品が高級に見えた。
まるで豪華なホテルの朝食の様な。
一流シェフが作ったみたいな。
そんな雰囲気。
メイドさんは、それほどの料理の腕を持っているということか。
それは昨日の時点で分かっていたことかもしれない。
ただのおじやでさえ、食べる手が止まらなかったのだから。
俺はメイドさんと共にその朝食を頂いた。
やはり、見た目通りに美味だった。
朝食後。
「ご主人さま、ゲームしましょう。やってみたいです」
だったら一人でやれよ、とは言わなかった。
流されると、決めたのだ。
拒否して面倒なことになるのも勘弁願いたいのだから。
「なにを、やる」
「ご主人さまがいつもやっていたロボットのゲームがいいです」
ニコニコしながら答えるメイドさん。
テレビ前に置いたままのゲーム機を起動する。
すでにそのゲームのCDROMはセット済みになっていた。
前は何度もプレイしていたのだから当然だ。
ホーム画面が出ると、日にちや曜日が分かった。
思わず自嘲の笑みを浮かべる。
月曜日だってよ、はは……。
月曜日の朝からメイドさんとゲーム。
笑える。
前の俺では考えられなかった。
ソフトを起動。タイトル画面が出る。
「このゲームは結構難しいから、まずは一人でやってみるか? それともいきなり対戦してしまうか?」
とりあえず訊いた。
「ご主人さまと一緒にやりたいので、まずは対戦してみます」
そう言うのなら、そうしよう。
コントローラーの二つ目を引っ張り出して端子に刺し、メイドさんに渡す。
コントローラーを持ち、ワクワクしながらメイドさんは待っている。
ワクワクメイドさんだ。
対戦の項目や設定を適当に選んで決めた、ほとんどデフォルトだ。
一対一の、崩壊したビル街のフィールド。
武装はお互い初期装備で。
さあ、始めようか。と思ったところで重要なことに気がつく。
ゲームが入っていたパッケージを取り出しパカッと開け、中のそれなりに厚い紙束をメイドさんに渡す。
「まずは説明書を読んで操作を覚えてくれ」
そう、メイドさんは操作すら知らずに戦場に出ようとしていたのだ。
死にに往くようなものだろう。
「あ、そうですよね」
メイドさんは自分の失態に苦笑いし、説明書を開いた。
しばらくメイドさんが読み込んでいる間、俺はぼーっとしていた。
途中でメイドさんに訊かれたところはちょうど起動しているゲームで実演してみせた。
メイドさんはうんうんとか、ほうほうとか唸りながら知識を蓄えていく。
そうして。
「覚えました」
とメイドさんが言ったので、ゲームを始めることにした。
すでにワンボタンで対戦可能な状態にして置いたので、すぐに始める。
数分後に対戦は終わった。
ボッコボコだった。
メイドさんが。
それはもう見事にボッコボコだった。
「難しいです……」
メイドさんしょんぼり。
俺はこういうもので手加減はしたくない主義だ。
対戦相手にも失礼だろう。
だから全力で潰したのだが。
なんだろう。
少しの罪悪感。
そもそも初心者にはきついゲームなのだこれは。
そしてメイドさんはゲーム自体やった事無さそう。
結果、このとおりである。
「もう一度です!」
だがメイドさんはポジティブだった。
ポジティブメイドさんだ。
それから何度も対戦したが、メイドさんはその全てで敗北した。
「あう……」
またしょんぼりメイドさんに逆戻りしてしまったので、俺は提案する。
「ならば、協力プレイにしよう」
そう、このゲームは一対一の対戦だけでなく、チーム戦も出来るのだ。
だったらなぜすぐにそっちに移行してあげなかったのかと思いはするが、まあ、初心者を力のまま蹂躙するのはちょっと楽しいなとも思ってしまったのだから仕方がないのである。
俺の提案に、メイドさんは顔を輝かせた。
「それにしましょうっ。私、ご主人さまと共に戦いたいです!」
もっと別の場面で聞きたいようなセリフだった。
ネット対戦で、メイドさんとチームを組んだ。
早速、名も知らぬ画面向こうの相手との対戦を始める。
数分後、対戦は終わる。
負けた。
ボロ負けだった。
俺は、メイドさんのフォローに集中するあまり、隙を晒し過ぎた。
そしてメイドさんは、ド下手だった。
これが敗因だ。
「ごめんなさ~い!」
別に、謝るほどのことでもないが。
「次こそは何とかしますから!」
と、メイドさんが言うので数回ほどやってみたが、全部メイドさんのポカで負ける。
フォローせずに一人で戦ってみても、数の不利で敗北。
俺自体、中堅ほどの腕しかないのだ。
無双は出来ない。
「私、頑張ります!」
私、気になります! みたいな言い方だった。
メイドたそ~。
「ちょっと、一人でやってみていいですか?」
俺は特にこれといった意思はなかったので、頷く。
メイドさんは練習しだした。
それはもう、真剣な顔して。
ハマったのだろうか。
それとも負けたのが嫌なだけか。
それはどっちにしろハマったという意味になるか。
苦戦しながらも試行錯誤しているのがメイドさんの様子とゲーム画面からうかがえる。 俺はそれを眺め続けた。
なんだかメイドさん、楽しそうだな。
しばらくメイドさんが練習した後、対戦した。
すると、勝利したのは俺だが、少しは善戦するようになったメイドさん。
ゲームセンスはそこまでないのか、まだまだではあるけれど。
蹂躙ではなく、一応戦いにはなるようになった。
たった数時間だけとはいえ、努力が分かる。
なんて、偉そうに言えるほど俺も上手くはないのだが。
そうして、今日はずっと、メイドさんとゲームをし倒していた。
昼も夜も言われるまま食事をして、また二人で風呂に入って、一緒の布団に入ってきたので昨日と同じく同衾。
そんな風に、流されるまま過ごした。
今日は、メイドさんとゲームをしているだけの一日だったな。
しかも、月曜日で。
はは。
笑える。
朝。
光が差し込む。
目が覚めると、まだメイドさんはいた。
しっかりと、一人の存在として、いた。
昨日と同じく、俺を守るように抱きながら。
メイドさんが、いなくなっていない。
それに少し、安心してしまった。
二日しか過ごしていない相手だというのに。
俺はそんなにチョロかっただろうか。
それほどでも、なかったような気がするのだが。
まあ、いい。
己の心に、従おう。
――――それから数日。
メイドさんと過ごした。
ある時は「トランプで遊びましょう!」とメイドさんが言ったので、二人だと大して面白くもないババ抜きをやったり、後、ポーカー、スピードやらで遊んだ。
メイドさんは、そこそこ強かった。
ある時は「バ○ルドームをしましょう!」とメイドさんが高らかに云い、あのよく解らない玩具で遊んだ。
つまらなかったので即終わった。
ある時は、マ○オパーティを二人でプレイした。
誰かが来た時用に一応買っておいたが、あまりやらずに埋もれていたゲームだ。
たった二人でやったパーティゲーなのに、少し盛り上がった。
ある時は、ジェンガ。
崩れそうな時に発狂しながら積み上がった塔を両手で破壊するのが楽しかった。
あれ一度やってみたかったのだ。
ある時は、TRPG。
ある時は、またロボットゲーム。
ある時も、ロボットゲーム。
ある時は。
ある時は……
ある時は――
そうして俺は、メイドさんのことを、すっかり他人のような気がしなくなっていった。
ある時。
前よりも、少しの元気を取り戻した俺は、考えた。
トランプやジェンガ、バトルドーム。
俺はあれらを、持っていない。
元々この家には、ない物だった。
さらに、毎日作られる美味い料理。
食材を買い足している様子はない。
メイドさんは、俺と共にずっと家にいるのだから。
そもそも、冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかったはずだ。
俺はあまり買い置きはしない人だった。
なぜだろうな。
というより。
そもそも。
そもそも、そもそも。
原点。
最初から、おかしかったのだ。
色々と。
なぜメイドさんがいるのかとか。
今まで、考えて、いなかったけれど。
どちらでもいいことだったから。
しかし。
今は、少し気になる。
だが、直接メイドさんに尋ねることはしなかった。
それは、なんというべきか。
第六感のようなもので感じたと言えるのか。
とにかく、この生活が瓦解してしまうような予感がして、怖かったからだ。
だから俺は、今日も訊かずにメイドさんと過ごす。
買い物に出かけた様子もないのに出てくる豪華な料理。持っていない色々な娯楽物。
それらを楽しみながら。
甲斐甲斐しく世話してくれるメイドさんと、生活していく。
――――あと。
特に、気にするほどのことではないと判断したが。
たまに、部屋の隅に黒い染みのようなものを見る気がした。
――――。
ある日。
「今日は気分転換に、出かけてみましょうっ」
メイドさんが、そう言った。
初めて、家から出ようと提案してきたのだ。
「……出かけないと駄目か?」
できれば、外には出たくなかった。
家でメイドさんと二人でいる方がいい。
「はい。出かけないとダメです。私出かけたいです。デートですよデート。ご主人さまとデートしたいです」
…………。
笑顔でそう言われては、あまり頑なに断る気も起きなかった。
できれば出たくないだけで、絶対に出たくないわけでもないのだから。
「なら、行こうか」
「はいっ」
俺は、メイドさんと家を出た。
陽が瞼を焼く。
久しぶりに、日光を直に浴びる。
俺はアンデットか何かのように、太陽に煩わしさを覚えた。
提案されるまま家から出たが、重要なことを決めていなかった。
「どこに行くんだ?」
目的地が定まっていない。
「とりあえず歩きましょう。どこに行くかは移動しながらでも決めましょう。ぶらぶらするだけでもいいですし」
メイドさんがそう言うのなら、それでいいいか。
俺は別にどこでもいいのだから。
ぶらぶらした。
あてもなく、メイドさんと二人で。
メイド服を着たメイドさんの姿は、他人の目を引くかと思ったが、そうでもなかった。
おかげで気兼ねなくのんびり歩けている。
しばらく歩くと、商店街に出た。
歩いて行く。
メイドさんはずっと俺の隣に寄り添って、まさに侍女といった様に慎ましやかな雰囲気で歩いている。
こうしてメイドさんと歩くだけというのも、悪くない。
そう、思えた。
と。
メイドさんが立ち止まった。
「どうした?」
俺も立ち止まって、尋ねる。
「このお店に入りたいです、いいでしょうか?」
メイドさんの視線の先には、服飾店。
服が欲しいのだろうか?
「俺は構わないが」
目的地も、なかったわけなのだし。
「ありがとうございますっ。では、入りましょう」
自動ドアを潜り、俺たちは店内に入った。
内装は、特筆する点のない普通の服屋だ。
メイドさんはさっそく女性服――ではなく男性服のコーナーを物色し始めた。
男装したいのだろうか。
いや、分かっている。多分、俺の服を選んでいるのだろう。
一応聞いてみる。
「誰の服を選んでいるんだ?」
「もちろん、ご主人さまのお召し物ですよ」
予測通りの回答。
だが、俺は服などに興味はない。
買ってほしいとも頼んでいない。
「俺は、別になくてもいいのだが」
「私が選びたいんです、着てほしいのです」
「……そうか」
なら、仕方がない。
もとより流されると決めた身。これ以上は何も言うまい。
「ご主人さま、いつも部屋着ばかりですからね。今もそうですし」
以前は仕事仕事で、スーツと部屋着のローテーションだった。
服には特に頓着せず、出かける用の私服など持ち合わせていなかった。
「だから、かっこいい服を着るといいと思うんです」
メイドさんは、嬉々として俺への服を選びながら、そう言った。
「決めました! これとこれ、そしてこれを試着してみてくださいご主人さま!」
渡されるままに受け取り、試着室に入る。
上も下も着替えて、試着室内の鏡で自分の姿を見る。
俺は服についてはよく分からない。
なのであえて形容するなら、メイドさんが選んだ服は街を歩いているイケメンが着てそうな服だ、といえるだろう。
俺には似合わないと思うのだが。
それとも馬子にも衣装というやつか。
まあ、なんでもいい。
試着室のカーテンを開けた。
試着室の前で待っていたメイドさんの視界に、俺の姿が入ったことであろう。
微妙な顔をしてくれてもいいぞ。
俺自身あまり似合ってるようには思えないからな。
しかし、メイドさんはふんわりと笑顔になり。
「とっても似合っていますよ、ご主人さま」
そんなことを言った。
……。
そうか、似合ってるのか。
「一段とかっこよくなりましたよ、ご主人さま」
メイドさんは、そんな言葉を続けて発した。
……。
そうか、かっこいいか。
自分では、あまり似合ってる気がしなかったが。
そう言われると、悪い気はしない。
メイドさんがいいというのなら、それでいい気がした。
「では、購入決定ですね」
メイドさんは今にも小躍りしそうな笑みを浮かべている。
何がそんなに楽しいのか。
わからない。
わからないが。
俺も少し、いい気分になった。
俺が元の服に着替えると、試着した服をメイドさんがレジへ持って行こうとする。
「待ってくれ」
「なんですか?」
俺はメイドさんを呼び止め、振り返ったメイドさんに取り出した財布を差し出す。
「これで払ってくれ」
流石に自分の服の金を理由もなく女性に出してもらうのは駄目だろう。
けれどメイドさんは首を振り。
「ご主人さま、これはメイドの務めです。お気持ちだけ受け取っておきますから、それは仕舞ってください」
「だが」
「今度」
食い気味に俺の言葉は遮られる。
「今度、必要になったら頼みますから」
優しく微笑むメイドさんに、俺は次の言葉を放つ事が出来なかった。
俺はここでも、流されることを決めたのだ。
結局やんわりと断られた俺は、メイドさんが購入している間、手持無沙汰に突っ立ってぼーっとしていた。
一瞬。
メイドさんにも服を選んであげようか。それが、先にメイドさんが言った必要になった時なのではないか。
と、ほんの一瞬思ったが。
すぐに思い直す。
確かに女性に服を買ってあげるのは悪くない考えだろう。
ましてや今自分の分をメイドさんが買ってくれているのだ。
だが。
しかし。
あえて言わせてもらうのならば。
メイドさんは、メイド服だからいいのだ。
俺は、そう声高々に宣言したい。
なので、メイドさんをそのまま突っ立ったまま待った。
やがてメイドさんが戻ってくると、俺たちは店を後にした。
店を出た後、またぶらぶらと二人で散歩する。
当てもなく、目的地のない、歩行。
何が良いのか解らない歩み。
だが、やはり、悪くない。
だからそのまま、足を進めていく。
相変わらず、ほんの少し煩わしい陽光を浴びながら。
のんびりと。
穏やかに。
和やかに。
寄り添うメイドさんと共に、散歩をした。
――――。
と。
俺は、立ち止まった。
思考が、数秒の間、停止した。
眼球を通して視える先。
そこに、何か、変なものが。
いた? あった?
どちらか、判らない。
とにかく、いたのだ。
黒い、球体。
そうとしか云えないモノ。
だが固形物にも見えないモノが、浮いていた。
脈絡がなく、唐突に現れた理解不能な存在。
およそ現実的でない光景。
――それを言ったら、ここ最近もそうか。
メイドさんが唐突に現れ、共に生活する。
同じぐらい、突飛なことなのかもしれない。
黒く黒い、ただただ黒いだけの浮遊する球体。
未知の超常。
わけの解らない異常。
けれど、なぜか。
恐怖心は、湧かなかった。
あんなもの、怖がらない方が異常なのではないかと、自分でも思うのに。
まったく、恐怖心が刺激されなかったのだ。
これは幻覚か? 夢か?
そんな常識的な考えを浮かべてみた。
だが。
それにしては、現実感があり過ぎた。
確かめる術も、ない。
「そんな……もう、こんなところに……」
メイドさんが、震える小さな声で喋った。
「まだ……駄目なんです。ご主人さまが……」
ぶつぶつと呟くメイドさん。
何か知っているのだろうか。
どういうことかと、訊こうとした。
刹那。
メイドさんが俺の手を取り、走り出した。
俺は驚き、転びそうになりながら、引っ張られるまま足を動かす。
メイドさんが、この上なく必死そうだったから。
全力疾走していたから。
俺たちが走り出すと、同時。
黒い球体も、動いた。
追いかけてきたのだ。
全力疾走で逃げながら、理解不能な浮遊する黒い球体に追われる。
そんな状況に在りながら、俺は未だにあの黒い球体に恐怖心を抱けずにいた。
メイドさんが逃げたそうだから、一緒になって走る。
ただただ、それだけだった。
逃げて、逃げて、逃げた先。
俺の――現在は俺たちの住むアパートの一室に逃げ込んだ。
部屋に入ると、意味があるのかは知らないがメイドさんは即座にドアの鍵を掛けた。
「「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」」
二人して息を切らし、空気を求めてしばらく呼吸を繰り返す。
汗が大量に垂れ、疲労感がどっと押し寄せてくる。
深呼吸をして、落ち着いたところで、メイドさんは一言。
「タオル、取ってきますね……」
そう言って、俺の横を通り過ぎて行った。
メイドさんの汗の匂いが、鼻孔を掠める。
野郎の汗臭いものとは違って、悪くない香りだった。
メイドさんがタオルを手に戻ってくると、自然に俺の汗を拭く作業に移った。
「俺は自分で拭く。君も汗を拭うといい」
メイドさんからタオルを奪った。
「あ、私が拭きますよっ」
俺はその言葉を無視して汗を拭き始める。メイドさんは例の如く不服そう。
俺は一息ついたことで口にする。
「それで、あの黒いやつはなんだ?」
疑問に思ったことをメイドさんにぶつけた。
メイドさんは、固まった。
「先程、何か知っているようなことを呟いていたが、どういうことだ?」
沈黙。
それが、メイドさん選択した行動だった。
俯き気味に、眉を下げた悲しげな表情で黙ってしまったのだ。
「だんまりでは、何もわからないのだが」
メイドさんは、答えてくれない。
俺も何も言えなくなってしまい、静寂が数秒か、数十秒か、あるいは数分、支配した。
そして。
メイドさんは、ようやく口を開く。
「ご主人さまは、今の生活を気に入ってくれてますか?」
恐る恐るといったような問い。
不安な顔をしたまま、メイドさんは待っている。
俺は。
考えるまでもなく、答えた。
「気に入っている」
一言。簡潔に伝えた。
メイドさんとの日々は、いつしか俺に安らぎを与えてくれていた。
いまだ得体の知れないメイドさん。信じていいのかの判断材料もない。
けれど。
メイドさんは敵ではない、と、なんとなく思う。
メイドさんにはなぜか、まるで家族のような安心感を覚えるのだ
理由は、わからないが。
本能とか、心の奥とかからそうなんだと思えてしまうというか。
とにかく、俺はここ最近の毎日が充実している。
俺の言葉を聞くと、メイドさんの表情は和らぎ。
「なら、知る必要はないです」
これまた簡潔に、返してきた。
「……何もわからないまま、それで納得しろと?」
「してもらうしかありません」
メイドさんは、譲る気がなさそうだ。
俺は、流されると決めてはいた。
だが、これは例外にも思える。
先程も、異常な状況の後でなんとなく反発したくて、汗を拭かせたままではなく自分で拭いた。
流されてもいいだろうか。
それとも追及すべきか。
考えたところで、結局正解など知ることはできないが。
答えの出ない思考の迷宮。
判断材料が少ないのもそれに拍車をかける。
けれど、危機感や焦燥感は、なかった。
あの黒い球体に恐れを抱けなかったからなのだろうか。
疑問ではあるし、知りたくもあるが、そこまで強硬に聞き出すほどかと訊かれれば、迷ってしまう。
「けれど、どうしても知りたくなったら言ってください。ある日が過ぎたら私は答えることを拒みませんので」
そんな意味深なことを言って、メイドさんは微笑んだ。
「ところで、この汗の量は拭くよりもお風呂に入った方がいいと思いませんか?」
今更、メイドさんはそう提案するのだった。
静かな、浴室。
ポタ、ポタ、と僅かな水音が響く。
浴槽に浸かって、温かい全身。
そして、その中で特に暖かい背中。
柔らかい感触が密着する、背中。
俺はなんでだか、メイドさんに後ろから抱かれたまま風呂に浸かっていた。
なんでだか、ではないか。メイドさんがそう望んだからだ。そして俺は流されるまま好きにさせただけだ。
ぎゅっ、とするように抱きしめてくるメイドさん。
それは、精一杯の労わりを含んでいるように思えた。
全身を使った抱擁は、この上なく、暖かかったのだから。
体温だけではない、何かが。
メイドさんは、絶えず安心させるように包んでくる。
俺はリラックスして体を預けた。
「だいじょーぶですからね。私は最後まで……」
また、そんな意味深なことを言う。
普通なら疑ってしまうぞ。
しかし。
それでも、その言葉は優しく、柔らかく、体と同じく暖かかった。
守る力に、満ちていた。
ああ……。
このまま眠ってしまいたい。
そのまま眠るのは我慢し、風呂から上がり、ちゃんと布団で寝た。
相変わらず、メイドさんと共に。
風呂の時と同じく、守るように包まれながら。
次の日。
メイドさんといつも通りに娯楽を楽しんだ。
その次の日も。
次の日も。
さらに次の日も。
俺は何日も、疑問を保留にしたままメイドさんの好きにさせた。
いや。
俺が、メイドさんと過ごしたかったから過ごした。
俺が自分から、流されに行ったのだ。
責任を他に押し付けるのは良くない。
これは俺が、望んだことだ。
――――。
だが。
何日も過ごして、わかった。
疑問を残したままでは、心底から楽しむことはできないと。
モヤモヤが片隅に残って、気になってしまう。
それでもこの日々が続けばいいと思っていた。
しかし、そんなものを残したまま続けたら、どこかで限界は来てしまう。
それが、今だ。
ある日。
俺はついに、口にした。
「どうしても知りたくなったら言えといっていたな。俺は知りたくなった。だから教えてくれ」
メイドさんは微笑み。
「ある日を過ぎたら答えることを拒みません、とも言いましたよ。なので今は教えられません。でも、期日が過ぎたら必ず教えます」
俺はそれで、一応納得することにした。
このままいつも通りにメイドさんといたいというのも、また本心だったから。
そうして、また何日か経った。
穏やかな、毎日ではあった。
そして。
ある一日。
メイドさんが朝から、いつもと違うことを言った。
「今日は、一人でお出かけして来て下さい。夕方くらいに帰って来ていただけると嬉しいです」
「なぜだ?」
「聞かないでくれると嬉しいです」
笑みを見せているというのに、有無を言わせぬような態度だった。
「まあ、いいが」
メイドさんがそこまで望むのなら、拒む必要はないか。
ここは、流されてもいい時だと判断した。
俺は家を出、適当に街を散策した。
散歩から始まり、公園のベンチでゆっくりし、昼はラーメン屋で麺を啜り、店を何件か冷やかし、河原で川のせせらぎを聞きながら持ってきた携帯ゲーム機で暇を潰した。
そんな風に適当に時間を使っていたら、いつの間にか空は茜色に染まっていた。
夕刻だ。
そろそろ、帰ろう。
俺はセーブをしてゲーム機の電源を落とし、腰を上げた。
ゲーム機をポケットに仕舞いながら歩きだす。
…………。
特に考えなかったが。
メイドさんは、なぜ俺を一日外に出したのだろう。
帰り着いたら、分かるだろうか。
そんなことを考えながら。
俺は歩いた。
住んでいるアパートに着いた。
俺が借りている一室の前まで歩く。
メイドさんはどうしているだろう。
なんて思いながら、ドアを開けた。
パーンッ!!
「っ!?」
ドアを開けたと同時に破裂音が響き、俺は心底驚き心臓が跳ねた。
――正直。
終わった、と思った。
破裂音は、銃声か何かかと考えてしまった。
俺は、最近色々気にしなさ過ぎた。
あの黒い球体も、メイドさんのことも。
だから、もしかしたら。
俺は判断を誤り、もっと疑うべきで。
今、そのツケが返ってきたのかと。
己の命で支払わなければならないときが来たのかと。
そう、思ってしまった。
それでもいいとも考えた。
最初は、何がどうなったとしてもどうでもいい、という思考に至ったからこそ気にしない選択をしたのだから。
だが。
身構えた俺の耳に入ってきた声。
「ハッピーバースデーご主人さま!」
それは、暗い想像とは程遠い、明るい声だった。
見ると、目の前でメイドさんが満面の笑みをして、頭に三角錐型のパーティー帽を被り、クラッカーを持っている。
つまり、先の破裂音はクラッカーの音だったのか。
視線を他にも向けると、部屋の中は変貌していた。
華やかな色のリボンや折り紙が飾り付けられた、華々しい部屋へと。
一瞬他人の部屋かと疑ってしまうが、メイドさんもいるのだし俺の部屋なのだろう。
それに、メイドさんの言葉から察するにこれは。
「誕生日、パーティー……?」
ということなのか。
「はい! 今日はご主人さまの誕生日ですからっ」
俺の、誕生日。
確かに。
言われてみると、そういえば今日は俺の誕生日だった。
忘れていた。
そんなこと、今までどうでもよかったから。
他人から誕生日を祝われたのは、いつぶりだろうか。
なんだか、胸に熱が灯った。
「おかえりなさい。さあ、こちらへどうぞご主人さま」
メイドさんに誘われるまま行くと、テーブル。
その上に、白いクリームとフルーツに彩られた、ホールケーキが在った。
ケーキに乗っているプレートチョコに"ご主人さま誕生日おめでとうございます"と書かれている。
「これは……?」
「私が腕によりをかけて作りました! ご主人さまに喜んでほしくて」
満面すぎるほど満面の笑み。
メイドさんは、祝われている俺よりもなぜか楽しそうだ。
「あ、外にいたのですからまずは手洗いうがいですね。してきてください」
「……ああ」
律儀にメイドさんは言ってきた。
俺は洗面所で手洗いうがいをしながら、思う。
今日一日俺を外に出させたのは、誕生日パーティーの準備をするためだったのか。
俺を、驚かすために。
喜ばせるために。
「…………」
少し。
頬が緩んだ。
カーテンが閉まり、電気が消された暗い部屋。
蝋燭の明かりだけが、照らしている。
「はっぴばーすでー、とぅーゆー! はっぴばーすでー、とぅーゆーっ! はっぴばーすでーでぃあ、ご主人さま~! はっぴばーすでーとぅーゆー!!」
パチパチと拍手するメイドさん。
俺は部屋を照らす蝋燭群を息で吹き消した。
さすがに二十六本もあると一息で消すのは無理だった。
わざわざ歳と同じ本数揃えなくてもよかったのではないかと思うが、メイドさんが楽しそうなのでいいか。
メイドさんは立ち上がり、電気をつける。
「誕生日おめでとうございますご主人さま。私は、ご主人さまが生まれてくれてよかったと、嬉しいと思っています!」
後半、少し妙な言い方だった。
しかし心は暖まり。
俺も嬉しく思った。
「ではご主人さま、召し上がれっ」
食べやすいカットケーキサイズにメイドさんが切り分け、俺の目の前に置いた。
メイドさんは、満面の笑みを絶やしていない。
本当に、楽しそうだ。
「いただきます」
俺はフォークを手に取り、一口食した。
甘い。
そして。
「美味い」
もう、それしか言えなかった。
「ありがとうございます、ご主人さま」
メイドさんは、ニコニコしている。
俺は、次々にケーキを口に入れていく。
プレートチョコも齧り、イチゴやキウイといったフルーツも堪能する。
美味くて、美味くて、目が熱くなってきて。
けれど。雫はなんとか、溢さなかった。
メイドさんは、夢中に食べる俺の様子を、両手で頬杖を突きながら微笑んで見ていた。
「君も、食べるといい。俺一人では食いきれない」
ずっとメイドさんは俺を見ていたのでそう声を掛けた。
成人男性とはいえ、一人でホールケーキを丸ごと一つ食すのは不可能だ。
少なくとも俺は無理だ。
「あ、はい、では、いただきますね」
メイドさんは頬杖を解き、食べ始める。
俺は食べながら、部屋を見回す。
リボンや折り紙、一つ一つが手作りに見えた。
精緻な作りで、一昼夜で用意できるものでもないだろう。
「この飾り、どうやって用意したんだ?」
気になったので、訊いてみた。
「はい、これはですね、事前に作っておいたものがほとんどですけど、今日ご主人さまがお出かけしている時にも作って少し足しました」
「そうか」
「心を込めて、手作りしましたっ」
また、満面の笑み。
「……そうか」
なんだか。
自意識過剰でなければだが。
飾りを眺めていると、その一つ一つが。
熱い想いが込められているように見えてしまった。
気恥ずかしい感情に駆られる。
俺は……。
正直、かなり嬉しかった。
やがてケーキを完食し、二人だけの誕生日パーティーはお開きな雰囲気へと移る。
メイドさんは、飾りを片付けなかった。
その後はパーティーの余韻を保ったまま、メイドさんとゲームをした。
ロボットゲーだ。
メイドさんとやっている内に、楽しさを取り戻したゲームだ。
馬鹿みたいに毎日やっていた、あの頃の楽しい気持ちを。
メイドさんは、前よりちょっと上手くなっていた。
夜。
布団の中で。
メイドさんは、いつもよりくっ付いてきた。
確かにいつも俺を抱きしめて寝ていたが。
今日は、そのいつもよりもスキンシップが過剰だった。
今までよりも強く抱きしめられ。
それだけでも最上位の密着といえるだろうに、さらにメイドさんはくっ付いてきた。
頭をすり寄せ、足を絡ませ、全身でさらなる上の密着を求めてくる。
俺は、いつも通りに好きにさせ、流された。
心が落ち着く。
安らぎだった。
次の日の朝。
朝食後。
飾りがそのままの、少々華やかすぎる部屋で、のんびりしていた。
と。
メイドさんが、俺の向かいに座った。
「では、ご主人さまが知りたいこと、お話ししますか?」
メイドさんの言葉と共に。
空気が、変遷する。
俺の、知りたいこと。
「もう、話してもいいのか?」
「はい、期日は過ぎましたので」
期日が過ぎた。
つまり昨日。
俺の誕生日が、期日?
どういう意味が、あったのか。
「でも、答えるとは言いましたけど、私は知らなくてもいいと思います。それでも知りたいですか?」
今更、後には引けない。
この心のしこりは、知らないまま過ごしていくことでは晴れない。
だから、知る必要がある。
どんな内容だったとしても。
「それでも、知りたい」
知らなければ、何も始まらないのだから。
「本当に、いいんですね?」
「ああ」
「どんなことだったとしても、ですか?」
「ああ」
「…………なら、話しましょう」
そうして、メイドさんは言葉を紡ぎ始めた。
「まずは、何から話しましょう……そうですね、私のことからでいいでしょうか?」
メイドさんのこと。
俺は知ることができれば順番などどうでもよかったので頷いた。
「突飛ではあると理解していますが、単刀直入に言いますね」
メイドさんは一間開けて。
「私は、ご主人さまの守護霊です。背後霊とか、そういう存在です」
「…………」
確かに。
突飛だ。
しかし。
それを言ってしまったら、最初からそうだ。
メイドさんが、現れた時から。
だから俺は、そのまま額面通りに受け取ることにした。
「いいですか? 続けますよ?」
メイドさんは俺がついて来れてるか、気遣いの言葉をかけてくる。
俺は頷くことで先を促した。
「私はご主人さまが生まれた時から、ご主人さまの背後霊をやらせてもらってました。触れ合うことも出来ず、ご主人さまからは視えも聞こえもしなかったと思いますが、私は、家族、いえ、それ以上にご主人さまのことを知っているんですよ」
だから、か。
だから、メイドさんは俺の好きなゲームや他色々なことを知っていたのか。
メイドさんは、いつも俺と共に在った。
いつも、傍にいてくれたのだ。
「それでですね、なぜずっと触れ合えずにいた私とご主人さまが関われるようになったのか、ということなんですよね」
メイドさんはひどく言い辛そうに口ごもった。
下を向いて、なかなか言い出せない様子。
「言ってくれ。どんなことだったとしても、という問いに俺は肯定の意を示したはずだ」
「…………はい。そうですよね。はい……では、話します……」
メイドさんは、深呼吸一つ。
「ご主人さまは……すでに亡くなっています……」
「………………」
俺は。
そこまで、衝撃を受けなかった。
むしろ、すとんと、腑に落ちた。
心の奥では、そんな予感がしていたような気がするから、なのかもしれない。
本能で薄々察していたとか、そういうのなのだろう。
だから、メイドさんが思い悩むようなことではない。
俺はそれを、メイドさんに伝えた。
「はい……そう言っていただけると、心が軽くなります」
メイドさんは、ふんわりと少し微笑んだ。
その後、話を続ける。
「そうして、ご主人さまが亡くなって、生者ではなく私と同じ死者になったことで、私たちはお互い触れ合うことが、話すことが、関わることができるようになったのです……出逢うことが、できたのです……」
メイドさんは、嬉しさと寂しさを湛えた笑みをした。
「それで、ご主人さまが亡くなってしまったのなら、ここはどこか、という話なのですけど」
俺は姿勢を正した。
「この世界は、束の間の夢、みたいなものです」
「夢……?」
「『次』へといく前の、滞在時間、待合室、心を落ちつけるための余剰時間、のようなものです。なので、私たち以外には誰もいません」
「? 外に出た時にいた人たちは?」
「ゲームとかでいうモブみたいな存在です」
「モブ……」
言われてみると。
メイド服を着たメイドさんが外を出歩いても、誰も反応を示さなかったこととか。
服飾店には付き物の積極的に話しかけてくる店員さんがいなかった、とか。
そういう節は、あった。
「私、お買い物とか一切行きませんでしたけど、料理してましたよね? それも、夢のような世界だから望めば少しくらいのことなら都合してくれるからなんですよ」
ああ、そうか。
持っていない娯楽物も、そうやってメイドさんが用意したのか。
聞いてみれば、恐ろしく大雑把で簡単な話だった。
「最後に、あの黒いもののことなんですけれど」
メイドさんと一緒に逃走したあの黒い球体のことか。
「これも直球に言ってしまいますと、あれは、死神です」
――――。
「しに、がみ……?」
俺は、そんなものを怖がらなかったのか?
恐怖心を持てなかったのは、あの黒い球体側に理由があるのだと漠然と考えていた。
だが、それだと、俺の方がおかしくないか?
「あ、死神とはいっても多くの生者が、ご主人さまが想像するような存在とは少し違いますよ?」
「そう、なのか?」
「はい。あれはですね、『次』へと向かうための現象、システムみたいなものです」
「次?」
「はい。『次』があの世と呼ばれるところなのか、また別の世界なのか、そのまま私のように霊になるのかはわかりません。けれど、あの黒い球体は感情を持つ生物を『次』へと渡らせるシステムみたいなものなのです」
「…………」
メイドさんの言葉から解釈するに。
次へと続く扉みたいなもの、ということか。
つまり俺が恐怖心を抱かなかったのは、ただのシステムだったから。
怖いようなものではなかったから。
ただの扉を怖がる人はいない。そういうことだろう。
「これで、一通りは話したことになると思います」
メイドさんはそう締め括った。
「…………」
俺は情報を噛み締めていた。
そして。
……?
少し引っかかった。
そういえば、今までメイドさんは頑なに話そうとしなかったが。
それは俺がすでに死んでいることを伝えにくかったからか?
いや違う、それだと最後まで伝える必要はないだろう。
期日が過ぎたら話してもいい、なんていう必要がない。
知りたいと迫られて話してもいいのなら、いつでも話してよかったはずだ。
なら。
「期日。どうして期日が俺の誕生日だったんだ?」
ということだ。
「え、えっとですね、それは……」
メイドさんはしどろもどろになる。
そう難しいことを訊いたつもりはないのだが。
「私、ちゃんとご主人さまの誕生日を祝えたことがなくて、それで……ですね」
メイドさんは指を弄りながら言葉を続ける。
「いつも後ろで、バースデーソングを歌ったり、おめでとうございますと言ったりはしていたのですけれどね」
なにそれ怖い。
けれど、嬉しい。
俺の傍で、毎年そんなことがあったのか。
考えると、奇妙だが笑えてくる。
「だから、何もいやなこと知らないで、誕生日を楽しんでもらいたかったんです……っ。盛大に、祝いたかったんです。ご主人さまが、生まれてきたことを」
メイドさんは、可愛らしすぎる照れ笑いをした。
「あの時死神から逃げたのも、それまではご主人さまに『次』に渡ってほしくなかったからなんです」
「…………」
俺の誕生日を、祝いたかったから……。
たった、それだけのため、に?
俺なんかの、誕生日を。
メイドさんは、どうして。
俺は困惑した。
困惑。
先までわりと冷静だったというのに、俺はどうしてか。
こんなにも、動揺している。
申し訳なさのようなものが沸き上がってくる。
どうして、だ?
俺はまだ、何かを知らない?
しどろもどろになって困惑している内に、思考は巡る。
そして。
はたと、別の所の考えに至った。
もしかしたらこれが、困惑と動揺の意味なのかもしれない。
そう思いながら、俺はメイドさんに問うた。
「俺の」
「はい……?」
「俺の死因はなんだ?」
そう。
俺は、すでに死んでいるとメイドさんは言った。
しかし。
その原因を、まだ聞いていない。
「そ――」
メイドさんは、先までの笑顔を置き去りに固まった。
「それは、ですね…………」
目を逸らすメイドさん。
俺は、一つ深呼吸。
「俺は、どんなことだったとしても知りたいと、その意を君に伝えた。だから、遠慮するな」
「遠慮とか、そういうのでは……!」
「だったら、心配するな」
「…………」
「俺は問題ない」
「………………わかりました」
メイドさんは、なんとか了解してくれた。
「では、言いますよ……」
メイドさんは、心の準備をするためか、しばらく沈黙した。
俺は待った。
自分も黙って、待ち続けた。
やがて。
メイドさんは、口を開く。
「ご主人さまの死の、その原因となった行動は」
――。
「自殺、です……」
――。
「じ」
さつ。
ああ……。
多分、わかってた。
そうなのではないのか、とは少し思っていた。
メイドさんが現れたばかりの頃の俺は、普通というには無気力すぎたから。
食事すら拒んでいたのだ。
自殺の前に、そんな人間が一人の家で生きていけるはずもない。
だから、大した動揺は……
――――――――――。
?
待て。
ま、まて。
ということは。
つまり。
メイドさんは。
メイドさんの、今までの言葉は。
『私は、ご主人さまが生まれてくれてよかったと、嬉しいと思っています!』
ああ……。
『だから、何もいやなこと知らないで、誕生日を楽しんでもらいたかったんです……っ。盛大に、祝いたかったんです。ご主人さまが、生まれてきたことを』
ああ……っ!
メイドさんは、命を捨てた俺に、生きててくれて嬉しかったという。
俺が生まれてきたこと、生きてきたことを肯定すると。
そう、メイドさんは伝えたかったのだ。
生に絶望し自殺した俺に。
そんな大馬鹿な俺なんかに。
なんて――。
なんて、深い想いなんだ。
俺は、いつもこんなものを向けられていたのか。
こんなにも、優しく尊い、強い想いを。
そんなメイドさんが、いつだって傍にいたのだ。
なぜ、気づけなかったんだ。
まるで女神の祝福や加護のような、この想いを。
気づけていたら、俺は。
自殺なんて。
気づけようも、なかったのだろうけれど。
視えも、聞こえも、触れもしなかったのだ。
死ぬことでしかそれが成らなかった不条理に、怒りさえ覚える。
しかし、まずは。
メイドさんに、言わなければならないことがある。
「ありがとう……」
「え? 私ご主人さまが自殺したっていったんですよ? 感謝されるようなことなんて……」
「違う、違うんだ」
「ご主人さま……?」
俺の頬は、いつの間にか濡れていた。
暖かかった。
暖かすぎた。
メイドさんは、陽だまりのようで。
俺は、今までの感謝と嬉しさで、泣いた。
メイドさんは心配そうにこちらを見た後。
そっと。
何も言わずに抱きしめてきた。
それは、ずっと近くにいた者の。
安心する、人の身体と熱だった。
俺は、自分からも抱きしめ。
その身を、委ねた。
「ずっと、一緒にいてくれるか?」
俺は、この先もメイドさんと共に在りたかった。
いつまでもいつまでも。
こんなにも想ってくれるこの子と、別れたくなかった。
それがどういう意味での感情なのかは分からない。
だが、メイドさんといたかった。
「私は今までずっとご主人さまのお傍にいました。これからも、傍を離れるつもりはありません」
「あぁ……ありがとう」
それなら俺は、救われる。
俺たちはしばらく、そのままでいた。
――――――――――――――――――――。
それから。
数日間、メイドさんと過ごした。
今まで通りの、穏やかな日々を送った。
ゲームをしたり、一緒に食事をしたり。
そんな、幸せな日々だった。
そうして。
ある刻。
部屋内に、いつの間にか。
黒い球体がいた。
死神だ。
「メイドさん……」
「はい、時が来たのですね」
俺は、恐怖心は抱かなかったが、座ったまま動けなかった。
緊張は、あるのかもしれない。
「大丈夫ですからね、りらーっくすしてください」
メイドさんは、後ろから抱きしめてきた。
優しく守るように、慈しみに満ちた抱擁。
俺はそれで、いくらか楽になった。
黒い球体が接近してくる。
あと数秒で、呑まれるだろう。
「ご主人さま、大好きです」
耳元で、メイドさんがそう言った。
「ああ、俺もだ……」
視界は黒に染まる。
けれど俺は、穏やかな気持ちだった。
意識が、溶けていく。
――――できることなら。
その『次』というものでも、メイドさんと共に。
メイドさんがいるのなら、この先が何であろうと、怖くないのだから。
メイドさん。
メイドさん…………。
本当に、ありがとう。