ぼくの迷いはどちらに決断するのか?
『膝の上の猫亭』に着いた頃にはもう陽は落ち切り、現実世界と同じように虫の声が鳴りはじめていた。
そういえばずっと、ぼくがいた世界を現実世界。
こちら側を異世界と呼んでいるが、これは間違いな気がしてきていた。
今こうして耳に流れてくる虫の声や、肌にまとわりつくような緩い風は、間違いなくこちらも現実だと知らせてくるからだ。
しかしそうは思うものの、情けないことに上手く則した呼び名が思いつかないので、このままぼくのいた世界は現実世界と呼ばせてもらう。
いや、もう呼ぶ必要もないのか。
ぼくは今から現実世界に帰ろうとしているんだから……。
「ただいま戻りました」
誰もいない店内に入るなり、リリーが律儀にそう呟く。普段はここの二階に暮らしているそうだが、女の子一人ではやはりどうにも広すぎる空間だ。
寂しくないんだろうか。
……いけない、もうあまりこちらの世界のことは考えないほうがいい。立つ鳥跡を濁さずって言うだろう?
「あ、私お茶を淹れますから、アミノさんは座っていてください。沢山歩いて疲れたでしょう?」
「ありがとう。……あー、なあ、少し暖炉を見せてもらってもいいかな?」
「え? はい、構いませんよ?」
まさかリリーの目の前で帰るなんてことは流石に考えてないけれど、そもそも帰る方法が分からない現状、先に調べておいたほうがいいだろう。
何となく見られてしまうのがはばかられ、リリーが厨房に消えるのを待ってから暖炉の前に屈み込んだ。
……綺麗に掃除されているなあ。
この様子じゃ、ここ何日もお客なんて来てないだろうに、見渡せば店内は隅々に至るまで掃除が行き届いている。
しかしこれは有り難い。
中を調べて煤だらけ、ということは無さそうだ。
「なんとなく予想はしてたけど、やっぱり普通の暖炉だよなあ……」
薪が置かれていたであろう所が黒く焼けている。
ペタペタと触ってみるけれど、別にレンガが窪んで隠し通路が現れるわけでもない。
ただそれだけの、なんの変哲もない暖炉。
次に暖炉に半身を突っ込んで上をみてみる。煙突は途中で狭くなってるのか、夜空が小さく見えるだけで特に変わったところはない。
あ。
もう行き詰まった。
どうしよう。
当然ながらぼくにはこの暖炉以外に帰るアテがないんだから、当たり前だ。
暑さのせいだろうか、汗がじっとりと額に浮かぶ。
違う、焦っているんだ。
じわじわと焦燥感が現実味を帯びてくる。
「あ、あのぉ、何かあるんですか?」
「うわあぁ!!」
急に背後から声がして、心臓が飛び出そうになった。
「わ、わ、ごめんなさい! 凄く熱心に何かを探してるようだったから、つい気になってしまって」
「……はあ。いや、別になんでもないよ。ちょっと暖炉が珍しくて、ぼくの住んでいたとこじゃあんまり見かけないから」
「それはまた珍しいですね? あ、そうでした、お茶はテーブルの方に置いておきますね」
取り敢えず中断だ。
なにも手掛かりらしいものは見つけられなかったが、今は喉がからからだしお茶をいただくとしよう。
チャンスはまだある。
リリーが寝静まってからもう一度調べさせてもらおう。家主に秘密で勝手に歩き回るのは忍びないが、背に腹はかえられない。
が、諦め立ち上がろうとしたその時、暖炉内が薄いオレンジ色に光った。
当然ながら火は焚べていない。
今は夏だ、薪も置かれていない。
なら何故?
そんなことはどうだっていい。
すがる思いでもう一度暖炉に半身を突っ込む。
だがやはり何もない。
上を見ても狭い夜空が微かに覗いているだけ。
それどころかオレンジ色の光すら既に消えかかっていた。
「どうして!」
思わず怒鳴り声が口をつく。
「ひっ!」
テーブルの方にティーポットとカップを並べていたリリーがびくっと震えていた。
しまった。
あまりこちらに意識を向けてほしくないのに、迂闊だった。それ以上に驚かせてしまったことが申し訳ない。
「あ、あ、あのぉ。 どうしたんですか……?」
出会ったときのような怯えた様子でぼくの方におどおどと近づいてくる。
「あ!」
今度はそれをはっきりと見た。
暖炉内にオレンジ色の光りが、じわりと染み出してくるように灯りだしている。
リリーだ。
恐らくリリーが近づくことによって反応しているんだ。
「リリー、一つお願いしていいかな」
「は、はい?」
「お茶、やっぱりここまで持ってきてくれないか?」
確かめるなら今しかない。
少々強引だが、この状態ならぼくの背中が遮っていてリリーからは暖炉がよく見えないだろう。
「わ、分かりました?」
頭の上に疑問符でも浮いていそうなリリーだったが、特に追及することなく従ってくれた。
彼女の素直さに感謝。
「……美味しい」
テーブルに深く腰掛けながら、リリーが淹れてくれたお茶を飲む。
こっちに来てから初めて美味しいと思ったそのお茶で、乾いてしまっていた唇を湿らせながら考える。
リリーがトリガーになっているというぼくの推測は当たっていた。だが、それは同時にリリーが側に居なければ暖炉は反応しないということを示している。
この反応が異世界同士を繋ぐためのものだという確証すらないが、現実世界とこの異世界との関係性が分からない以上、出来るだけリリーにはぼくが『異世界人』だということを知られたくない。
漫画やアニメの見すぎと思うかもしれないが、もしあの暖炉が異世界同士を結ぶトンネルなんだとしたら、危険が伴う可能性はゼロじゃない。
リリーを信用していないわけじゃない、けれどもし、他の人物にこれが知れたらどうなるか、想像もつかないからだ。
でも、そんな可能性でしかない空想に注意するより、今は自分が帰ることの方が重要なんじゃ……。
そういえば今向こうは何時なんだろう。
現実世界からこっちに来た時は確か午後過ぎだったはず。なら向こうも今は夜か?
いや、それとも何日も経ってしまっているのだろうか。それどころか、何年も何十年も経ってしまってるかもしれない。
ぼくの現住所であるところの、海に面した片田舎には『浦島太郎伝説』が古くから広まっているからだろうか。そんな絶望的な考えが頭から離れない。
一度冷静になろうとお茶をあおるが、カップの中は空になっていた。かなり考え込んでしまっていたらしい。
自分の妄想で肌が泡立っているのを感じ、不安な気持ちを紛らわすためにティーポットからお茶を注ぎながらリリーの姿を探していると、厨房の方から大きな木箱を持ったリリーが出て来るところだった。
「それ、何が入ってるの?」
「わ、これですか? 調理器具、です。わ」
見るからに非力そうなリリーが歩くたびに、両手で持ち上げた箱が左右に揺れて、リリーも揺れる。流石に見ていられなくなって前の方から箱を支えてやる。
「わ、わ、ありがとうございます」
「わざわざこんな箱に入れて片付けてるのか? 」
「……はい」
「? どこに運べばいい?」
「……外の倉庫に」
「ん? どうしてそんなところに」
「……」
さっきまで不安に駆られていたからか、つい問い詰めてしまうように聞いてしまった。
さっきから明らかに挙動がおかしいことを誤魔化すため、取り繕うように言葉を続けようとして、箱の向こうにいるリリーが口を開いた。
「このお店、閉めようと思うんです」
「……え?」
思いもよらない言葉だった。
ふとリリーの顔を見ると、またあの表情だ。
困ったような、悲しいような、だけど何かを我慢している表情。
「お客さん、もう、何日も来ていないんです」
「それは……」
「私、そもそも料理が出来なくて。不器用なんです、本当に」
「……」
「……だから、何週間かに一度お客さんが来ても、お茶しかお出し出来なくて、もうしわけなくて。自分でもどうしてこのお店を続けているのか分からないんです」
「ごめんなさい、いきなりこんなこと言って。でも、だからアミノさんが来てくださって、私嬉しかったんです」
「お客さんではありませんでしたけれど、お店に来てくださって、こうして今も手伝ってくださって、嬉しかったんです」
箱を挟んで向こうにある表情は、見るに堪えないくらい痛ましくて、身の程もわきまえずどうにかしてあげたいと思ってしまって、でも、どうすることも出来なくて。
「……続けたいんじゃないの?」
こんな、もしかしすれば攻めているようにも聞こえてしまうような台詞しか出てこない。
「だって、お料理出来ないんです。お父さんには申し訳ないけど、こんなこと、いつまでも続けていられないって、本当は前から分かってましたから」
ぼくが出来ていない気遣いを労しようと言葉を探しているのに気付いたのか、リリーは軽く笑ってみせる。
でも、その表情が。
「ふぅ、ありがとうございます。運ぶっていってもこの箱だけなんです。お客さんも滅多に来られないですし、日頃からこういう器具は使っていなくて」
余計に痛ましくて。
「そうだ、今日は泊まっていってください! 運んでくださったお礼です」
ぼくの心は間違いなく揺らぎ始めていた。