■ 後 編
放課後の、リョウが受け持つ2年1組の窓辺にマドカがひとり佇んでいる。
夕陽が差し込み、窓枠の四角を磨き上げられた床板にしっとり映し出す。
小さな机にそっと手を置いて、じっと窓の外を見つめている。
マドカはこれからの事を考えていた。
リョウの傍にいたいけれど、互いの今の状況を考えると一歩踏み出せない。
始まったばかりの新社会人には、やらなければならない事が多すぎた。
もう一度伝えたい想いは溢れているけれど、現状とのせめぎ合いでどうしたら
いいのか途方に暮れていた。
そこへ、リョウが現れた。 『あれ、どうしたんですか~?』
静かに教室に進み、マドカの横に立って窓の外には何かあるのか
見澄ましている。
そんなリョウを横目で見るマドカ。
背が高いリョウはマドカが少し顎をあげ見上げなければ、その顔は見えない。
銀縁メガネの奥の、窓の外を見つめるやわらかい視線。
意外とまつ毛が長いと気付く。
すると、マドカが少し口ごもりながら言った。
『ねぇ・・・ インコ飼ってるんだって?』
今昼に受け持ちの女児たちと一緒に鳥小屋にいたのが見えていた。
あの時にバレたのだろうと、リョウはきまり悪く小声で返す。
『・・・ぁ、はい・・・。』
『なんて名前・・・?』
『・・・・・。』 マドカの相変わらずの口撃。
答えが分かっていて訊いている事にリョウは気が付き、途端に無言の
ディフェンスを通した。
『ん?? 名前は? 名前、インコの名前。 ねぇ、名前。』
『・・・マ、マドカ・・・。』 無言の訴えを即座に却下された時点で早々と
白旗を上げた。
名前を決めた時はまさか本人に知られるなんて思いもせず、想う人の名を付けて
しまったあの日の自分を恥じながら、リョウはボソボソと答えた。
『しゃべるの・・・?』
『ひとつだけ教えました。
”うっせー、バカ ”って言います。』
すると、ケラケラと愉しそうに肩をすくめマドカは笑う。
最近は滅多に言わなくなった悪罵も、なんだか懐かしくてくすぐったい。
『口悪いねぇー・・・ それ、メス?』
『はい・・・ モデル本人が口悪いんで・・・。』
マドカは嬉しそうに頬を緩ますと、白衣胸ポケットにさしたシャープペンを
取り出す。
そしてリョウに見えるように目の高さに上げると、眩しそうに目を細めた。
『コレ・・・
あたしもずっと大切に使ってたよ・・・
肌身離さずに、ずーっと・・・。』
『ありがとうございます・・・。』 マドカの気持ちが嬉しくて、
リョウが俯き微笑む。
すると、ゆっくり言葉を選びながらマドカは言った。
『あのさ・・・
ほんと、しつこいと思われるかもしれないけど・・・
今でも好きだよ、リョウのことが。
・・・嫌いになんか、なれないよ・・・。』
『僕もです・・・
僕も、マドカさんのこと忘れたことなんか無かったです・・・。』
その瞬間、ほんの少しマドカの表情が哀しげに翳った。
『でもさ・・・
あたし、これからが管理栄養士として大変で・・・
いっぱい一緒にいたいけど、きっと全然、一緒にいられな・・・』
マドカの言葉を聞き終る前に、遮ったリョウ。
『僕たちはもう大人ですよ。
あの頃の無力な高校生とは違う・・・
ケータイだってあるし、仕事してお金だって稼いでるし、
たとえ少し離れたとしても・・・
しょっちゅうは無理でも、会いに行ける。』
”離れる ”という言葉に無意識にビクっと体が跳ねる。
そんな哀しい言葉はもう聞きたくなかった。
8年間もひとりぼっちで寂しい月日を重ねてきたのだから。
『でも・・・ 寂しいよ、そんなの・・・。』 マドカが一気に込み上げる涙に
うつむき呟く。
『つながりが途切れる方がずっと寂しいですよ。』
リョウがまっすぐマドカを見つめた。
本当に大人になったと感じる、その堂々とした佇まい。
嘘のない自信に満ちたリョウの言葉に、戸惑いながらも時間をかけてマドカが
コクリと頷いた。
『そうだね・・・ 今まで寂しかったもんね・・・。』
すると、
リョウはマドカと向き合って立ち二の腕に手を置くと、少し背を屈め目線を
合わせてまるで諭すかのように、少しも迷いがない毅然とした口調で言った。
『マドカさん・・・
8年もかかっちゃったけど・・・
・・・僕と、正式に付き合ってください・・・。』
黄昏時の教室には長身のシルエットと頭ひとつ分小さいそれが、
ほんの数センチのじれったい距離を作って向き合って佇んでいた。
しかし、しっかりつなぎ合う手と手だけ浮かび上がるように映えていた。
2週間の研修が終わり、その日マドカは駅のホームにいた。
その隣にはリョウが寄り添い佇み、指を絡め合うように手をつないでいる。
マドカがカバンからケータイを取り出して言った。
『そう言えば、あたし達って連絡先交換するのはじめてだね?』
出会って8年目にしてはじめて電話番号とメールアドレスを
交換しあったふたり。
呆れたようにマドカがクスクスと笑う。
あの頃は毎晩のように歩道橋で直接顔を見合わせていたから、
ケータイなんて必要なかった。
『会いに行きますから・・・。』
つなぐ手にぎゅっと力を込めて、リョウが微笑む。
マドカを見つめるその目は、やさしくて、力強く頼もしい。
『ん。 待ってる・・・
あたしも遊びに来るよ・・・。』
リョウを見つめ返すマドカ。どこか照れくさそうに目線をはずした。
すると、
『キスしてもいいですか?』
リョウがほんの少し背を屈めて、マドカに耳打ちするように囁いた。
『ん?』 耳に手をあて、澄まし顔で聴こえない振りをしたマドカ。
そんなマドカの頬を両手でやさしく包むと、リョウは顔を傾けてマドカの唇に
そっとキスをした。
マドカが慌てて目を見張り、せわしなく瞬きを繰り返す。
『聴こえないフリは、もう無しです。』 リョウがニヤリほくそ笑んだ。
『な、なんか生意気ー! なにオトナになっちゃってんのよっ!
あたしより年下のくせに・・・。』
照れくさそうに赤い頬を向けて口を尖らし、やたらと早口でまくし立てる。
『年下って言ったって、マドカさん早生まれですよね?
僕、春生まれですから・・・ 数か月しか違・・・』
『うっせー!バカっ』 マドカから8年ぶりの勢いある悪罵が飛び出した。
リョウが嬉しそうにケラケラ笑っている。 『出たっ! 伝家の宝刀。』
散々笑い合って、笑い疲れ呆れたように見つめ合うふたり。
『まぁ・・・ 僕も、もうイイ大人ですからね・・・
もうあの頃のモジモジした高校生じゃないんですよ。
って言うか・・・ 誰かに見られたかな・・・?』
キョロキョロと慌ててあたりを見渡すリョウ。
さすがに教師がキス現場を目撃されるのはちょっとマズい。
『明日のスクープじゃ~ん?』
研修の最初に自転車二人乗りを生徒に見られただけで、翌日の2年1組の
黒板にはデカデカとカラフルに、 ”アイバ先生 ” ”マドカさん ”と書かれ
超特大ハートで囲まれていたというのに。
『まぁ、でも別にいいですけどね。
だってちゃんと付き合ってるんだから隠すことじゃないし。』
リョウのその自信に満ちた清々しい表情に、やっぱり大人になったのだと
胸が熱くなる。
乗車する電車が定刻に駅のホームに滑り込み、乗り込んだマドカが窓越しに
手を振っている。
電車が見えなくなるまで大きく手を振って見送るリョウ。
涙はなかった。
ふたりの顔はこの先の輝かしい未来を見つめるように、
やわらかく幸せそうだった。
電車が見えなくなると、すぐさま胸ポケットからケータイを取り出した。
初期設定のままの待受画面に一瞬目を落とすと、なにか考え込みメールを
打ちはじめたリョウ。
”次に会った時は、ふたりで写真撮りたいです。”
そう入力し送信ボタンに指をかけたところで、一瞬早くメールが受信された。
”今度は一緒の写メ撮ろうよ! ”
それを目にリョウは肩をすくめてクククと笑い、
送信しかけていた文章を削除した。
そして、
”Re: 僕の心を読むのはやめてください。 ” <送 信>
マドカが返信メールを読んで、不思議そうに小首を傾げ笑った。
【おわり】