上へ参りません
その時は静かに訪れた。
8階まで快調に昇ったエレベーターは、その後うんともすんとも言わない。
横にある非常ボタンを押す。
しかし、呼び出し音はなるものの人がでる気配がない。
「長期戦になりそうだね」
そう言ったのは、マンションの入り口で一緒になった同乗者だ。
ワイシャツにスラックスという格好をした男性で、歳は30代前半あたりだろう。
「家族の人、心配してるんじゃない?」
「父が単身赴任をしていて、今日は母もそっちに行っているので1人なんです」
「1人で大丈夫?」
彼は本当に心配そうに眉を寄せた。
まず家に帰れるかもわからない状況だというのに。
なんだかズレた人だと思うと、自然と口角があがった。
「笑い事じゃないよ。真面目に心配してるんだから。さっきだってさ。俺、君の後ろ歩いてたけど全然振り向かなかったし。女の子なんだから、夜道はもっと周りに警戒しないと危ないよ」
右手でワイシャツの左手首のボタンをはずしながら、彼は眉間に皺を寄せて小さく笑った。
「ごめん、俺も娘がいるからさ。ついつい親御さんの気持ちになって熱くなった」
いえ、と首を横に振る。
そして少しの沈黙の後に問いかけた。
「娘さん、可愛いですか?」
「もちろん」
顔からはみだしそうなほどの笑みを浮かべ、即座に彼は頷いた。
「そのうち彼氏を連れてきて、娘さんをくださいとかなんとか言われるのかと思うと、想像するだけで複雑な気持ちになるよ」
そう言って困ったように眉を下げて笑う。
その時だった。
カツ、カツと足音が聞こえた。
考えるよりも早く体が動く。
精一杯の声量で、見えない誰かに助けを求めた。
その先の展開は早く、私たちは無事に救出された。
救世主の女性は出かけるところだったらしく、階段を下って管理人に助けを求めるとそのまま夜の街に消えていったらしい。
エレベーターは動いたものの念のために階段で部屋に帰ることになった。
2階あがったところで小さく赤ん坊の泣き声が聞こえた。
それに反応するように、斜め前を歩いていた彼の足が速まる。
「あの、もしかして……」
私の言いたいことに気付いたらしく、照れたように目を細める。
「うん、娘の声だと思う。実はまだ3ヶ月でさ。結婚なんて気が早いよね」
手を挙げて去っていく彼をぼんやりと見送る。
「鍵しめたか?」
「学校は楽しいか?」
そんなお決まりの父の台詞を、無性に聞きたくなった。
1000文字小説です。