退屈な部屋
「散歩に行ってくる」
私は、妻と娘を抱える身だ。だが、私には家族に内緒で部屋を借りているという秘密がある。今、住んでいるアパートからそう遠くはない場所ではあるが、見つかりはしないだろう。妻は、家事と子育てに忙しくて家をほとんどでない。私も、休みの日の数時間くらいしかその部屋にはいかない。見つかって困るようなやましいこともない、とても健全な状態だ。
部屋を借りようと決意したきっかけは、実に単純なものだ。
「ほら、今月の小遣いだよ。その小遣いで、少しは家族サービスしてもらいたいものだね」
家に帰ると、うるさい妻に罵倒を毎日のように浴びせられる。私が稼いだ金だというのに、私が使える金は少量しかなく、ほとんどは家族のために使われる。今の私は、家族のために金を持ち帰る働きアリでしかないのだ。
「私は、家族を養うために生きているのだろうか……その場所が私である必要性が感じられない。私が私として生きることを、我慢する必要などないはずだ」
かといって、家族を捨てるわけにはいかない。これでも、家族を愛する心は持ち合わせているつもりだ。だから、私は部屋を借りることにした。週に数時間でいい。私が私らしく生きていられる時間を作りたかったのだ。
とはいっても、ここは殺風景で退屈な部屋だ。使う用途といえば、横になってリラックスすることくらいしかない。だが、今の現状からすれば、それだけでもすばらしい時間だと感じることができた。仕事と家族サービスに捧げる、働きアリな自分から解放されているのだから。
しかし、満足はしていない。この殺風景で退屈な部屋を、私にとっての理想の部屋にしたい。例えるならば、子どものころにわくわくしながら作った秘密基地のようなものに。
理想の部屋の実現のために、私の少ない小遣いのほとんどを玩具に投資した。ベーゴマやメンコ。今では過去の物となってしまった数々の玩具は、私が子どものころは現役の遊び道具だった。休みの日になると、一目散に外に駆けだし、お互いの玩具を賭けて勝負する。自慢の玩具を取られたりするのは悲しかったが、今ではその悲しさも微笑ましい。悲しさも楽しさの一部なのだろうと今となっては思う。笑って泣けたあのころの自分は、今と比べて随分と楽しそうだったから。
「行け! そこだ! よし、いいぞ!」
今月の小遣いはベーゴマに投資した。数十個のベーゴマに対戦させる台まで購入し、部屋に置く。傍目から見れば、変わらない殺風景で退屈な部屋かもしれない。だが、私にはそれだけでも鮮やかで夢の詰まった部屋に思えた。
「今日はAチームの勝ちのようだな。Bチームは、腕を磨いて出直さないとな!」
数十個のベーゴマを均等に分け、二つのチームを作り、戦わせる。やっていることはただそれだけのことなのだが、ただそれだけのことに心のときめきを隠せない。すべて自分がおこなっていることとはいえ、そこにはドラマがある。何度も戦わせていると、Aチーム、Bチームともにキャプテンとなる強いベーゴマが浮き彫りになる。勝敗が同一となり、キャプテン同士の大将戦のときは、声を荒げて応援してしまうほど白熱する。
理想の部屋で過ごす時間は、まるで子どものころに戻ったようだった。白熱した後は、両チームの健闘を称えながら涙を流す。
「久しぶりに思い出したよ。これが、楽しいという感情だったことを」
私は、毎月の小遣いを理想の部屋に投資し続けた。するとどうだ。初めは殺風景で退屈だった部屋が、今では夢の詰まった理想の部屋だ。
この部屋のおかげで、私の心にだいぶ余裕が生まれたと思う。仕事をするのも苦ではなくなったし、家族といる時間も増えた。私が娘に、「お父さんと遊ぼうか」と声をかけたときの妻の驚いた顔と、娘のうれしそうな顔は忘れられない。この部屋があれば、私の人生は楽しいものであり続ける。私は一生、この部屋を……
「おかしいと思ったんだよ。あんた、この部屋はどういうことだい?」
「ど……どうしてここに」
「散歩に行く頻度が多すぎて怪しいと思ってたんだ。そう思っていれば、最近のあんたの顔は生き生きしているじゃないか。何かおかしいと思ってつけさせてもらったんだよ。あんた……ここで何をしているんだい?」
もう少し慎重に行動するべきだったか。だが、ここがばれたからといって取り乱すことはない。私は、何もやましいことはしていないのだ。
「別にやましいことはしていない。ただ、私は私の時間を作りたかっただけさ」
「へぇ。その結果がこの玩具の山かい。一家の父でありながら情けないねえ。こんなもの、全部売っちまいな」
「なんだと?」
こいつは何を言っているんだ。私は、十分に家族のために尽くしているじゃないか。仕事をしながら家族サービスもして……いままで自分のために生きることを我慢してきたんだ。なのに、私は少しの時間を作ることも許されないというのか。
「これは売れない! ここは、私の理想の部屋だ。私は何も贅沢を言っているわけじゃない。小遣いを上げろとも言っていないし、仕事だってちゃんと行く。これからは、積極的に娘やお前との時間も作っていくつもりだ。そして、そのためにはこの部屋が必要なんだ! 私だって生きているんだ。少しは、私が楽しめる時間がほしいんだよ」
私の言葉に、妻の顔が険しくなる。そして、まくりたてるように声を荒げ始めた。
「それなら、家族なんて作らなきゃよかった。私たちには可愛い娘がいる。娘を育てるためには自分の時間を捨てなきゃならないのさ。子どもを育てるには、それほどの覚悟がいるんだよ」
「そんな……極端すぎる!」
妻の言うことが分からないことはない。確かに子どもを育てるのは大変なことだ。自分の私利私欲のために生きるのは、子どもを育てる上で失格の行為だろう。だが、私はちゃんと、家族と過ごす時間も作ろうとしているじゃないか。
「極端じゃないさ。あんたが作ろうとしている理想の部屋を、娘のための時間に回せば、もっと愛を注ぐことができる。私もあんたも、私利私欲のためのわがままは少しも言えないんだよ」
「……分かった」
私は妻に押し切られてしまった。これが普通の妻ならば押し切られるつもりはなかった。だが、妻は娘のために、自分の欲を一切ださずに頑張っている。妻が、自分のために何かをしているところを、娘が生まれて以降見たことがなかった。
そんな妻にこう言われてしまっては、私がわがままを言い続けるわけにはいかない。理想の部屋に注ぐ時間を、すべて娘に捧げよう。
後日、買った玩具をすべて売り払った。それでできた金は、すべて娘のために使った。これで、私の理想の部屋はまた、私にとって何もない退屈な部屋に戻った。だが……
「わーい、お人形さんがいっぱい!」
「よかったわね」
私にとっては退屈な部屋だが、娘はとてもうれしそうにしている。娘の喜ぶ顔が見られるのなら、退屈な部屋も悪くないのかもしれないな。
世界観の下地(元ネタ):著者、つげ義春。短編、『退屈な部屋』より。
内容は上記の作品とは異なります。