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天使と狼  作者: トウリン
はじまり
9/46

8

「大分、あの子も元に戻ってきたね」

 病棟にふらりと立ち寄った一美かずよしにそう声をかけてきたのは、武藤師長だった。

「普通に笑うようになりましたよ」

 笑みを浮かべながら、師長が言う。

 そう言われると、確かに少し前までのもえは時折ふっと何かを探すように視線を彷徨わせていたが、それがいつしか見られなくなっていた。


「ようやく吹っ切れてきたかな」

「そうかもね。まあ、今回はひと山越えたんじゃないですか?」

 肩をすくめて軽く流した武藤師長だが、やはり、彼女の事を案じていたのだろう。どこかホッとしているように見えた。

外見そとみほど強くない子だから、春ぐらいまではかかると思ったけどねぇ。何のお陰か判らないけど、まあ、良かったよ」

 にんまりと笑いながらそう言った師長の眼差しが何か含みを持っているように見えるのは、一美の深読みし過ぎか。

 武藤師長のどこか人の悪い笑みに気を取られていた一美は、彼女がふと漏らした一言を聞き逃しそうになる。


「あの子も、身近に誰かがいてくれればいいんだけどねぇ……」

 裏を返せば、それは、今の萌には誰もいない、ということで。


(彼女は独り暮らしだし、実家も遠いのだろうか)

 一美はそう考え、武藤師長に確認しようとした。

 が、ちょうどタイミングよく病棟患者の処置を終えてナースステーションに戻ってきたろうの能天気な声が邪魔をする。


「おう、一美君! 昼飯行かね?」

「あ? ああ」

 彼に気を取られた隙に、武藤師長は自分の仕事に戻ってしまっていた。

 改めて訊く雰囲気でもなく、何となくモヤモヤしたものを残したまま、一美は朗に向き直る。

 近寄ってきた朗は一美の何に気が付いたのか、ふと眉を上げた。

「どうした?」

「いや、別に。行くぞ」

 短く答えて、一美は肩をすくめると先に立って歩き出す。


 この病院では病棟と外来棟が別棟になっていて、食堂は外来棟にある。

 渡り廊下を使っても、中庭を突っ切っても両者を行き来できるが、今日のように天気がいい日は中庭を通る方が多い。その方が近いからというのもあるが、病院の中にずっといると、外の空気を吸いたくなるというのも一因だ。


「あれ、リコさんじゃん。何やってんだろ」

 中庭に出てすぐに、朗が怪訝そうな声を上げる。

 彼が言いながら指差した方に目を向けると、中庭の中央に据えられているオブジェにへばりつくようにして、リコがいた。

 彼女も一美たちに気付いたらしい。

 朗が彼女の名を呼ばわろうとすると、慌てたように人差指を立てて口に当て、もう片方で手招きしてきた。


「何だ?」

 二人は顔を見合わせると、彼女の元に足を運ぶ。

「どうしたの、リコさん」

「しっ! 今、斉藤さんがリベンジ中なんだから!」

 尋ねた朗に、リコは眉を吊り上げて囁いた。

「え、それって、ウチの患者さんの?」

「そう」

 頷き合う朗とリコに、一美はついていけない。

「斉藤?」

「ほら、ちょうど『あの頃』、入院していた……」

 リコから言われて、はたと一美も思い出した。


 斉藤貢さいとう みつぐか。

 確か、退院した後も萌と会いたがっていた男だった筈だ。


「今日は診察に来てたな、そう言えば。確か、通院が終わりになる筈だ。リベンジか……こりゃ、聞いとかないと」

「絶対、あの子にはお似合いだと思うんですよね」

 リコが、そう断言する。

「まあ、いい人だけどねぇ、確かに」

 二人の台詞に、一美の胸中には、ムクムクと不快な何かが込み上げてくる。

 酒を呑み過ぎた翌日の胸やけに似ているような感じだが、昨日は酒を呑んではいない。


(なんだ?)

 眉をしかめながら萌たちの方に視線を向ける。

 向かい合って立つ彼女と斎藤貢を視界に入れると、いっそうそのムカつきが増したような気がした。

 ついさっきまで、体調には全く問題がなかったというのに、変な胃腸炎でももらったのだろうか。


 首をかしげながらも、一美はそう結論付ける。

 と、眉間に深いしわを寄せている彼に気付いた朗が、眉を片方持ち上げた。

「どうした?」

「いや、何でも」

 一美自身にも判然としないのだから、そう答えるしかない。

 不意に、リコが「シッ」と再び人差指を唇に押し当てた。

「黙って!」

 三人が無言になると、オブジェから少し離れた場所に立つ二人の会話が微かに聞こえてくる。


「で、どう? 一度病院の外で会ってもらえるかな」

「それは、この間もお答えしたと――」

「友達からでもいいよ。まずは患者と看護婦っていう関係をリセットしたいんだ」

「でも……」

「頼むよ」

 食い下がる貢に、一美は不快を通り越してイライラしてくる。きっと、今頃萌は困りきっていることだろう。


 ――自分が出て行って追い払ってやろうか。


 そう、一美が一歩を踏み出しかけたところだった。

 意を決して、という響きに満ちた声を、萌が上げる。

「ごめんなさい、わたし、好きな人がいるんです」

「え?」

 貢と同じ間の抜けた声を、図らずも、一美もまた漏らしていた。

「わたし、他に好きな人がいるんです。だから、斉藤さんのことを好きにはならないと思います」

 萌は、きっぱりと言い切った。

「おお、結構はっきり言うね、彼女」

「もう、あの子ってば! ちょっとぐらいキープしておくとか、考えたらいいのに!」

 朗とリコのそんなやり取りを、一美は呆然と聞き流す。

 それほどまでに想っている相手がいるとは、一美は全く気付いていなかった。

 少なくとも、病院内で彼女がそんな様子を見せたことはないし、週一回は食事を共にしていても、そちら方面の話は影すら出たことがない。


 ――いったい、どんなヤツなんだ?


 萌は一応大人で、それなりに可愛くて、かなり気立てが良い。

 これまでに付き合った男の一人や二人はいてもおかしくはないし、今現在恋人がいても当たり前のことだろう。

 だが、そんな当然のことに、一美は予想外の衝撃を受けていた。そして、衝撃を受けている自分に愕然とする。


「ありゃぁ、ショックだろうなぁ」

 同情を含んだ声でそう呟いた朗の声で、一美は正気を取り戻す。耳を澄ませば、再び萌と貢の会話が聞こえてきた。

「そう、か……えぇと、付き合ってるの?」

「違います、片想いです」

「でも、それなら、僕にもまだ可能性はあるんじゃない?」

「多分、無いです。多分、わたし、その人のことをずっと好きなまんまだと思います」

 落ち着いてきっぱりとした、萌の声。

 それを耳にした瞬間、一美の胸に何か鋭いものが突き刺さる。


「へえ、言うねぇ、彼女」

 朗が感心したように呟く。それすら、一美には苛立たしかった。

「あんなガキ臭いくせにな」

 突き放した口調で言った一美に、朗がチラリと視線を走らせる。そこにあるのは、どこか楽しげな光だ。

「でも、意外にしっかりしてるだろ? それにウチの患者処置ん時さぁ、患者が痛そうにしてると、泣きそうなの堪えながら介助してんの。マジで泣かせたくなるね、あれ」

 何を悪趣味なことを言っているのかと、一美は冷ややかな一瞥を朗に投げる。だが、彼はさっぱり堪えた様子はない。

「あはは、怖ぁ。あ、ほらまた何か言ってる」

 一番うるさい朗が、ジェスチャーで二人に黙るように合図してくる。そうして再び聞こえてきたのは、貢の声だ。


「そんなに、なんだ……そっか……うん、わかった。悪かったね、困らせて」

「いいえ」

「じゃあ、ね」

「はい、お大事になさってください」

 そんな定型の挨拶を最後に、声は聞こえなくなる。

 立ち去っていく足音は、一つ――恐らく貢のものだ。萌はその場に止まっているらしい。


 貢の足音が完全に消えたころ、小さなため息が三人の元に届いた。

 どうすべきなのか決めかねている一美の隣を、スルリとリコが抜けていく。そうして声を張り上げた。

「ちょっと、萌!」

「はい、え!? リコさん!? なんでここにいるんですか! 先に食堂行っていてくださいって言ったじゃないですか! 有田先生と……岩崎先生まで!?」

 何故か、萌は一美を見た時に一番大きな動揺を見せた。そんな彼女に、リコはズケズケと続ける。

「渡り廊下通って戻ってきたのよって、そんなことより、何で彼を振っちゃうのよ」

「振る……って、どこから聞いていたんですか!?」

 萌の頬にパッと朱が散った。

「殆ど全部。『好きな人がいる』なんてウソ言っちゃって」

 リコの言葉に、やっぱり言い逃れるための虚言だったのかと、一美の胸に安堵が走る。

 が、それは次の瞬間に容易に翻された。


「ウソなんかじゃありません!」

 萌は、咄嗟に返してしまったようだった。

 発した直後に、しまった、という風情でパッと口を押さえる。

 だからこそ、その言葉が真実なのだということが強調される。

 思わず、一美の口から問い詰める声が漏れてしまっていた。

「好きなやつがいるのか」

 上から見下ろしての彼の強い口調に、萌は一瞬鼻白んだように顎を引く。が、すぐに、彼女らしくもない木で鼻をくくったような声音で返してきた。

「いますよ。でも、その人は、全然わたしのことなんて眼中に無いと思います。完全に、わたしの片想いなんです」


 萌にこれほど言わせるなど、いったいどこのどいつなのか。

 自分の知っている男なのか。

 そいつは、彼女のこの気持ちを知っているのか。


 様々な疑問が次々と湧いてくる。そして、殆ど考えることなく、一美の口からは問いが溢れていた。

「どんな男だ?」

「え?」

「だから、どんな男なんだよ。この病院のヤツなのか?」

「そんなの……」

「言えないような男なのか?」

「ちょっと、それってまるで娘に彼氏がいることに気付いちゃったお父さんじゃないの?」

 問い詰めていく一美に、朗がボソリと呟く。と、小声でのそれに反応したかのように、萌がきっと顔を上げた。


「岩崎先生には、関係ありませんから!」

 そう言い置いて、クルリと踵を返したかと思うと、後は振り返りもせずに行ってしまう。

「あらら……怒らせちゃったね」

 萌の背中を見送るだけの一美の肩に、朗が腕をまわす。その声が、どこか同情の色を含んでいるように聞こえたのは、気の所為か。

 言葉もなく立ち竦む一美を、リコがチラリと横目で見上げてきた。


「岩崎先生って、意外に女の気持ち、解かってなかったんですね」

 それはどういう事なのかと問い返す前に、隣に立つ朗が溜息をつく。

「そうだよねぇ、解かってないよねぇ」

「私も解かりたくなかったです。ああ、もう、どうして、こんな……」

「まあまあ、勘弁してやってよ」

 訳がわからないままの一美を置き去りにしたまま、二人は会話を進めていく。


 いったい、何がどうなって、萌は臍を曲げてしまったのか。

 朗とリコはすっかり全てを理解しているようだが、一美にはさっぱり訳が解からなかった。

 訳が解からないが、萌を滅多にないほど怒らせてしまったのは、確からしい。


「くそ」

 一美は、この中庭に入ってきてから起ったことを、いっそ全て消去してしまいたいとすら、思っていた。


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