6
樫本康太が亡くなって一週間。
――小児科病棟には、以前と変わらぬ穏やかな日々が流れるようになっていた。
病院で命が失われるのは、決して珍しいことではない。小児科ではそう多くないことではあるが、それでも、珍しいことではないのだ。
康太を見送った一美と肇は、翌朝になって小児科部長の山田医師と病棟医長の南医師に報告し、二人からそれぞれ労いの言葉をかけられ、そして、それでおしまいだった。
生後五ヶ月の子どもの命が失われたということは、確かにこの上なく悲しいことだ。
しかし、それをいつまでも引きずっているわけにはいかない。スッパリと気持ちを切り替えることは、彼らにとって半ば義務のようなものだった。
武藤師長には萌から報告がなされている筈で、同じように師長から彼女へ何か言葉がかけられたのだろう。
翌々日の日勤からまた通常通りに働いている姿を見せた萌は、一見、以前の彼女に戻ったようではある。
だが、ふとした時に見せる微かな陰が、一美には気掛かりだった。
屈託のない彼女が、笑顔の合間にふいと視線を落とす。
ほとんどの者がその変化には気付いていないが、ついつい彼女を目で追ってしまう一美は、見逃さなかった。
萌しか見ていない彼と違ってスタッフ全員に鋭い目を配っている武藤師長もそれに気付いている筈だが、今は静観することにしているらしい。
もっとも、一美とて、気にはなるが何をしたらいいのかは判らない。
彼女の方から「つらい」「悲しい」と言ってくれれば、返す言葉もあるだろう。
――あるいは、涙の一つでもこぼして見せてくれれば。
だが、萌は、一美の前でも笑うのだ。
女の涙にうんざりしたことはあるが、笑顔に戸惑わされるというのは、彼にとって初めての経験だった。
(女を慰めるって、どうやるんだったっけか?)
首をひねってみても、彼には全く思い浮かばない。
当然だ。
女の気持ちなど、自分の好きなようにできるものだと一美は思っていたのだ。彼女たちの気をよくすることなど、至極簡単なものだと。
どうやらその認識は偏った経験に基づいていたのかもしれないということに、彼は気付かされつつあった。
――自分は、これまで『簡単な相手』を好んでいたに過ぎなかったのだということに。
*
「もうこんな時間か」
何気なく時計を見上げて、思わず一美はそう呟いた。
時刻は二十一時をまわっている。
面倒くさいのと気が乗らなかったのとで伸ばし伸ばしにしていた書類仕事を始めて、いつの間にやら三時間が以上が過ぎていた。
一美はパソコンをシャットダウンして肩を回す。
こういった、診察以外の業務が意外に時間を取るのだ。
そして、ヤル気になるのにも時間がかかる。
一つ一つはたいした手間ではないが、とにかく数が多い。書いても書いても翌日には新しいものが手元に回されてくる。
特に、小児科における繁忙期である冬が、これから本番を迎えるから、患者の数も増えるだろう。そうするとまた、それに比例して書類の数も増える。
だが、明日以降の事は明日以降の事。
とにかくひとまずのノルマはこなした彼は、帰り支度をする。
一美は着替えを終えると医局を出て、シンと静まり返った廊下を歩いて職員用出入り口に向かった。と、そこで思いもよらない人物と行き会う。
「小宮山さん」
そういえば、看護師の交代時間だったか、と一美は時計に目を走らせた。
萌は目を丸くして彼を見上げてくる。看護師の私服は華やかなものであることが多いが、彼女はハイネックのシャツにダウンジャケットを羽織り、下はジーパンにスニーカーという軽装だ。
その素朴な装いは彼女に似合っていると言えば似合っているが、彼ならもっと違う服を着せるだろう。
何の脈絡もなくそんなことを一美が考えていると、萌が屈託なく返してくる。
「岩崎先生。お疲れ様です。今までお仕事ですか?」
「ああ、ちょっと、書類を……」
「大変ですねぇ」
しみじみとした口調でそう言った萌に、一美は苦笑する。彼女こそ十二時間の勤務を終え、「お疲れ様」だと思うのだが。
「君も今帰りか。電車通勤?」
「はい、地下鉄で、五駅先です。駅からは、歩いて五分くらいなんですけど」
「へえ……」
二人は連れ立って歩きながら、そんなやり取りをする。
彼女がこんな時間に独りで地下鉄に乗るのかと思うと、なんとなく一美の胸の奥がざわめいた。
それなりに混んでいるだろうし、何より、酔っ払いなども多そうだ。五駅と言えば二十分もかからないだろうが、それでも、なんとなく不安になる。
他愛のない会話をつなげながら歩いていると、いつの間にやら駅に着いていた。
「じゃあ、わたしは下りの方なので」
一美は、上りで一駅分だ。乗る電車は反対方向になる。
ペコリと頭を下げて改札をくぐろうとした萌に、一美は頭よりも口が先に動いていた。
「食事、付き合ってくれないか?」
「はい?」
萌が、怪訝な顔で振り返る。
「俺の夕食はまだなんだ。時間があるなら何かつままないか?」
「もしかして、独りで食べるのがイヤな人なんですか?」
意外な『弱点』を見つけたとばかりに、萌の瞳が面白そうに煌めく。
「まあ、そんなところだ」
一美は、濁しつつ答えた。
が、実際は、そんなことはない。
むしろ、彼は食事時に誰かがいる方が嫌な性質である。しかし、萌の後ろ姿を見たら、とっさに声をかけてしまっていた。
「終電までまだ時間ありますし、いいですよ。……でも、割り勘ですから」
「いや、俺が出すよ。誘ったのは俺だし」
「わたし、奢られるの、あんまり好きじゃないんです。お給料ももらってるし……あ、でも、高いところはだめですよ? この間のとこみたいじゃなくて、もっと普通なお店にしてください」
先日萌とリコを連れて行ったのは、一美が女性を連れて良く行くレストランだった。
大抵の相手には喜ばれる店に連れて行った筈なのだが、どうやら萌には不評だったらしい。もっとも、あの店では看護師の財布には少々きついだろうから、「割り勘で」と言うからには選択肢から外さざるを得ないだろう。
「じゃあ、居酒屋とか」
「あ、わたし行ったことないんで、行ってみたいです」
目を輝かせた萌の言葉に、一美はこっそりとある意味感心する。
成人しているというのに、居酒屋未体験。
流石、里見高校出身というべきか。
「なら、近所にいいのがあるから、そこにするか」
「はい!」
パッと笑みを浮かべたその顔は、先日のレストランの時よりも、よほど嬉しそうだ。萌のその笑顔に、一美はいつにない満足感を覚える。
萌の帰りは遅くなってしまうが、その時は一美が送ってやればいい。
そう思うと、何故か彼の心の中も晴れやかになった気がした。
*
その居酒屋は個室になっていて、微妙に萌の想像とは違っていたようだった。
「居酒屋って、もっとガチャガチャしてると思ってました……」
「色々だな」
「そうなんですか……」
多分、彼女が考えていたのはチェーン店の居酒屋なのだろう。
だが、ああいったところはやかましいし、煙草臭いし、一美の趣味ではない。
彼も学生時代は結構なヘビースモーカーだったが、小児科医になった時点でやめていた。
「よし、何にする?」
「えぇっと……マグロのカルパッチョとか、おいしそうです。あと、厚切りベーコンのペッパーチーズサラダ。じゃがバター明太子トッピングもいいなぁ。あ、シーフードピザも」
「……君も、夕食まだだった?」
「いえ、休憩時間に摂りました」
「あ、そう」
小さいくせに、よく食べる。
そんな感想は胸の中にしまっておくことにして、一美は飲み物のメニューも開いてみせた。
「飲むのは? どれがいい?」
「うわぁ、ずいぶんあるんですね。それに、キレイ」
カクテルの写真がずらりと並んでいるページに、萌は目を丸くしている。
「あんまり知らないか。これなんかは、飲み易いけどな」
萌は目移りしているのか、迷った様子で微かに目を揺らした後に、頷いた。
「……じゃあ、それで」
彼女が選んだつまみに自分の好物をいくつか加え、ひとまず注文を終える。
「で、小宮山さんはオフの時は何をしてるんだ?」
間もなくやってきたつまみを突きながら、一美は当たり障りのない会話を進める。結構な勢いで消費されていく料理に、もう少し追加でオーダーした方がいいのかもしれない、と思いながら。
「えぇっと……公園でボーッとしてたりします。うちのアパートの周りは混み混みだから。こんな都会に住むのは初めてだから、時々、木とか草とかが生えているところに行かないと、『ああ、もうダメだ!』って思います。余分に時間がある時は、電車で海を見に行ったり。でも、この辺の海って、ブロックとかコンクリばっかりなんですよね。砂浜のあるところに行きたいなって思っても、なかなか遠くて」
ただ海を眺めるだけでいいとは、安上がりな。どうせ見るなら、ホテルの最上階からの夜景とかではないのだろうか。
そんな感想を抱きながら、一美は特に深く考えることなく、ポロリと彼女の言葉を引き継いだ。
「じゃあ、今度連れてってやろうか」
「え?」
萌は、大きく瞬きをして、きょとんとしている。
「いや――車だったら、砂浜探しながら走れるだろ?」
思わずこぼれてしまったような台詞に、彼は後付けで理由を探し出す。
「そう、ですね。はい、車だったら好きなところで停まれますものね」
「だろ?」
一美の念押しに、萌は笑って頷く。
ベッドという『おまけ』のない、純然たるドライブに女を誘ったのも初めてだが、誘いをかけて怪訝な顔をされたのも初めてだった。
普通、あそこでは、「わあ、嬉しい!」と来るのではなかろうか。「嬉しい、約束ね!」と。
やはり、萌と相対していると、どうにも調子が狂う。
一美は、内心でぼやきながら、日本酒を空ける。
ごくごく普通の雑談がいつしか流れを変え始めたのは、萌がグラスの中身を半分ほどに減らした頃合いだった。
変わらず笑顔で話を続けていた彼女が、不意に、本当に不意に、ころりと涙を落としたのだ。
「小宮山さん……?」
いったい、何故の涙なのか。
お猪口を置いた一美は、窺うようにその名を呼ぶ。
それが引き金になったかのように、彼女が小さくしゃくりあげた。
泣き上戸、とは違うようだ。
少し待つと、萌は問いかける、というよりも呟くといった風情で言葉をこぼした。
「先生は、お医者さんがイヤになることって、ないんですか」
「え?」
唐突な質問に思わず眉をひそめた一美の前で、萌は幼い子どものように手のひらの付け根で涙をぬぐう。
「わたし、小さい子があんなふうに死んじゃうなんて、思いませんでした。先生はつらくないですか? 先輩たちはすぐに慣れるよって言ってくれたのに、こうちゃんの事が、ちっとも薄れていかないんです」
やはりそのことかと、一美は小さく息をつく。おそらく、アルコールが入って、ようやく心の箍が外れたのだろう。
確かに、長く人の生死に関わっていると、次第に慣れてくる。
だが、それは消え失せるというわけではない。
どこか、自分の中にそういったことを仕舞える場所ができるような感覚に近いかもしれない。
しゃくりあげる萌を見つめながら、一美は何と答えるべきか、考える。
「……確かに、救命できた患者よりも、死なれた患者の方が記憶に残るな」
「それって、悲しくないですか?」
「そういうのは超越している感じでね。ただ、残っているだけだ。まあ、裏を返せば、元気になってった奴の事は、どうでもいいというか」
「……先生は、強いです」
それは強さとはまた違う気がするが、一美は肩をすくめて受け流した。
萌は膝を抱えて腕に顔を埋める。
彼女の泣き顔は見えなくなったが、今、どんな顔をしているのかが見えなくなった分だけ、一美の胸中はジリジリする。
泣き顔を見させられるのと、何も見せられないのと、どちらがマシなのか。
その姿勢のまま、萌がくぐもった声で囁いた。
「神さまって、やっぱりいないんでしょうか」
「さあな。少なくとも、俺はお目にかかったことがない。死ぬヤツは死ぬし、助かるヤツは助かる。そこで、『これは奇跡だ』などと思ったモンはなかったな」
かつて、彼自身が、神になりたいと思ったこともあった。だが、決してなれはしないのだと悟ったのは、いつの頃だったろうか。
過去に思いを飛ばしかけた一美の前で、萌は呟き続ける。
「でも……わたし……やっぱり、神さまにいて欲しかった……」
声は、次第に小さくなっていく。そして、それはまるでろうそくの火が消えるように、ふっつりと途絶えた。
「小宮山さん……?」
名前を呼んでみるが、返事がない。どうやら眠ってしまったようだった。
腕を伸ばして揺すってみても、うんともすんとも言わない。
彼女のグラスの中の鮮やかなピンクの液体は、まだ半分ほども残っている。
確かにカクテルで酔いつぶれる女性もいるが、それは口当たりが良くて飲みすぎるからではなかろうか。
体育座りという不安定な格好ですっかり寝入ってしまっている萌に、一美は苦笑を漏らす。
グラス半分で沈むとは、酒に弱いなら弱いと、先に言っておいて欲しかった。
だが、しかし。
酒の力で吐き出したものがどれだけ彼女の中の負担を軽くできたかは甚だ疑問だったが、それでも、多少の荷物を下ろせたのなら、よしとするべきか。
小さくうずくまって固まった萌を前に、さて、どうしようかと一美は考える。
一、もうしばらくここで時間をつぶし、萌が目覚めるのを待つか。
二、病棟に電話して彼女の住所を訊くか。
三、彼女の荷物を漁って勝手に住所を調べるか。
四、ホテルにでも泊まらせるか。
一は不確定な要素が大き過ぎる。だいぶ気が張っていたようだから、なかなか起きないかもしれない。
二は、同じ病棟の医師とは言え、個人情報を教えてもらえるかどうかは疑問であるし、彼女を酔い潰したと知れればリコ辺りが大騒ぎをしそうだ。一美が相手では、萌にとって芳しくない噂も立つかもしれない。
三は流石に気が引ける。
一番妥当な線は、四か。
駅前なだけに、いくらでもホテルはある――まともなヤツが。そこに泊めてメモでも残しておけばいいだろう。
道を決めた一美はさっさと会計を済まし、スマートフォンで最寄りのホテルの空き状況を確認した。幸いなことに空室があるとのことで、早速彼は部屋を取る。
そうしておいて、萌を抱き上げた。
荷物を持つ都合から、横抱きではなく、子どもにするように片腕で。
そんなふうに抱けてしまうことに、何だか笑みが漏れた。
ホテルまでは歩いて五分程度なので、タクシーを呼ぶまでもない。目立つだろうが、徒歩の方がよほど早く着く。
外は身体の芯に沁み渡るような十二月の冷たい空気に支配されていたが、一美は何故か寒さを感じなかった。
――彼女の所為か?
酒を飲んでいる為か、萌の身体はまるで子どもの様な温もりを持っていた。さながら湯たんぽか何かのように。
だが、彼女の方は外気の冷たさにフルリと身体を震わせる。
一美は萌を抱いたまま器用にコートを脱ぐと、彼女の身体を包んでやる。
と、人肌の温もりが近くなった所為か、萌は幼い子どもがするように、一美の首にしがみついてきた。
その奇妙なくすぐったさに、彼のみぞおちのあたりがムズムズと疼く。
これまで、『コト』の最中にしがみつかれ、背中に爪を立てられたことは何度もある。
だが、これは……。
「まあ、この方が歩きやすいしな」
聞かせる相手もなく、一美はぼそりと呟いた。そして、ホテルを目指して足を運ぶ――余計なことは考えず。
通りを歩いていると流石に数人が振り返ってきたが、思ったよりも人目を引かずに済んだようだ。警察に呼び止められたりすることもなく、じきにホテルに到着した。
ホテルのフロントでは、流石にそこそこ高級なだけのことはあってか、女性を抱えた一美の姿にも係員は眉一つ動かさなかった。
だが、これだけ酒の弱い彼女の事だ。
いつか、彼以外の男にこうやって連れ込まれる可能性があるかもしれないと思うと、何の疑いも抱かずスルーしてしまうフロント係の対応が、何となく不愉快に感じられた。
少しくらいは疑問に思えよ、という、我ながら理不尽な気持ちは抑え込みつつ、一美はチェックインの手続きをする。
ホテルの部屋は十五階だった。
エレベーターの中でも、昏々と眠り続ける萌は一向に目覚める気配がない。
部屋に着くと、一美は萌に羽織らせていたコートを床に振り落とし、身体を屈めて、ダブルベッドの上にそっと彼女を下ろした――下ろそうとした。
が。
首にしがみつく萌の腕が、離れない。
手を上げて外そうとしてみたが、彼女を起こさないようにと気を使いつつの力加減では、どうにもうまくいかない。
また、外そうとするほど、それに抗するように彼女の腕には力が入るようだ。
そこに色香などはまるでなく、言うなれば、親から引き離されようとしている幼子のような風情だった。
腰を屈めたまま、一美は困惑する。
そう、まさに、彼は困惑していた。
不自然な格好にそろそろ腰が痛くなってきているのだが、次にどうすればいいのか、判らない。
萌が目覚めるまで、この姿勢を維持するのか。
いや、とうていそれは不可能なことだ。
では、どうしよう。
一美に思い浮かんだ取り得る手段は、一つだけだった。
靴を脱ぎ、シーツの間に我が身を滑り込ませる――萌をしがみつかせたまま。
「……目が覚めたら、変態呼ばわりされそうだよな……」
ぼやいたが、仕方がない。その時はその時だ。
ベッドの中に入ると、萌の身体の温かさが、より一層身に迫ってくる。
何というか、一言で表現するなら、『心地良い』だ。
温もりと、柔らかさと。
一美には、その腕の中にいるものが、自分と同じ人間だとは信じられなかった。
これまで、こんなふうに誰かを抱き締めて寝るということがなかったのだが、誰でもこんな感触なのだろうか。
そんなふうに考えていて、一美の腕に知らずのうちに力がこもってしまったのかもしれない。
彼の胸のあたりで、萌が小さく何かを呟いた。
「小宮山さん?」
目覚めるのかと、彼は小さく呼んでみた。しかし、目蓋は閉ざされたままだ。
「……萌?」
今度は、その『名前』を呼んでみた。
やはり、応えはない。
一美は一つ小さく息をつくと、彼女を腕の中に囲い込んだまま、目を閉じた。