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一美に食事に引っ張り出されてからは、どうやら萌はきちんと食事を摂るようになったらしい。あの時同席したリコに目を光らせておくようにと伝えたことが功を奏したか、あるいは、一美と食事に行ったのがよほど気詰まりだったのか。
――彼としては、前者が理由だと思いたいが。
とにかく、その甲斐あって、萌の頬はじきに元の丸みを取り戻した。
康太の容態に変化が訪れたのは、それから十日ほどしてからのことである。
始まりは、わずかなものだった。
夕方の回診で病棟を訪れた一美は、モニターに目を留め、眉をひそめた。
康太の心拍数が、朝よりもわずかに低くなっていたのだ。普段の数値は百二十のところが、百程度。
それだけの変化だ。
それだけだったが、一美はついに『その時』が訪れたことを悟る。康太の小康状態を支えていたのは、心臓だ。それが、ついに動きを止めようとし始めていた。
主治医である肇が当直だったが、彼は医者になって五年目、小児科医としてはまだ三年目だ。
良い医者ではあるが、こういった状況で家族に与える印象に、まだ『重み』が足りず、一美も引き続き病院に残ることにした。
それから数時間が経過して、今はもう夜勤帯に入っている。
タイミングが良いのか悪いのか、夜勤の看護師の一人は萌で、それを知った時、一美は思わず舌打ちをした。
これが、彼女が経験する最初の『お見送り』になるだろう。たまに受け持つだけの患者ならまだしも、あれだけ根を詰めて世話をしてきた相手に逝かれるのは、かなりのダメージになるに違いない。
萌の様子は、普段と変わらない。いつもと変わらず、夜間に更新する点滴の準備をしたり、看護記録を付けたりしている。
まるで、何も変わったことなど起きていないかのようだ。
時刻は二十三時を少し過ぎたところ。
ナースステーションにいるのは一美と肇と萌、そして手術記録を書いている朗の四人だ。
朗がこの時間に病棟にいるのは珍しいが、午後に交通事故の緊急手術が入って、それが先ほど終わったらしい。
他の夜勤のナース二人は病室を回っている。
康太の心拍数はすでに七十程度まで落ちていて、呼んだ家族も皆、病室に揃っていた。
後はもう『その時』を待つばかりとなっている。
「あの、小宮山さん」
シンと静まり返った中に突如響いたその声に、四人が同時にカウンターの方へと視線を走らせる。
そこにいたのは、松葉杖を突いた青年だった。年の頃は二十代半ばというところか。温和そうな顔は、いかにも好青年、という風情だ。
「斉藤さん、どうされました? もう消灯時間を過ぎてますから、お部屋で安静になさっていてください。明日、退院でしょう?」
斉藤という名前には、一美も覚えがある。この病棟にいる斉藤といえば、以前にリコが言っていた萌に気があるという整形外科患者ではなかったか。確か下の名前は『貢』といった筈だ。
一美の目は電子カルテに戻ったが、意識はついカウンターで話している二人の方へ向いてしまう。
「あの、ちょっと話が……少し、ここを離れられませんか?」
「ごめんなさい、今はダメなんです」
申し訳なさそうに萌が答えると、そこで貢は何かをためらっているようで、しばらく間が空く。
黙々と電子カルテの記載を続ける一美の背中に、コロコロと音をさせて椅子を転がした朗が近付く。そして背中越しに囁いてきた。
「ちょっと、どうするよ? 勤務中なんで無駄話は止めてください、とか言いに行かないの?」
「なんで、俺が」
「あれ? 気にならない?」
「別に」
「あの人、誰ですか?」
スルスルと話に加わって訊いてきたのは、一美の隣にいた肇だ。
「ウチの患者。明日退院なんだよねぇ。萌ちゃんに気があるみたいでさぁ」
「ああ……若い患者さんは勘違いしますよね。何しろ献身的に世話してくれるわけだし。まさに『白衣の天使』ですよ。小宮山さんだったら、初々しいですしね」
「まあ、勘違いならいいんだけどねぇ」
「え、本気だってことですか?」
「さあ……」
一美は自分を挟んでやり取りされる二人の会話を無視して、キーボードを叩き続ける。
低いボソボソとした男同士の内緒話は、カウンターの二人の方までは届かないのだろう。
再び貢が話し始めた。
「あの、退院してからも、会ってもらえないかな」
「はい?」
頓狂な萌の返事に、貢が慌てたように付け加える。
「別に、付き合って欲しいって訳じゃないんだ……まだ。ただ、これで終わりにしたくないっていうか……」
「おお、積極的ですねぇ。というより、後が無い感じ?」
パソコンの画面を覗き込んで、肇が呟いた。
「先生、ここ、変換間違ってますよ」
彼が言いながら指差した文字を、一美は無言で直す。その間も、萌と貢の会話は続いていた。
「退院して元の生活に戻ったら、すぐにそちらに慣れますよ?」
暗に「自分のことなんてすぐに忘れてしまいますよ」とにおわせているのだろうが、貢は引き下がらない。
「まあ、そうかもしれないけど、そうなりたくないんだ」
「斉藤さん……」
困惑している萌の声に、一美は口を挟むべきか否かを迷う。だが、本来、彼が口出しをする要素は、どこにも無いのだ。
萌は、どちらに迷っているのだろう。
承諾したくないから答えを口にできないのか、それとも、承諾したいけれども職業的な倫理観か何かで迷っているのか。
沈黙が続くうち、貢は妥協案を提示する。
「じゃあ、メアドだけでもいいから。どう?」
「メール……」
少し、心が動き始めたらしい、萌の声。いつしかキーボードの上にのせられた一美の手は止まっていた。
――教えるのか?
萌がそう選択することを考えると、何故か一美の胸の中には何かモヤモヤとしたものが立ち込めた。
別に、退院する相手ならメールアドレスを交換しようが付き合おうが構わない筈だ。病院から出てしまえば、患者と看護師ではなく、ただの男女になるのだから。
だが、彼の胸中はすっきりしない。
「ちょっと、一美さん、手が止まってるよ」
「黙れ」
朗の突っ込みに、短く返す。
と、その時だった。
突然、ナースステーションに置かれたセントラルモニターが、異常を示す鋭い電子音を響かせ始める。振り返れば、康太に着けられているモニターの画面だ。心電図の波形は乱れ、不整脈が頻発している。
いよいよだ。
「小宮山さん、行くぞ」
「あ、はい!」
一美が聴診器を引っ掴んで声をかけると、萌は凛とした声で応じる。未練がましそうな貢の顔が視界の隅に入ったが、そんなのは彼の知ったことではない。
病室に行くと、部屋の中の家族達の顔が、一斉に一美たちに向けられた。
声はない。
ただ、すがるような眼差しがあるだけだ。
一美は小さく会釈をして、室内へ足を進めた。ベッドサイドは混み合っていて、肇は入り口でとどまった。
康太は、母の康子の腕の中にいる。息子を抱く彼女の肩を、父の太一がしっかりと抱えていた。
康太の小さな顔は穏やかで、微かに微笑んでいるようにすら見える。
心電図はすでに波形も飛び飛びで、フラットな一本線だけになる時もある。萌が手を伸ばしてアラームを消すと、部屋には静寂が訪れた。
一美にできることは、何もない。ただ、最期を告げるだけ。こんな時、医者なんぞ無力なものだった。
やがてモニターに表示される心拍数は三十になり、二十になる。
一美は聴診器をつけると、そっと康太の胸に押し当てた。心電図には波形が出ていても、それはすでにただの電気信号と化しており、心臓を動かすほどの刺激ではなくなっていた。
――鼓動は、ない。
今の時刻を確認して聴診器を耳から外し、一美はひたと自分を見つめてくる両親に目を向ける。
「二十二時五十三分、お亡くなりになりました。……ご愁傷様です」
何度も口にしてきた決まりきった言葉だが、何度口にしてきても、喉から出すのに苦労する。
彼が告げた瞬間、周囲にむせび泣きが溢れる。康子の唇も震え、泣き出すのかと思ったが、出てきたのは別の言葉だった。
彼女は手のひらで何度も血の気が無くなった小さな頬を撫で、頬ずりをする。
「ありがとうね、康太。お母さんたちの為に頑張ってくれたんだよね。頑張らせちゃってごめんね、ありがとう」
「うん、良く頑張った。頑張ったぞ、康太」
太一も康子の肩を抱いたまま、手を伸ばして康太に触れる。どちらも頬は涙で濡れていたが、口元はまがりなりにも笑みの形を刻んでいた。
一美が目配せすると、萌がそっと二人に近寄る。
「お口の管を外してあげましょう? そうしたら、また皆さんで抱っこしてあげてください。おじいちゃんとか、おばあちゃんとかも」
存外にはっきりとした目を萌に向けると、康子は小さく頷いて康太をベッドに下ろす。
一美が手早く、だが丁寧に気管内チューブを抜き去った。続いて萌が口周りに残ったテープのベタ付きを拭き取ってきれいにすると、一本だけ残っていた点滴や心電図の電極なども取り外す。
数分の後には、康太は、まっさらの状態でベッドの上にいた。
「では、しばらくしたらまた伺います」
一美はそう残してもう一度頭を下げると、萌と肇を連れて病室を出る。
萌の目は揺らいでいたが、それでも、そこに涙は無い。
もしも萌の目がほんのわずかでも潤んでいたら、一美は即座に他の看護師を呼んでいただろう。
だが、そこに悲しみはあっても、悲嘆でひしゃげる弱さは無い。
不意に、彼女は『看護師』なのだ、という武藤師長の言葉が一美の脳裏によみがえる。
――そうか、この子は『看護師』か。
一美は、改めてそのことを実感する。看護師である限り、病院の中で萌を甘やかすことはしてはならない。彼女は、職務を全うできるのだ。
そう悟った一美は、テキパキと指示を出す。
「じゃあ、小宮山さんはお見送りの準備をして。整ったら教えてくれ。徳永、死亡診断書を書くぞ」
萌にそう声をかけると、一美は肇と共にナースステーションに戻る。家族に渡す為の書類を出して机に向かった。
ふと思い出してチラリとカウンターに目を走らせたが、そこには誰もいなかった。
*
お見送りは、粛々と行なわれた。
康太が入院して二ヶ月という時間が過ぎている為もあるのか、家族が泣き叫んだり取り乱したりする姿を見せることは無かった。
その場にいた一人一人が康太を抱き、声をかけ、そうして準備が整ったら、太一がナースステーションに姿を現した。
「そろそろ行こうと思います」
憔悴はしているが穏やかな眼差しで、彼はそう言った。
「わかりました。では、こちらが死亡診断書になります。死亡届は七日以内に役所に提出してください。……この度は、力及ばず――」
そう言って頭を下げようとした一美と肇に、太一は首を振る。
「いいえ、こちらこそ、よくしていただきました。先生方にも、ですが、僕が仕事であまり付いていてやれなくても、看護師さんが康太のことも康子のことも良く見てくれていたから、随分と助けてもらいました」
そこで彼は目頭に手をやり、拭うと、微かに笑顔になった。
「小宮山さん、でしたっけ。彼女には本当にお世話になりました。ホントはね、彼女が康太に話しかけたり笑いかけたりしてくれてね、彼女があんまり普通にしているから、もしかしたらこの子はちゃんと元気になるんじゃないかって、思った時もありました。最初の頃はね」
そこで太一は言葉を切り、小さく息をついた。
口元には、淡い笑みが浮かんでいる。
「それが、希望になりました。多分、あれがなかったら、初めの二週間を乗り越えられなかったんじゃないかな。元気になる、元気になる、と思い続けて、でも、ある時点から、その気持ちは自然となくなりました――自然にね。そうしたら、こいつはただ僕たちと少しでも長く過ごす為に命を繋いでくれてるんだなぁって。こいつが頑張って心臓動かしてるのは、誰でもない、僕や康子の為なんだって」
今度は、ハンカチを出して目に押し当てた。
「あいつがこれから生きる筈だった何十年に比べれば、短いですよ? 本当なら、何十年も、まだ一緒にいられる筈だった。全然、足りない。でも、この二ヶ月をもらえて、良かったです。ありがとうございました」
太一は深々と頭を下げて再び病室に戻っていく。
「何度経験しても、いたたまれませんね」
そう言いながら、肇が溜息をついた。
助かる為の場所に来たのに、助けられない。
そんなジレンマは、医者には付き物だ。経験が浅い者ほど、それに対する焦りは大きい。一美にも肇の思うことは理解できるが、そこに囚われるわけにもいかないのだ。
一美は肩をすくめて肇に返す。
「仕方がないさ。助けられないものは、助けられない」
「そうなんですけどねぇ……」
「ほら、それよりも行くぞ。小宮山さんも呼んでこい」
「はい……」
活気の無い声で返事をすると、肇は看護記録を付けている萌に声をかけに行く。
二人が戻ってくると、留守番をする他の看護師に一声かけて、連れ立ってお見送りの際に使われる出入り口へと向かった。
基本的に、病院内は静かだ。
だが、その出入り口へと続く廊下は、他とは違う静寂に満ちている。
チラリと一美が視線を横に流すと、萌は少し唇を引き結んで真っ直ぐ前を向いて歩いている。
三人の足音だけが響く中、黙々と進んだ。
出口に着いて十分ほどすると、康子たちが現れた。
小さな子どもの場合、棺などに入れず、そのまま抱いて自宅の車で連れ帰ることが多い。彼女の腕の中にも、大事にくるまれた康太が抱き締められていた。
一美たちに気付くと、康子はその場で一度立ち止まり、深々と頭を下げ、そして、また歩き出す。
時刻は三時を過ぎており、とっぷりと更けた月の無い夜空には月が輝いている。
「お世話になりました」
待っている車の前まで着くと細い声で康子が言い、太一と共に頭を下げる。一美たちも深々と腰を折った。
康子は微かに笑みを浮かべると、萌に向き直る。
「小宮山さん、ありがとうね」
その言葉に、萌は大きく瞬きし、次いで首を振った。
「いいえ……いいえ、わたし……」
それきり口ごもる萌に、康子は更に笑みを深くする。
「あなた、とってもいい看護婦さんになると思うわ。頑張ってね」
「はい……」
康子の言葉に萌は深く頷く。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「ええ、そうね」
そう言うと、もう一度、互いに礼をし合う。
康子たちは車に乗り込み、去っていく。その車影が見えなくなるまで、一美たちは頭を深く下げて送り出した。
車の姿もエンジン音も消え去って、後は一美たちだけが残される。
「さあ、俺たちも引き上げるぞ」
車が走り去った方を見つめたままの萌に声をかけ、一美は歩き出そうとする。が、ポツリと、呟くようにこぼされた彼女の声に足を止めた。
「え?」
うまく聞き取れなくて、一美は振り返る。
「わたし……ちゃんとうまくできたんでしょうか」
「小宮山さん」
「もっと、何かしてあげられたんじゃないでしょうか」
彼女の目は、一美を見ていない。まだ、康太が乗った車の影を見つめているように、遠くへと向けられていた。
一美は肇に向けて先に行くようにと手を振ってから、萌の両肩を掴んで自分に向き直らせた。彼が手を放しても、萌の顔は俯いたままだ。
「もっと……もっともっと、何かできたんじゃないかと思うんです」
か細い声に、一美は、殆ど衝動的に彼女を抱き締めたくなった。
女を『抱き』たいと思ったことはいくらでもある。だが、今彼の中にあるものは、それとは違った。ただ『抱き締め』たいと、自分の腕の中に包み込んでしまいたいと、思ったのだ。
それは一美にとって初めての感情だった。『抱く』と『抱き締める』は明らかに違う。だが、何がどう違うのか、彼自身にも説明はできなかった。
動いてしまいそうになる両手を握り締めて、一美は口を開く。極力、普段と同じ口調になるように心がけて。
「君は、あの子のケアで手を抜いたのか?」
「え?」
萌がようやく顔を上げる。
「別に、手を抜いたわけではないのだろう?」
「はい……」
「だったら、それが全てだ。現時点で君ができ得る限りのことをしたのなら、それ以上でもそれ以下でも無いんだ」
実際のところ、同じ職種ではない一美の目から見ても、経験の浅い看護師とは思えないほど、良くやれていたのではないかと思う。
それを伝えて褒めてやるのは簡単だ。
だが、きっと、萌は褒め言葉を欲しているわけではない。
こんな結果に終わった以上、他人がどんなに彼女のしたことを称賛しようが、それはたいした力を持たない。自分自身が自分のしたことを認めてやらなければ、結局はどんな言葉もただの気休めになってしまうのだ。
「君は今回、今の君ができる範囲のことをやった。後できることと言えば、この経験を次に生かすことくらいだ」
彼の突き放したようにも聞こえる台詞に、萌の顔がクシャリと歪む。
泣くのか。
そう、一美は身構えたが、彼女の目から雫が零れ落ちることは無かった。その代わりに、深く頷く。
「はい……はい、そうですね。ありがとうございます」
そう言って、ニコリと笑った。
『看護師』である萌を甘やかすことはしない。
そう心に決めたのは、一美自身だ。
だが、今この時、彼女を労わってやることができたなら、どんなに自分の心が安らぐだろうと、彼は思った。