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病室のドアを開けると、一美の耳にはパシャン、という微かな水音が届いた。
そしてそれに続く、女性二人の軽やかな笑い声。
樫本康太が入院してすでにひと月ほどが過ぎ、ようやく生まれて五か月になった赤ん坊は、『膠着』という名の小康状態を保っていた。
危険な急性期を過ぎた今は、手足に三本入れられていた点滴も一本だけとなり、生命徴候をチェックするためのモニター類も、必要最小限のものだけとなっている。
――呼吸器は、相変わらず外すことが叶わないままであったが。
病室に入ってきた一美に初めに目を向けたのは、康太の母親の康子だ。
彼女が会釈をしたことに気付いて、入口に背を向けていた萌が振り返る。
「岩崎先生」
楽しそうな笑みを口元に浮かべたまま萌が名前を呼ぶのへ、一美は片手をあげて応えた。
どうやら康太を沐浴させていたようで、ベッドサイドに置かれたベビーバスの中で、赤ん坊はゆらゆらとたゆたっている。
康太に視線を戻して沐浴を続けながら、萌が言う。
「こうちゃんはお風呂が好きみたいで、入れてあげると伸びーってするんです」
「小宮山さんが入れてくれるのが、一番好きみたいですよ。ほら、何だか笑ってるみたいに見えません?」
そう後を引き取った康子の眼差しは、入院してきた当初に比べれば随分和らいでいた。泣き顔か能面のような無表情しか見せなかった彼女も、今は笑顔を浮かべるようにもなっている。
もちろん、その目の奥に潜む哀しみの色は、決して消えはしない。
だが、それでも、こうやって笑い合えるようになってきたのは、大きな変化だった。
「よし、こうちゃん上がろうか」
朗らかな声でそう言うと、萌が慎重な手付きで康太をベッドの上に戻す。
呼吸器がしっかりつながっていることを彼女が確認し終えると、待っていた康子がタオルで水気を拭い、保湿剤を塗っていく。
肌の温もりを確かめているかのような手付きで、丁寧に。
康子が康太に服を着せ終わるのを待って、一美は口を開いた。
「お母さん、午前にした脳波検査の結果なんですが……」
懇々と眠り続けているようにしか見えない我が子から、康子は視線を一美へと動かす。
かつては、検査結果を話しに来る度に、その目を強い渇望で光らせていた――何かほんのわずかなものでも構わないから、回復の兆しはないのかという、渇望で。
だが、今の彼女にはそれはなく、ただ、ジッと一美の言葉を待っている。
その穏やかさが諦念によるものなのか、受容によるものなのかは判らないが、とにかく、康子の中に変化が訪れているのは、確かなことだった。
再び一美の口が開く前に、萌の手が伸びて康子の指先に触れる。康子は眼差しを一美に据えたまま、それを強く握り締めた。
「以前と変わりはありません。反応は乏しいです」
同じ台詞は、これで二度目。
脳波検査はこれまでに三回行なっているが、結果は甚だ芳しくない。まるで定規で引いているかのような平坦な線が描き出されるだけだ。
一度目の説明は「脳の活動を示す波形は非常に弱いです」。
二度目は「前回と変わりません」。
そして三度目が、今のものだ。
彼の言葉を聞いても、康子の表情は変わらなかった。ただ、萌の手を握る指に、力がこもっただけだ――関節が白くなるほどに。
「旦那さんが来られたら、またお話ししましょうか?」
そう尋ねると、康子は首を振った。そして、萌の手を放す。
そこには、はっきりと指の痕が付いていた。
康子は小さく息を吐くと、はっきりとした声で返す。
「いいえ、大丈夫です。主人には、私から話しておきます」
「そうですか」
答えて、一美は康太に視線を落とす。
CT検査でも、脳波検査でも、この小さな頭の中に入っている脳みそが回復するという期待を抱かせてくれる所見は皆無だった。
康太がこの状態になって、すでにひと月。恐らく、『その時』はもうそれほど遠くない未来に訪れるだろう。
「では、何か質問があればまたおっしゃってください」
そう残して退室しようとした彼の耳に、萌と康子の会話が届く。
「わたし、ここにいた方がいいですか?」
「……いいえ、しばらく康太と二人に……」
「わかりました。じゃあ、いつでもナースコールを押してくださいね」
「ありがとう……ごめんなさいね、手、赤くなってしまったわ」
「大丈夫です、こんなの。じゃ、失礼します」
萌が押すベビーバスを載せたカートを、一美は引っ張ってやる。
部屋を出る間際にチラリと見えた康子は、手のひらを押し当てるようにして、康太の頬に触れていた。
部屋を出た一美はカートから手を放し、代わりに萌の腕を取る。
「岩崎先生?」
怪訝そうな声で呼んでくるのを無視して、彼女の手を調べる。
自分のものの半分くらいしかないのではないかと思えるような小さなそれを、一美はしげしげと見つめた。
康子に握られていたところは赤くなっていて、包み込むように触れてみると微かに熱を持っている。萌は何ともないような顔をしていたが、ずいぶんな力が込められていたのだろう。
「あの……? ……大丈夫ですよ?」
彼が何を思っているのかを悟ったのか、萌は少し困ったような声音でそう言った。顔を見ると、その頬はいつもよりも赤味が増している。
そうして、一美は気が付いた。自分が以前、朗に言っていたようなセクハラ紛いの行動を取っていることに。
「ああ……すまない」
すぐに手を放そうとして、ふと眉根を寄せた。
自分の感じたものを確かめる為に、もう一度萌の手を握る。それを放して、今度は彼女の頤に手を掛けた。
そして、右、左と向けさせる。
「先生……?」
今の萌の声にあるのは、明らかな困惑だった。
一美はムッと眉間にしわを寄せる。
元から彼女は丸顔だから気付きにくかったが、今は真っ赤に染まったその頬は、以前よりもわずかに肉が落ちていた。
「君は、ちゃんと食べているのか?」
「え?」
唐突な一美の質問に、萌が目を丸くする。
今度は明らかな渋面で、彼は繰り返した。
「痩せただろう。食事を摂っているのか?」
「え、あ、はい、ちゃんと食べてます」
「カロリープラスとか?」
先回りして一美がバランス栄養食の名前を挙げてやると、一瞬、萌の大きな目が泳いだ。
目は口ほどにものを言う、だ。どうせ時間がなくてろくなものを食べていないに違いない。
康太のケアには、他の患者よりも手間と時間を要する。
萌は康太の受け持ちを優先して当てられるが、患者はあの子一人ではない。だが、彼女は、康太にかまけて他の患者の世話がおろそかになる、ということはなかった。
限りある時間をどうやってやりくりしているのか、となれば、自分の時間を減らすしかない。
霞谷病院の看護師の勤務時間はかなり厳格に守られている。休憩時間はしっかりと、残業はなし、というふうに。
武藤師長も普段はその辺りを厳しく指導している筈なのだが、今回はどうも萌の好きにさせているらしい。
一美は手を下ろすと、ホッとしたように小さく息をついた彼女に向けて、きっぱりと宣言した。
「今晩、飯に行くぞ」
「は?」
何の脈絡もなく唐突に言われたことに、萌はまさに鳩が豆鉄砲を食らった顔になる。
「九時半には帰れるだろう? その後、何か食いに行こう。奢るから」
「でも……」
「二人だけだと気まずければ、誰か誘ってもいいから。ほら、中野さんとか。彼女は今日休みだろ? メールしとけば夜には出てこられるんじゃないか?」
「えぇっと……」
なおも反論しようとする萌をヒタと見据える。その視線に負けたのか、彼女は殆どうなだれるようにして頷いた。
「……わかりました、リコさんに連絡してみます。リコさんがダメだったら――」
萌の言葉は一睨みで封じた。
「はい、ごちそうさまです」
「じゃあ、店は俺が手配しておくから」
きっぱりと一美がそう言い切ると、彼女はもう観念したようだった。