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天使と狼  作者: トウリン
SS

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後日譚②

 陣痛が始まってすでに十数時間、萌が分娩室に移動してからは四時間が経っていた。分娩室に入ったのは夕方になってからで、そろそろ夜を迎えようとしている。

 一美は幾度となく控室から出て分娩室の前まで行ってはみるものの、閉ざされた自動ドアから得られる情報は何一つない。

 初産だから時間がかかるのは仕方がないとはいえ、あんなに小柄な萌の体力が持つのだろうかと、一美は気が気ではなかった。陣痛室にいる間は傍にいられたが、この霞谷病院産婦人科の方針で、家族の分娩立会いは許されていない。では、小児科医として立ち会わせてくれと言ったら、産科の医者には冷たい眼差しを向けられた。「公私混同するな」と。

 遮音性の高い扉からは、分娩室の中の物音は全く聞こえてこない。

 普段、小児科医として立ち会った時に目にしてきた分娩時の母親の苦しみようが一美の脳裏に否が応でもよみがえり、どうにも落ち着かなかった。

 ひとしきり扉の中の気配を窺って、また控室に戻る。

 家族控室には人が詰めかけていて、それなりの広さがあるというのにかなり窮屈だった。

 一美の両親の一香いちか美彦よしひこ、萌の母親のめぐみと異父妹弟、『クスノキの家』の優子、勤務を終えた武藤師長、それに、何故か朗だ。リコや他の看護師たちも昨日から気にしてくれている。

「どう?」

 戻ってきた一美に、一香がいつも通りの表情で問い掛けてくる。その隣の美彦も、心配している素振りなどまったく見せてはいないが、常に仕事で飛び回っているこの両親が何もせずにここでこうして待っている、という事実がその心中を表しているのだろう。

「動きは何もないですよ。初産だし彼女は小柄だから、出しにくいんですよ、きっと」

 身長が低いと骨盤も狭いから、赤ん坊の頭が通らない時がある。萌の背はそこまで低くはないが、それでも、これ程時間がかかっているということは、やはり通りにくいのかもしれない。

 一美は一度ソファに腰を下ろしたが、どうにも尻が落ち着かず、また立ち上がる。ただ立っているのもなんなので、分娩室の様子をみてこようと、ドアノブに手をかけた。

 と、そこへ武藤師長の呆れ果てた声がかかる。

「もう少し落ち着いたらどうですか」

 振り向くと、表情もまた、呆れ返っている。その隣に立つ優子も、浮かべているのは苦笑だ。

「産まれたら、ちゃんとここに知らせに来てくれますから。どっしり構えていなさいよ。今日の小児科当直は松井先生でしたっけ? 何かヤバそうなことがあれば、すぐに彼女が呼ばれるでしょ。呼ばれていないってことは、大丈夫だってことなんですから」

 まったく、情けないとか何とか呟くのが聞こえれば、一美もノブをひねることができなくなる。

 渋々と手を下ろしかけたその時だった。

 ガチャリとドアが開き、助産師が顔を見せる。普段見慣れた彼女の顔が、一美にはまるで神のお告げを持ってきた天使のように見えた。

 助産師は扉を開けてすぐ目の前に立っている彼に一瞬引いたが、すぐに満面の笑みになる。

「お産まれになりましたよ!」

 彼女のその言葉とともに、部屋の中が一斉にざわめき立つ。それを背で受けながら、一美は恐る恐る訊いた。

「元気、なのか?」

「ええ、もちろん。赤ちゃんだってよく泣きましたし、萌さんは……まあ、疲れてはいますが、何も問題はありません。あと二時間は分娩室にいないとですが、お父さん――岩崎先生は会えますよ。行きますか?」

 否の答えはあり得ない。一美は振り返って一同に告げた。

「行ってくるから」

 そうして、先に立って歩き出した助産師の後に続く。

 何度も通ったことのある分娩室への自動扉が静かに開くと、一美の鼓動は痛みを覚えるほどに高鳴り始めた。萌の姿を見ていなかったのは数時間がせいぜいだというのに、もう、何年も会えていないような気がする。

 もう一枚扉をくぐると、すぐに分娩台が目に入った――その上に横たわる人影も。

「萌さん、岩崎先生ですよ」

 助産師の声に、分娩台の上がもそもそと動く。

「あ、起きないで、そのままで。ほら、先生、傍に行ってあげてくださいよ」

 制止の声をかけたその顔で、助産師は一美を振り返ってせっついた。

「ああ……」

 一歩一歩分娩台に近付くと、横たわる萌の顔が見えてくる。

 疲れが色濃くにじんだその顔は、長い時間力んだせいか、むくんで、赤らんでいる。放心しているのかと思っていたら、一美と目が合って、彼女はふわりと微笑んだ。

「一美さん」

「萌……」

 見るからに疲労困憊の萌に、かける言葉が見つからない。

 と、萌がかけられていた毛布をそっと持ち上げた。むき出しの胸の上に、小さな彼女の手に支えられた、小さな姿。オムツだけで、産着はまだ着ていない。萌の肌をまさぐるように動く手足には、ちゃんと指が五本ある。真っ赤な顔はしわくちゃで、今まで見慣れてきた新生児たちと同じように、猿さながらだ。

 不意に、一美の視界が揺れた。何度か強く瞬きをして、ようやくまたはっきりする。

「ちゃんと、女の子ですよ」

 毛布を戻しながら、くすくすと笑って言った彼女のその声は、少ししゃがれていた。

「そうか……」

 そんな返ししかできない自分が、歯がゆくて仕方がない。だが、この胸にこみ上げる気持ちをどうやって表わしたらいいのか、さっぱり判らなかった。

 一美は手を伸ばして腫れた萌の頬に触れる。

「ありがとう」

 彼の口からこぼれたのは、それだけだ。しかし、それ以外の、どんな言葉を彼女に告げたらいいというのか。

 つたないことこの上ない一美に、萌は大きな瞬きを一つして、晴れやかな笑みを浮かべた。


   *


 当然のことながら萌は随分と疲れていたようで、分娩室から病室に戻って、半日以上は眠り続けていた。後陣痛も治まり、まともに会話ができるようにはなったのは、丸一日以上が過ぎた頃だ。

 霞谷病院は母児同室なので、出産後一日経つと、赤ん坊の世話は殆ど母親がすることになる。産まれて三日も経つときっちり三時間毎のペースでミルクを欲しがるようになる為、母親は赤ん坊と同じように夜も昼もない生活になるのが常だった。萌も分娩の疲れが取れたと思ったら、今度は子どもの世話でショートスリーパーになっている。

 今も、仕事の合間に病室を訪れた一美の前で、彼女はぐっすりと眠りこんでいた。頬にかかっている髪の毛をそっとよけてやったが、さっぱり気付いた気配はない。これほど深い眠りでも、赤ん坊が一声泣けばすぐに目覚めるのだから、不思議なものだ。

 物音を立てないようにして、一美は透明なアクリル製のコット(新生児用キャリーベッド)の中を覗き込む。赤ん坊は目を開けていて、もそりもそりと手足を動かしていた。

 一美の顔に気付くと、ジッと視線を合わせてくる。

 彼は両手を伸ばして慎重に我が子を抱き上げた。腕の中にすっぽりと納まる小さな温もりを、ゆるゆると揺する。ふわりと漂うのは、ミルクの香りだ。

 赤ん坊は口をすぼめたり、欠伸をしたり、瞬きをしたり、ひとしきりさまざまな表情を見せていたが、やがて目蓋を閉じた。

 産着とタオル越しにも伝わってくる、高い体温。

 これが、自分と萌の子どもだ。

 二人の間に、生まれた命。何ものにも代え難い、唯一無二の存在。

 そう思うだけで、胸の中が熱くなる。

 萌と、そしてこの温もりを護る為に、自分にはいったいどれほどのことができるだろう。

 一美はそんなふうに自問する。

 答えは一つだけであるような気がしたし、無限にあるような気もした。

「一美さん、来てたんですか。声をかけてくれたらいいのに」

 不意に背後で上がった声に、一美は赤ん坊を抱いたまま振り返る。

「萌。悪い、起こしたか」

「いいえ、そろそろお腹がすく時間だから。泣いてましたか?」

「いや……今も寝てしまったぞ」

「あれ、そうですか?」

 一美の返事に萌は意外そうに声を上げた。そして、にっこりと笑う。

「あ、そうか。やっぱり、一美さん、赤ちゃんを抱っこし慣れてるんですよ。きっと、気持ちいいんです」

「そうか?」

 首をかしげながら、彼は子どもを萌に差し出す。と、彼女に渡ると同時に、ポカリとその目が開いた。もそもそと顔を動かし、舌をペロペロと見せ始める。

「なんだ、やっぱり腹が減ってるんじゃないか」

「ふふ、赤ちゃんって、敏感ですよね。おっぱいの匂いがわかるのかな」

 言いながら、胸をはだけた萌は赤ん坊の口に乳を含ませてやる。一美の腕の中では今にも眠りそうだったのに、今は鼻息も荒く、喉を鳴らして乳を飲んでいた。萌は柔らかく微笑みながらその様を見下ろしている。

 ベッドサイドに腰を下ろして二人の様子を見つめる一美は、それを、最高に、幸せな光景だと思う。多分、彼にとってこれ以上のものはない。

 その眼差しは、殆ど『凝視』に近いものだったのだろう。

「……一美さん、あんまり見られてると、ちょっと恥ずかしいです」

 不意に、萌がそんなことを口にした。気付けば、その頬が赤らんでいる。今まで散々触らせてきたんだから、見るくらい別にいいじゃないかとは、一美にも口が裂けても言えない。

「ああ、悪い」

 一応謝って、一美は視線を外した。

 五分ほどしてごそごそと衣擦れの音がする。

「もう、いいですよ」

 向き直ると、萌の腕の中の赤ん坊は今度こそ眠りに落ちていた。

 飲んで、寝る。

 今はそれだけしかない。能天気なものだ。

「明日、退院だろ? こいつの黄疸も大丈夫そうだし、予定通りに帰れそうだが」

「はい。わたしも特に問題ありませんから」

 入院していれば家事はしなくて済むからその方が楽だろうに、萌は帰れることが嬉しそうだ。その理由は、たぶん一美が想像している通りだろう。

 ふと、少し意地の悪い気持ちになって、一美は彼女に言った。

「ここにいる方が楽だろう? 何なら、少し入院伸ばしてもらってもいいぞ?」

 実際には、そんなことはできはしない。霞谷病院の産科は、いつも満員だ。

 彼の台詞に、萌はまさに打てば響くタイミングで首を振った。

「イヤです」

 一美は胸中でほくそ笑む。

「けどな、ここなら赤ん坊の世話だけに専念していればいいだろう?」

 いかにも、彼女のことを考えているように、続けた。

「だって、ここには――」

 萌は言いかけて、ハッと口を閉じた。

 思わず緩みそうになった口元を引き締めつつ、一美は追いかけた。

「ここは、何だ? もしかして、対応が悪いのか? なら、産科に言っておかないと」

「そんなことないです! みなさん、とても良くしてくださいます」

 大きな声を出しかけて、すやすやと眠る赤ん坊に視線を落とし、萌は声をひそめる。

 じゃあ、何故? と目で問う一美に、萌はジトリと上目遣いになった。そうして、もごもごと続ける。

「だって、ここには、一美さんがいないから……」

 ここで一美が笑ったら、きっと萌は怒る。だが、嬉しくて笑えてしまうのは、仕方がないことではないか。

「何、にやにやしてるんですか! もう! そんな人には、この子を抱っこさせてあげませんから!」

 頬を真っ赤にした彼女を見るのは、久しぶりだった。これ以上やったら、本当に子どもに触らせてくれなくなるかもしれない。

 一美は萌の頭に手を伸ばして自分の胸に引き寄せると、その耳元に囁いた。

「俺も、君に――君とこの子に、早く帰ってきて欲しいよ。あの部屋での独り寝は、もううんざりだ」

 そうして、笑みを消して続ける。

「明日、帰る時に役所に寄ろう。この子の出生届を出さないと」

 名前はとうに決まっているが、まだ出生届は提出していない。届けは彼一人ではなく、萌と二人で出しにいきたかったのだ。いや、これだけではない。この先にある様々なことを、全て萌と為していきたいと願っている――二人が共にある限り、ずっと。

 萌の頭に添えた手を頬にずらし、一美はその目を覗き込んだ。

 火照った頬はそのままに、彼女は頷く。

「はい」

 目尻に微かににじんだ涙を親指で拭ってやりながら、一美はそっと触れるだけのキスをした。


二人っきりのベタ甘新婚生活を期待されてたら……スミマセン。

でも、二人の幸せは、『二人きり』よりもこの方が大きいと思うのです。

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