エピローグ
――なんだろう。
萌は触れたものの正体を確かめようと、サワサワと探る。温かくて、すべすべしてて……その温もりは、覚えがあるような気がするけれど、何だったろう。
眠りに片足を突っ込んだまま、萌は考える。
ぐっすりと眠っていた所為なのか、身体が妙に気だるくて、なかなか頭が回らない。
どうにかこうにか重い目蓋をこじ開けて、萌はそれを見た。見て、目の前にあるものが何なのかを知った時、思わず悲鳴をあげそうになって、慌てて口を押さえる。
そうだった。自分は昨日結婚式をして、そして。
昨晩のことを思い出してしまった。
――ああ、どうしよう。彼の顔なんて、見られない。
ジワジワと、熱が上がっていくような気がする。
最初に、何て言ったらいいのだろう。普通は、何て言うのだろうか。
一美が目覚める前に、彼にかける第一声を決めなくちゃと必死で頭を働かせるのに、全然思い浮かばない。
ほとんどパニックに陥る寸前だった萌の耳に、クッというくぐもった声が届く。
そして、伝わってくる、振動。
「……先生?」
恐る恐る声をかけると、パッと彼の目が開いて、咄嗟にシーツを引っ張り上げる。
一美の目はあからさまに「今更な」と言っているけれど、その意味を深く考えたくない。彼がギュッと抱き締めてきて、萌は触れ合う素肌をより強く実感する。頭に血が昇って、クラクラして、どうにかなってしまいそうだった。
けれど、萌がおかしくなる前に、一美の腕の力がフッと緩む。そして、気遣わしげな声が届けられた。
「身体……つらくないか?」
そんな問いに、いったい、どう返したらいいというのだろう。そんなこと、訊かないで欲しい。
「萌?」
黙ったままの萌に、一美が顔を覗き込んできた。退路を断たれて、萌は率直な感想を述べる。
「すっごく、痛かったです」
そして、沈黙。
「……悪い」
ややして、彼がそう言った。その声が本当に申し訳なさそうだから、思わず萌は笑ってしまった。強張っていた身体から力が抜けて、自分から、少し、身を寄せる。
「でも、幸せです……すっごく」
「……そうか」
ホッとしたように、一美がそうつぶやいた。そうして、抱き締めてくれる。もう緊張することなく、萌はその温もりに身を委ねて、穏やかな彼の鼓動に耳を寄せた。
と、不意に気付いたように、彼が再び口を開く。
「そう言えば、君はいつまで俺を『先生』と呼ぶつもりなんだ?」
「え?」
「そろそろ名前で呼んでくれ」
それは、確かにその通りで。萌は少し逡巡した後、その名を口にする。
「――し、さん」
「聞こえないな」
さっきの、仕返しだろうか。どことなく意地悪な響きが含まれているのは、きっと、気の所為じゃない筈。
「一美、さん!」
お腹に力を入れて、声を出す。そうすると、クスクスという忍び笑いが聞こえてきて、萌はムッと唇を引き結んだ。
「そう呼ぶの、家の中だけですからね!」
「病院の外、じゃなくて?」
「そう!」
萌は殆ど意地で、力いっぱいそう頷いた。
その返事に、頭の上で笑い声が響く。そして、頭の天辺に、柔らかくて温かなものがそっと触れた。
「それでもいいさ。俺の前でだけ、他のヤツとは違う顔を見せてくれるというなら、願ってもない」
「……先生には、敵いません」
そうつぶやいた萌に、一美は「何を言う」と返してきた。
「俺こそ、君には敵わない。きっと、一生、な」
それ以上の萌の抗弁は、彼の唇の中に消えていく。
その優しい口づけに酔いながら、萌は思う。先のことは判らない。けれども、今、確かに自分は幸せを噛み締めている。それは確かな真実なのだ、と。
そうして、後はもう何も考えられず、覆い被さってくる甘やかな波に、ただ身を任せるだけだった。
これでお話はおしまいです。
最後まで付き合って下さって、ありがとうございました。お気に入り登録、評価、感想を入れてくださった方、とても励みになりました。
『肉食系』とあるのに「全然肉食系じゃないじゃん!」というのは、心の中のつぶやきで。正しくは、『元、肉食系』ですね。今回はとにかくグダグダ考えてしまう女の子を書こうと思っていたので、何だか途中はイライラされたのではないかと思います。そこを吹っ切って最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
何かサイドストーリーなどが思い浮かべば、また投稿するかもしれませんが、ひとまずはここでおしまい、です。
では、重ねて、読了ありがとうございました。