12
五月の空は、微かに霞がかって柔らかに広がっている。
式は身内だけの、こじんまりとしたものだった。
確かに一美は一香と美彦の息子だが、岩崎循環器病院の跡取りではない。医学会の重鎮達を招く必要は、まったくなかった。霞谷病院小児科病棟の面々、萌の『家族』たち――めぐみもいる――、一美の両親と友人達、そのくらいだ。
萌が一美のプロポーズを受け入れたのは、秋。
それから一美の両親の予定を調整し、半年以上を待って、ようやくこの日を迎えられた。
萌の姿を探せば、満面の笑みで『クスノキの家』の人たちに囲まれている。
現在のスタッフや入所している子ども達だけではなく、卒業していった者たちも、大半が招待に応じていた。オーガンジーを幾重にも重ねたミニドレスは華やかで可愛らしいが、彼女のその笑顔には敵わない。
離れた所からその様子を見つめ、一美は、あの笑顔を自分が一生守っていくのだと強く心に刻み込む。わずかな影も差させはしない、と。
と、そんな彼の肩に、ドサリと重みが加わった。
「かぁわいいねぇ、萌ちゃん。いいよねぇ、自分の奥さんに見惚れる旦那って」
耳のすぐ傍でそんな台詞が吐き出され、一美は邪険にその重みを――朗の腕を振り払った。その隣には、出会うなり彼と意気投合したらしい優人がいる。
性格的には共通するところのない二人だったが、一美を餌にして軽口を叩き合うのは息がぴったり合うらしい。
「お前の好みが、実はああいうタイプだったとはな。これまで長続きしなかったのも当たり前だ。趣向とまったく合っていなかったんだからな」
優人が同様に萌を見遣りながら、そう頷いた。子どもの頃からの女性遍歴を知られている相手に言われ、一美は眉間に皺を寄せる。
「趣向がどうとかいうわけじゃない」
結婚式という場に合わないむっつりとした顔でそう答えると、途端、朗が大げさな仕草で振り返った。
「うわぁ、ちょっと、聞きました、優人さん?」
「ああ、確かに」
「新婚早々、惚気られちゃったよ」
「こいつが、なあ……中学生の時からの女遍歴を、彼女に聞かせてやりたいよ」
ニヤニヤ笑う悪友二人が、実に腹立たしい。
「別に、惚気でも何でもないだろう」
ムッツリと言った一美に、朗はわざとらしく片手で目を覆い、天を仰いだ。
「自覚なしだよ……」
「鈍いな」
肩をすくめてつぶやく優人を、一美は睨み付ける。そんな彼の肩に肘を載せ、朗は囁く。
「好みとか何とか以前に、『彼女だから』好きなんだろう? それが惚気じゃなくて、何なわけ?」
それのどこが悪い、と一美は平然と朗を見返した。まさにその通りなのだ。仮に、萌の外見が普段彼の『好んで』いた女性たちと同じだったとしても、一美が選ぶのは『萌』しかいない。
一美の反応が悪かった為か、それともその開き直りぶりに呆れたのか、朗も優人もそれ以上、そのことについては突っ込んでこなかった。
代わりに、また次のネタを振ってくる。更に、たちの悪いものを。
朗は一美の真正面に立ち、ポンとその両肩に手を載せた。
「ところで、一美君。オレと優人さんは、是非ともお前に訊きたいことがある」
「何だ?」
珍しく、朗が真面目な顔付きをしてみせる。釣られて、一美も真面目に応じてしまった。
――朗の辞書に『真面目』という文字が欠落していることも忘れて。
「あのな、お前と萌ちゃんって……もう、ヤッた? ――イテッ!」
朗の台詞が終わるや否や、ガツンと鈍く響いた音と、彼の呻き声。自分でも思った以上に力がこもってしまい、一美は朗の頭を殴り付けた拳を何度か開閉した。しばらくペンが持ちにくそうだ。
「この反応は、君の勝ちか、有田さん」
「そうだねぇ」
殴られた頭をさすりながら、朗がニンマリと笑う。その忌々しい顔を、一美はギロリと射殺しそうな目で睨み付けた。
そんな一美の眼差しなどどこ吹く風、といった風情で朗は飄々と言う。
「いやぁ、二十年の付き合いと、現在進行形の付き合いと、どっちがより深くお前を理解しているかって、舘さんと賭けをしたんだよ。ちなみに、オレは『手を出していない』、彼は『もう手を出しまくり』。な? オレの勝ちだろ? まあ、萌ちゃんのことを知ってる分だけ、オレに分があったんだけどね」
「だが、付き合ってから約二年だろう? ……まさか、もう枯れたのか?」
優人の口調が本気で心配そうなのが、逆に腹立たしい。放っておけ、と言ってやりたいが、むしろ何も返さない方がいいのだろう。
無視を決め込んだ一美の代わりに、ピシャリとはたき付けるような声が響く。
「まったく! 神聖な席で、何下品なこと言ってるんですか!」
「やあ、リコさん! そのドレス、すごく似合ってるよ」
下品な台詞を吐いた本人は、眉を吊り上げたリコの叱責をニッコリ笑ってサラリとかわす。
「何で、あなたって人はそうなんですか。こういう時くらい、ちゃんと真面目にやってくださいよ」
「イヤだなぁ、リコさん。オレはいたって真面目だって。真面目に、ホントのところを聞きたかったんだよね。ほら、今後の二人の予測の為に」
「そういうのを、余計なお世話って言うんですよ!」
噛み付くリコにも、朗はヘラヘラとするだけだった。彼女は深々と溜息をつく。
そんな、神聖さとはかけ離れた淀んだ会話に、一服の清涼剤のような声が差し込む。
「皆さん、お揃いなんですね」
ドレスをふわふわと揺らしながら駆け寄ってきた萌が、『オトナ』たちを見回してニッコリと笑顔を浮かべた。朗が手を伸ばすよりも先に、一美は彼女の肩を捉える。人前で抱き寄せられたことに頬を赤らめながらも、萌は先のものとは違う笑みで彼を見上げた。
「幸せそうだねぇ、萌」
しみじみと、リコが言う。萌は彼女に向けて、満面の笑みと共に大きく頷いた。
「はい、とっても」
「これまた、判り易い惚気で……」
毒気を抜かれた顔で、朗がつぶやく。萌が相手ではからかうわけにもいかないようだった。
「あぁあ、私も結婚したくなってきたぁ」
萌の純白のドレスに憧れの溢れる眼差しを向けたリコが、ため息と共にそう漏らす。すかさず満面の笑みで己を指差したのは、朗だ。
「あ、オレがもらってあげようか? この間、彼氏と別れたんだろ?」
「絶っ対、お断り!」
まさに叩きつける勢いで間髪入れず即答したリコに、朗は「残念!」と笑っただけだった。
いかにも二人らしいやり取りに、萌もクスクスと笑みをこぼす。揺れるその肩を包み込む手に、一美は無意識のうちに力を込めた。
萌の肩は、悲しみや、寂しさや、そんなもので震えた時もあっただろう。これまでは、独りでそれを乗り越えさせてきた。
だが、これからは一美が傍にいる――いつでも、どんな時でも、傍にいられるのだ。
もっとも、彼女のことだから、何かあっても簡単には頼ってくれず、ただ傍にいるだけになるかもしれないが、それでも、独りきりには決してさせない。眠れぬ夜には一晩中だって彼女のことを抱き締めていてやる。
「先生?」
顔を引き締めた一美に、萌がどうしたのかと窺う眼差しで見上げてくる。
「いいや、何も」
短くそう答え、一美は少し屈んで彼女の耳元に唇を寄せる。他の連中には聞かれないように。
「……君と出会えて、良かった。君がこの世に産まれてきてくれて、本当に良かったと、心の底から思う」
萌は、数度瞬き、そして頬を薔薇色に染め上げながらフワリと笑う。
「わたしもです。わたしも、先生に会えて、良かった……産まれてきて、良かった」
言葉よりも、顔中に溢れる想いが、彼女の気持ちを伝えてくれる。
込み上げる愛おしさに、殆ど衝動的に、一美は萌を抱き締めた。
大事にしたい。慈しみたい。幸せにしたい。
彼の中はそんな『欲望』で満たされ、そしてそれは溢れ出る。
冷やかしの声など構わず、一美は愛しい花嫁を抱き上げた。
*
不意にざわついた一角に、優子と武藤師長、そしてめぐみは目を向ける。その中心にいるのは、一美と、彼に抱き上げられて喜びと困惑の入り混じった複雑な笑みを浮かべた、萌だ。
「まったく、オッサンは照れってもんがないから、あの子も大変だね。少しは我慢してやったらいいのに」
呆れたような武藤師長のぼやきに、優子が笑う。
「あら、でも萌はおくてだから、あのくらい強引な方がいいかもしれないわ。彼でなければ、まだ結婚までこぎつけていなかったかもしれないわよ?」
「ああ……それは言えてるかも。まったく、あれやこれやで、何度ダメになるかと思ったことか」
武藤師長はため息をつきながら肩をすくめた。そんな親友の様子にクスクスと忍び笑いを漏らした優子だったが、ふと、真顔に戻る。
「あなたにあの子を任せて、本当に良かったと思うわ。私では、あの笑顔を作ることは絶対に無理だったもの」
少し寂しげな優子に、武藤はニヤリと笑った。
「そりゃ、そうだ。あんたは母親、彼は旦那。同じ顔は見せないよ」
不意に、それまで黙っていためぐみが口を開く。
「私、あの子に何にもしてあげてないのにこんな所に来るなんて、本当に良かったんでしょうか……」
顔を伏せてポツリとつぶやいた彼女の背に、優子が手を添える。
「あなたはあの子のお母さんでしょう? 当然じゃないですか」
「でも、一目見るなり逃げ出して、その後も放っておいて……」
より深く俯いた目元から雫がこぼれ落ちて、パタリ、パタリと芝生を揺らす。だが、その涙を、武藤師長はあっさりと笑い飛ばした。
「まあ、黙って逃げ出したのはまずかったけどね、結果オーライじゃないの? ちゃんと見てごらんよ、あの子を。あの子の『今』を見てやらずにただ後悔するだけじゃ、それは単なる自己憐憫だよ」
めぐみの肩に手を置いて、抱き上げられたまま一美に何か言っている萌に向き直らせる。
「確かに、めぐみさんが手放さなければ、『もっといい人生』だったかもしれない。けど、多分、あの子はあれでいいんだよ。ここに至る為なら、全部『正しい道』だったんじゃないかな。平坦で楽チンじゃぁなかったかもしれないけど、これで良かったんだよ」
「そうで、しょうか……」
めぐみはつぶやいて目を上げ、そして、輝かんばかりの光景に向けた。
「過去はどうやったって変えられないんだから、これからを見ていかなきゃならないんだよ。人間、生きていたらどうしたって失敗ばかりだけど、罪悪感で目を逸らすんじゃなくて、じゃあ、これからどうしようってのを考えていかなくちゃ。ね?」
武藤師長の言葉に、優子も微笑みながら頷いた。
「ええ。せっかくまた会えたのだもの。逃げていては、勿体ないわ」
萌に視線を注いだままのめぐみは、微かにその目を細める。その眦から、一滴だけ、涙が零れ落ちた――それが、最後だった。
「そう……そうですね。あの子から、探し出してくれたのに。あの子は逃げずにいたのに、私が逃げてばかりでは、ダメですよね」
めぐみは武藤と優子に向き直る。
「あの子は、私に、大事な人がたくさんいる、と言いました。今幸せだって、言ってくれたんです」
そうして、一歩下がり、二人に向けて深く頭を下げた。
「そんなふうに言えるあの子にしてくれて、そんなふうに守ってくださって、ありがとうございました」
「大事なのは、失敗しないことよりも、失敗した後にどうするか、だと思うよ」
武藤師長が、ほら、とめぐみを促す。顔を上げて、見るべきものを、見るように。
「これからは、あの子をちゃんと見ていてやらないと……どんな時もね」
「ええ……ええ、本当に」
めぐみは小さく鼻をすすって、薄っすらと微笑む。そうして目を向けた先では、萌の輝く笑顔が弾けていた。




