10
ハンドルを握る一美の隣からは、ひしひしと緊張感が漂ってくる。
車の距離メーターが数字を増すごとに、助手席にいる萌の緊張も高まっていくようだ。果たして息をしているのだろうかと思いたくなるほどに、ガチガチになっている。
二人は、今、萌の母親である山下めぐみが住む町へと向かっているところだった。
先方にはすでに連絡して、会う約束は取り付けてある。その電話をかけたのは萌なので、どんなやり取りがあったのかは、一美は知らない。
少なくとも、彼女のこの緊張ぶりを見てみると、再会の喜びに溢れて、というわけにはいかなそうだ。
目的の場所まで、まだ半分ほどまでしか来ていない。このままでは萌の神経と身体が持たないのではないかと、一美は不安になる。
そんな時、丁度サービスエリアの案内看板が通り過ぎていき、彼はこれ幸いとウィンカーを出した。
「先生?」
高速道路の本線から外れたことに、萌が怪訝そうな顔を彼に向ける。
「少し休憩しよう」
「でも、時間が……」
「かなり余裕があるから、大丈夫だ」
何しろ運転しているのは一美なので、駐車場に停まってしまえば萌には何もしようがない。
一美はエンジンを切って車を降りると、助手席に回ってドアを開ける。
「ほら、少しは身体を動かせ」
「いいです、わたし、ここで待ってますから」
少し、拗ねているようにも見えるのは、気の所為ではないだろう。いや、拗ねているのではなく、やはり緊張しているのか。どう見ても、余裕の欠片もない。
一美は息を一つつくと腕を伸ばして萌のシートベルトを外し、そのまま彼女の腰に腕を回して引きずり出した。
「何するんですか!」
睨み付けてくる彼女の目を無視してさっさとドアを閉め、ロックしてしまう。
「行くぞ」
「もう……」
そう、萌は口を尖らせたが、いっそ諦めがついたようで、ふっと肩の力を抜くとおとなしく一美について歩き出した。
一美はカウンターでコーヒーを二つ頼み、萌用にミルクを二つもらった。そうして、散々座っていたのだから少しは歩いた方がいいだろうと、また店外へ出る。
隣を歩く萌にチラリと目をやると、むっつりと黙り込んでいる。
一美はやれやれと内心で肩をすくめた。これでは、いざめぐみと顔を合わせても、話をするどころではないだろう。
「実はな、君のお母さんの居所がわかった時、君には言わずに連絡を取ってしまおうかと思った」
「え?」
唐突に語り出した一美を、萌が見上げる。いったい、何を言っているのだろうかと、いぶかしむ色をその目に浮かべて。
「その返事次第で、場合によっては、情報を握り潰してしまおうかと思っていたんだ」
一瞬、萌はポカンとする。と、一転、キッと一美を睨みつけてきた。
「ひどいです!」
「だから、しなかっただろう?」
シレッと答えた彼に、萌は絶句している。
感情が高ぶったことで赤みが差したその丸い頬を横目で見ながら、一美はコーヒーをすすった。
もしもめぐみがろくでもない生活をしていたり、萌に対してひどいことを言いそうであったりしたなら、一美は本気で二人を会わせないつもりだった。そうしてしまって、もしも萌にバレたりしたらかなりの非難を受けるだろうし、もちろん、あまりに過保護であることは充分自覚している。
だが、打ちひしがれる彼女を見たくないという気持ちが、何よりも上回ったのだ。
幸いなことにと言うべきか、残念なことにと言うべきか、萌の方から「会う」と言い出してくれたのだが。
澄ましている一美を、萌がジロリとねめつける。
「そんなことしなくても、わたしは大丈夫です」
約一時間の間、助手席で身じろぎ一つできなった者の言葉とは思えないが。
片眉を持ち上げて一美が無言で萌を見下ろすと、彼女は視線を逸らし、手元のコーヒーに落とした。
「……母は、会いたくないとは言いませんでした」
「良かったじゃないか」
「……会いたい、とも言いませんでした。何だか、苦しそうな声で、『わかった』って……」
ポソリとこぼして、萌は一美を見上げる。
「やっぱり、会いたくないですよね、普通。きっと、直面したくない過去の筈なんです。結婚もしてるし……」
「やめて帰るか?」
一美としては、別にそれでも構わない。
彼の問いに、萌は少しの間唇を引き結んでいたが、やがてまた口を開いた。今度は、はっきりとした声で。
「いいえ、会います。会って、ちゃんと終わりにします。そうして、前に向かって歩くんです。……たとえ、わたしに会うことで母が苦しい思いをしたとしても」
萌の方が、よほど苦しそうな顔をしている。逃げた母親の所為で萌がつらい思いをするのは、どう考えても間違っている。一美は空いている手を伸ばして、彼女の柔らかな髪をゆっくりと撫でた。
「大人が子どもの面倒を見るのは、義務だ。無条件で、守って育てるものだ――たとえそれが赤の他人でもな。ましてや、それが実の子なら、放棄してはいけないものだ。だが、君の母親は、それを投げ出した」
「でも、それを言うなら、母だってまだ守られる側の『子ども』だった筈です」
きっぱりとした口調で、萌が反論する。
その、明らかに母親側に立った彼女の様子に、一美は一瞬呆れる。
何故、自分を捨てた者を庇う気になれるのか、彼にはさっぱり理解ができない。
恨んで、罵ったらいいというのに、『子』というのは、いつもそうだ。そうして、彼らの方が、傷付けられる。
「子どもを作った時点で、『子ども』ではなくなる。『母親』になったんだ。彼女こそが君を守るべきだった。そして、君が彼女を守る必要はまったくない。間違えるな」
うつむきそうになった萌の頤に手を掛けて、それを阻止する。
「いいか? 君は不当な扱いを受けたんだ。母親を庇おうとするな。ただ、その腹の中で君を大きくしたというだけの、会ったこともない相手に過ぎないんだ」
そう告げた時、彼の手にかかっていた抵抗がフッと抜けた。
萌が、彼女の意思で顔を上げたのだ。その目からは心許なげな色は失せ、真っ直ぐに一美に向けられている。
「それが、一番大事なんです」
「え?」
「母は、わたしを産んでくれました。途中でおろしたりとかもできた筈です。それに、確かに逃げられちゃいましたけど、でも、病院に行って産んでくれました。どこかで産んで、捨てちゃったりせずに」
「それは、単に独りで産むのが怖かっただけだろう?」
「そうかもしれません。でも、ちゃんと、今こうやって元気でいられるように、産んでくれたんです。それで、充分なんです」
時々一美は、萌が弱いのか、それとも強いのか、本気で判らなくなる。
彼は大事に包み込んで守ってやりたいと思っているのに、彼女はそれをスパンと跳ね飛ばす。それが悔しい時もあり、心地良い時もある――大半は悔しさが勝つが。
一美はコーヒーをルーフに置くと、両手で彼女の頬を包み込んだ。そして不意打ちで一瞬のキスを落とす。
「!」
ビクリとして身を反らし、バランスを崩してよろけた萌の背に手を回して支えてやった。彼女は、ジトリと睨みつけてくる。
「何で、この流れでそんなことをするんですか」
非難がましいその問いに、一美はニッと笑って答えてやった。
「何となく」
「!」
多分、罵る為の声を上げようとしたのだろう。萌は口を開けかけ、言葉が出ずに固まり、そして口を閉じた。
「さあ、そろそろ行くぞ」
悔しそうな萌を尻目に助手席のドアを開けてやり、手のひらで促す。おとなしく彼女が乗り込むのを待って、丁寧に閉めてやった。
*
母親との待ち合わせ場所に選んだのは、身構えずに済むようにと、国道沿いにあるごくごく普通のファミリーレストランだった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
短く頷いただけの一美に、萌は笑みを向ける――多分、笑えている筈。
萌はそう思っていたのだけれども、彼は何とも言えない眼差しを向けて、彼女の頬に触れてきた。
どうやら、失敗したらしい。
「離れた席に座るから、中にいようか?」
気遣わしげにそう言ってくれた一美に、萌は首を振る。
「いいんです。だいじょうぶ。ここで待っていてください」
さっきよりはマシな顔をしたつもりでもう一度微笑むと、今度は一美も笑顔を返してくれた。
彼を車の中に残して、萌は一人で店に向かう。
入り口で一度立ち止まって大きく深呼吸をして、それからグッと力を入れて扉を押し開けた。
中途半端な時間の所為か、店の中にはまばらに人がいるだけだ。
(どの人だろう)
グルリと見渡しても、独りで座っている人が何人かいて、誰が『彼女』なのか判らない。
「何名様でしょうか?」
入ってすぐに立ち止まった萌に、すかさずウェイトレスが明るい声で訊いてきた。萌は少し深く息を吸って、心持ちお腹に力を入れて答える。
「山下さんという人と待ち合わせているんです」
「ああ。承っております。こちらへどうぞ」
彼女はそう言うと、真っ直ぐに店の奥の窓際の席へと向かっていく。ついていった先では、一人の女性がこちらに背を向けて座っていた。
一瞬、足が止まる。
「お客様?」
怪訝そうに振り返ったウェイトレスのその声で、女性が振り返る。
目が、合った。
そう思った途端、萌も、相手の女性も、ピタリと固まってしまう。
「お客様? お席へどうぞ?」
「あ……はい……」
ウェイトレスに促され、萌は目を伏せながらソファに腰を下ろす。その間も、ずっと女性からの視線を全身に感じていて、顔が上げられない。
「では、ご注文がお決まりでしたらそちらのボタンでお呼びください。ごゆっくり」
客二人の微妙な空気を読んでいるのかいないのか、どこまでも明るく朗らかにウェイトレスは定型の言葉を口にして、去って行く。
「コーヒーで、いいかしら? 何か食べる?」
しばらく沈黙が続いて、おずおずと切り出したのは、相手の方だった。
「あ、いえ、アイスティーで……」
女性がボタンを押して、ウェイトレスを呼び、アイスティーとホットコーヒーを頼む。
また、沈黙。
じきに飲み物が運ばれてきて、それぞれの前に置かれる。
そして、また、沈黙。お互いに、無言でテーブルを見つめ続ける。
(どうしよう、何を言ったらいいんだろう)
そう悩んで、萌は肝心なことを確かめていなかったことに気が付いた。
「あの、わたし、小宮山萌です。……あなたは、わたしのお母さんですか? 山下めぐみさん?」
「あ、はい、そうです」
唐突に尋ねられて、彼女は――めぐみは、目を上げてしどろもどろにそう答えた。
その眼差しの中にあるのは、何だろう。
(怯え? 疎ましさ? ……やっぱり、捨てた子どもに呼び出されるなんて、イヤだったんだ)
萌は喉の奥に何かが詰まったような感じになって、声を出そうにも出せなくなる。
めぐみが萌の目を見たのはほんの一瞬で、またすぐにテーブルに視線を落とす。
話が、続かない。萌が困惑と共に、そう思った時だった。
「……私が、二十二年前にあなたを置き去りにしたんです」
「!」
あまりに直截な言い方に、思わず萌は息を呑む。目を逸らすこともできずに見つめ続ける萌の前で、めぐみが伏せていた顔を上げた。
「電話でも、言ったでしょう? 私があなたを産んで、逃げ出した母親です……ごめんなさい」
そう言って、テーブルに額が付きそうなほど、深く頭を下げる。
この人が、『お母さん』。
名前を確認した時よりも強烈に、そう実感する。
自分と似ているだろうかと、謝罪する彼女を前に、萌は思った。親子である証は、どこにあるのだろうかと。
背は、低そう。こうやって座っていて、同じくらいの目線だ。
声は? 声はどうだろう。自分では、よく判らない。
髪は似ているかも。少しクセのある、猫ッ毛。絡まりやすいから、結構、朝は困ってる。
目は? 鼻は? 口は?
そんなふうに考えていて、返事ができなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、めぐみは泣きそうに歪んだ顔を上げる。
「ごめんね、怒ってるよね。恨んでるよね。当たり前だと思う。許してもらえなくてもいいの。ただ、ずっと、あなたに謝らなくちゃって思ってて」
「え……?」
萌は、眉をひそめてめぐみを見る。
母は、自分のことを想ってくれていたのだろうか。てっきり、記憶の隅に押しやっていたのだとばかり思っていた。
戸惑って答える言葉を見つけられない萌の前で、まるで懺悔のように、めぐみは溜めていたものを次々と吐露していく。
「ごめんね。あなたがお腹の中にいるって知った時、私は十五歳だったわ。高校生だったけど、最初は、ちゃんと自分で育てようと思っていたの。誰にも内緒だったけど、段々大きくなっていくお腹にあなたがいるんだって思うと、とっても嬉しかった。お父さんはずっと年上の人で、一緒に育てるって言ってくれると思ってたの。でも、あなたの……お父さんは行ってしまって……。それでも、まだ、何とかなるって思ってた。高校辞めて、働いてって。陣痛は急に始まって、慌てて救急病院に行ったの。産まれてすぐにあなたは連れて行かれてしまって、触れることはできなかった。赤ちゃんのあなたを、一度だけ見たわ。ガラス越しに。少し早産だったから、保育器に入っていて、小さかった」
そこまで、めぐみは上ずった変に高い声で一息に言い切る。
そして、少し間が空き、打って変わって震える小さな声。
「でも、ちゃんと赤ちゃんで、その途端に、怖くなったの」
「怖い……?」
めぐみがこぼしたその言葉を、萌は繰り返した。
ぽかんとしている彼女に、めぐみは小さく嗤う。
「そう……自分が『育てる』と思っていたものが『人』なんだっていうことを、その時初めて実感したわ。バカでしょう? それまでは、解かっていなかったの。ごめんね。私、あなたを置いて逃げ出したわ。無理だ、できないって。その後、何度も病院に戻ろうと思ったけれど、一度逃げてしまったら、もう、会いに行けなくて。いつでも迎えに行けた筈だったのに、行けなかった」
めぐみの目に、涙はなかった。
きっと、泣いて許されると、思っていないのだろう。けれど、涙を見せられなくても、彼女の想いは伝わってくる。
(もう、いいや)
萌は、ずっと高いところからポトリと落ちてきたように、そう思った。
そうしたら、あれほど言葉が出てこなかったのに、不思議なほどスルリとそれは出てくるようになった。
「あのね」
その第一声に、めぐみがハッと身体を強張らせる。そんな母に、萌は自然な笑みを向けて、続けた。
「あのね、こんなことを言ったらお母さんを傷つけてしまうかもしれないけれど、でも、わたしは幸せなんです。お母さんがいなくても、わたしには、護ってくれる人がたくさんいたの。ちゃんと『おかあさん』もいたんだよ」
静かな萌の声に、めぐみが全身を耳にして聴き入っているのが判る。
「わたし、今、大事な人がたくさんいるの。その人たちと逢えたことが、とても幸せ。わたしは、『この』今で良かったと思うんです。確かにちょっと『普通』とは違うかもしれないけれど、過去があって、今があるんだから、わたしには『この』過去で良かったと思うんです」
萌は、そっと手を伸ばして、テーブルの上に置かれためぐみの手に触れた。
彼女の指先は冷たくて、そして震えている。
萌は、その手を包み込んだ。
「わたし、今日お母さんに会いに来て、良かったです。お母さんがずっとわたしのことを忘れないでいてくれたって聞けて、嬉しかった」
「でも、想っていただけなのよ? 結局、私は……」
「それでもいいです。お母さんの中に、ずっとわたしがいたのなら、それでいいんです。それだけで、わたしは……何ていうか、赦されたって思えました」
「赦される……? 何で……? あなたは、何も……」
「うまく説明できないけど、でも、そう思うんです。あのね、もし……わたしの結婚式に来てくださいって言ったら、来てくれますか?」
「え?」
ポカンと、めぐみは目と口を丸く開いている。その顔に、萌は慌てて首を振る。
「あ、イヤだったら、イヤって言ってください――」
「違う……だって、いいの? 私なんかが行って、いいの?」
萌は、ニコッと笑う。
「わたし、幸せになるんです。今も幸せですけど、もっともっと幸せにしてくれる人と、出会えたんです。すごく、大好きな人なんです」
「そう……そう、なんだ」
不意に、めぐみがホロリと頬を濡らした。
「そっか……うん。ありがとう」
「?」
唐突なめぐみのその感謝の言葉に、萌は何に対してなのか判らず首をかしげる。
「私に会いに来てくれて、ありがとう」
もう一度言葉にして、めぐみは微かに笑顔になった。それは今日、会ってから初めて彼女が見せた、笑みだった。めぐみの手を包んでいた萌の手が、逆に握り返される。
萌は、自分の中で何かがストンと落ちたのを感じる。多分、まだまだつまずくことはあるのだろうけれど、一つの区切りが付いたことは、何となく判った。
今、この時から、また新しい何かが始まるのだ、と。
*
店から一人で出てくる萌の顔を見て、一美はホッと息をつく。彼女の表情は晴れやかで、中で行なわれていたことが彼女にとってつらいものではなかったことが見て取れる。
「ただいま」
車のドアを開け、萌がそう言いながら助手席に座った。そして、両腕を伸ばして彼にしがみ付いてくる。
色気の欠片もないその所作は、幼い子どもか温もりを求める仔猫のようだ。
抱き締め返すと、細い溜息が彼の肩口を温めた。
萌の身体を受け止めながら、一美は彼女が今口にしたその言葉の意味を考える。
『ただいま』
その言葉を一美の前で使ったのは、初めてだった。
多分、無意識なのだろう。
自分が何を言ったのかも、きっと、気付いていない。
けれど、一美にはそれが彼女の中で起きた変化を表しているのだと思える。
「帰ろうか」
抱き締めたままそう囁くと、萌は小さく頷いた――その腕は、なかなか解いてくれなかったけれども。




