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朗が渡りを付けてきたのは、某有名女子大学四年生の二人だった。
萌と大して年は違わない筈だが、煌びやかな服装に流行りの化粧で彩られた顔は華やかで、彼女より五歳も十歳も年長に見える。
その違いは元々の顔の造りの所為なのだろうか、それとも飾り方の所為なのだろうかと頬杖を突きながらぼんやりと考えている一美の隣で、朗はいつものようにそつなく会話を弾ませ、場を盛り上げていた。
「君たち、いくつ? 二十二?」
「そうです、就活真っ最中の四年生ですよ」
「へえ、大変なんじゃない?」
「ああ……でも、私たちはもう決まってるから」
二人は顔を見合わせて笑みを交わす。
おそらく、親族のコネか何かなのだろう。
彼女たちの大学は、それなりに裕福な者でなければ通えない。元々あくせく働く必要はなく、楽しく大学生活を謳歌し、数年『仕事』をしたら結婚、そして家庭に入る。多分、彼女たち自身、そんなコースで満足しているのだろう。
楽しそうな人生で結構なことだと、一美は皮肉混じりにひっそりと笑う。
流石に朗が連れてきただけのことはあって、相手はどちらも掛け値なしの、美人だった。指先はささくれ一つなく美しく整えられ、ナイフとフォークを操る手さばきも優雅なものだ。スタイルも見事なメリハリがある。知識も豊富で上品だ。
だが、そんな彼女たちを前にして、一美は軽い会話におざなりに頷きを繰り返すばかりだった。
朗が用意したのはフランス料理のレストランで、そろそろコースも終盤に入る。
一美も――そしておそらく相手も――最終的な目的は『ソレ』だから、だいたい、会って十五分もすればホテルへ行くまでの段取りが頭の中で組み立てられる。食事に二時間、最寄りのホテルに移って取り敢えずバーで一時間、そして部屋へ。
トータルでどのくらいの時間を費やすか、というところまで計算する。
いつもは、そうだったのだ。
だが、今日の一美は、どうも気が乗らない。
彼女たちの外見が気に入らないわけではない。
長い付き合いで朗は一美の好みも熟知しているから、決して『ハズレ』ではない。
むしろ、彼の『好み』のストライクゾーンど真ん中とも言える。
なのに、いったい、いつもと何が違うというのか、一美も心の中で首を捻る。
すでに食事は終え、朗たちとは別れていた。バーでカクテルも二杯目を空け終わっている。そろそろ、次へと移る頃合いではあるのだが。
――気が乗らない。
そう思いつつも、一美は腕に女子大生を絡み付かせたまま店を出て、エレベーターに乗り、部屋へと向かう。
役に立たない、ということはないだろうが、彼の方も愉しんで、というわけにはいかなそうだ。
「うわぁ、キレイ!」
部屋に入ると、彼女は歓声を上げて窓際に走り寄った。
ひとしきり夜景に見とれた後、一美の元に戻ってくる。
「この部屋、結構高いんじゃない?」
そう言って見上げてきた瞳は、うっとりと潤んでいる。
それは一美自身に陶酔しているのか、あるいは、プラスαの何かに溺れているのか。
いずれにしても大差のないことで、彼はさっさと事を進めることにする。
「それほどでも」
軽く受け流すと首を傾け、唇を寄せた。触れ合った瞬間、一美はグロスのべたついた感触に眉根を寄せる。
――キスは何度もしてきたが、こんなに不快なものだったろうか。
危うく萎えそうになる気持ちを奮い立たせて次第に深めた口づけに、彼女の身体からは力が抜けていく。唇を放せば彼女はクタリと一美にもたれかかってくるが、彼自身の中には何も湧き上がってはこなかった。
(いよいよヤバいかな)
一美がそう思った時だった。
絶好のタイミングで、胸ポケットに入れていた携帯電話が振動を始める。
「ちょっと失礼」
携帯電話を取り出し、液晶を確認する。
そこに映し出されているのは『霞谷病院病棟』の文字だ。時刻は二十二時三十七分。
看護師からの電話であれば大した内容ではないことが殆どだが、当直の医師からであるとすればそれなりに深刻な事態だ。
何となくイヤな感じが、一美の中に滲み出してきている。
「はい、岩崎」
「あ、先生、夜分お休み中のところをすみません」
予感は的中し、電話の向こうでいつもよりも固い声を出しているのは、今夜の当直をしている肇だった。
「どうした?」
「はい、生後四か月男児のSIDS《乳幼児突然死症候群》――いえ、ALTE《乳幼児突然性危急事態》です。夜の授乳後一時間ほどしてから、児が呼吸をしていないことにお母さんが気付きました。救急隊到着時点では心肺停止状態でしたが、病着後の蘇生で心拍は戻ってます。ただ、自発呼吸はなくて、取り敢えず挿管して人工呼吸器装着しましたが……」
てきぱきと簡潔に状況を説明していた肇だったが、最後は曖昧になった。
状態は、芳しくないということか。
「わかった、すぐ行く」
短く答えて電話を切ると、一美は椅子の上に放り投げたジャケットを取った。
目を丸くしてベッドに腰掛けている女子大生に向き直り、彼は形だけでも頭を下げる。
「悪いな、急患だ」
「え、そんな!」
彼女は立ち上がると、一美の腕にすがりついてきた。
「ねえ、一時間くらい遅れてもいいんじゃないの? 他にお医者さん、いるんでしょう?」
「そういうわけにもいかないさ」
一美は肩をすくめて腕を外そうとするが、彼女はより一層力を込めて絡めてくる。そのボリュームのある身体を強調するように。
「ね?」
彼女はねだるような上目づかいで、微かに唇を開く。大抵の男の理性が揺らぐ眼差しだった。
だが。
「放せ」
強い口調ではない。
しかし、部屋の温度を二、三度は下げそうな声で、一美は命じる。途端、彼女はまるで平手打ちを食らったかのようにビクリとして、パッと手を放した。
一歩下がった女子大生に、一美は冷ややかな一瞥を投げる。もう、彼女のことを美人だとは思えなかった。
「部屋は一晩とってあるから、好きに使っていい」
それだけ言い置いて、あとは振り返りもせずに部屋を後にする。
エレベーターに乗った一美は、腕時計に目を走らせた。
いつ呼び出しがあってもいいようにと、朗は必ずすぐに病院に行けるような場所をセッティングする。
ここから地下鉄の駅まで、五分。
そこから病院前の駅までの所要時間は同じく五分。多少の待ち時間はあっても、二十分もあれば着けるだろう。
夜の繁華街は混むから、タクシーよりも地下鉄の方がよほど早く移動できる。
一美は人混みを縫うように、小走りで足を進める。彼が駅のホームに着いた時、ちょうど電車が滑りこんできて、これ幸いとばかりに乗り込んだ。
*
結局、一美が病棟に到着したのは、ほぼ予想通りの時間だった。
PICU《小児集中治療室》に一つだけ置かれたベッドの周りには、肇の他に小児科病棟七年目のベテランナース川西と、もう一人、萌が控えていた。あと一人いる筈だが、整形外科患者を中心に見ているのだろう。霞谷病院は二交代制だから、明日の朝までこの三人が勤務することになる。
「どうだ、状態は」
姿を現した一美に、硬い表情でベッドを見下ろしていた肇がホッとした顔を見せた。
「あ、先生! すみません、お呼び立てしてしまって。バイタル《生命徴候》は落ち着いています。ただ……瞳孔は散大していますし、対光反射もありません。鎮静かけてなくても自発呼吸はゼロです」
「蘇生開始までにかかった時間はどのくらいなんだ?」
「わかりません。長ければ、一時間弱。だいたい一時間くらい前に、授乳させたらしいです。その後、お母さんはちょっとうたたねして、帰ってきた父が異状に気付いたそうです。すぐに救急車を呼び、待っている間も両親で胸骨圧迫とかしていたそうですが」
脳に酸素がいかないという状態が続いたのが、たとえ十分であっても見通しは暗い。ましてや一時間ともなれば、絶望的だ。
小児用のサークルベッドが大きく見えるほど、その真ん中に寝かされた赤ん坊の身体は小さかった。口から入れられた気管挿管のチューブがなければ、まるでただ熟睡しているだけのように見える。
だが、一美が持ち上げた手を放すと、それはそのままだらりとベッドに落ちた。
室内は赤ん坊に着けられた呼吸器と心電図モニターの音だけが規則正しく響いている。その規則正しさもまた、その子どもの命の危うさを表していた。
一美は慎重な手つきで赤ん坊の目蓋を上げ、光を当てる――反応がない。
「――駄目だな」
恐らく、回復は見込めないだろう。
肇と川西は一美の言葉を予期していたのか、それを耳にしても微かに目を伏せただけだ。だが、萌は、ヒュッと息を呑んで目を見開く。
彼女がこの病棟に来て、あるいは看護師になって四ヶ月が過ぎたが、その間、重症らしい重症は入ってこなかった。
しかし、この霞谷病院レベルになると、年間数件は亡くなる子どもも出てくる。彼女がこういう状況に直面するのは、遅かれ早かれ、いずれは経験するものだった。
新米の看護師が初めて死の瀬戸際にある子どもに遭遇した時、誰もが今の萌と同じような顔をする。一美はそれを何度も見てきたし、それは必要で仕方のないことだと受け流してきた。
だが、今の彼女の目を見ていると胸が錐で突かれるような心持ちになるのは、何故なのだろうか。
色を失った萌を視界から外し、一美は川西に声をかけた。
「話をするからご家族に入ってもらえ」
川西は無言で頷くと、家族が控えているデイルームに向かう。
「小宮山さん? 何なら、外に出ていてもいいぞ」
一美は低い声でそう言ったが、萌は無言で小さく首を振る。そして、そっと指先で赤ん坊の頬に触れた。直後、忙しなく瞬きをする。
彼女のまつ毛の先で光を弾いたものに、一美は「痛い」と思った。
それは、殆ど物理的な痛みに等しく、今まで感じたことのないものだ。
重ねて退室を促そうと口を開きかけたところでPICUの扉が開き、そこから川西に続いて両親と思しき男女が入ってきた。
一美は思考を切り替えて彼らに向き直る。
「樫本康太君のお父さんとお母さんですね?」
そう尋ねながら、一美は二人に椅子を勧める。カルテによれば、父は太一、母は康子という名前だった。康子は目を真っ赤に腫らしており、太一は彼女の肩をきつく抱き締めている。
「康太は……康太は、どうなんですか?」
上ずった声で、ベッドの方を凝視しながら太一が問うてくる。
こういった状態になった子の親には、絶望させず、だが過剰な期待も抱かせないような説明をしてやらねばならない。
何度経験しても慣れることなどないが、それでも努めて落ち着いた声を出し、一美は答えた。
「まず、初めに、康太君は心臓も呼吸も止まった状態で発見されました。救急隊の処置やこちらに来てから使った薬で、心臓はまた動き出しています。ただし、呼吸は回復していないので、ああやって口から管を入れて人工呼吸器で呼吸を補助しています」
一美はそこで一度口を噤む。一拍置いて、「ヒィ」と康子のむせび泣きが響いた。太一は何度も彼女の肩をさすりながら、目を一美に向ける。
「それで、助かるんですか……助かるんですよね?」
必死なその眼差しに「はい」と答えてやりたくても、一美は気休めにしかならない嘘を口にするわけにはいかないのだ。
グッと唇を引き締めて、続ける。
「非常に厳しい状態です。康太君のように、命を落としそうになったけれども何とか取り留めたことを、我々の専門用語ではALTE、乳幼児突然性危急事態と呼びます。何故そうなるのか、それは原因不明です。ただ、突然、そうなるのです。これはご両親の行動や他の何かが悪かったとか、決してそういうことではありません――決して」
一美は、腫れた康子の目を真っ直ぐに見据えながら、きっぱりと断言する。
今の彼女の眼差しの中にあるものはショックと悲しみだけだが、いずれ日が経てばその大部分は罪悪感と後悔に変わってくる。そして自分の行動を一つ一つ思い返し、「あれが悪かったのではないか」「これが悪かったのではないか」と始めるのだ。
それを完全に防ぐことはできないが、軽減できるかどうかは、彼の言葉一つにかかってくる。
正確に言えば、康太の状態は息を吹き返すことができたALTEではなく、助かる見込みのないSIDS――乳幼児突然死症候群だ。
だが、あなた達の子どもはもう死んでいる、と伝えて、メリットは一つもない。真実とごまかしとを織り交ぜて話す方がいい。
「いいですか? 我々も、でき得る限りのことはします。ですが、最終的には、康太君の生命力次第です。今、康太君は一生懸命頑張っていますから、一緒に見守っていきましょう。さあ、康太君の傍に行ってあげてください」
二人をそう促し、ベッドサイドへ導いた。後は川西に任せて一美と肇、そして萌はナースステーションに戻る。
「康太君……助かりますよね?」
両親に声が届かないところまでくると、囁くように萌が尋ねてくる。ジッと見上げてくるその目が望んでいる返事を、一美は知っている。だが、彼は首を振った。
「無理だ。早ければ三日で片が着くだろう。万が一命はつなげたとしても、自分で呼吸ができるようにはならない」
きっぱりと断言した一美に、萌は大きな目をさらに見開く。
「わたしは……わたしは、何をしたらいいんですか? 何ができますか?」
「何も。ただ、両親がこれを受け入れられるようになるだけの時間を稼ぐだけだ。いくら待っても、完全に受容できるようにはならないが、ゼロよりはいい」
その台詞を聞いた萌は、唇を噛み締めた。
――そんなに強く噛んだら、切れてしまう。
思わず手を伸ばしそうになるのを、一美は堪えた。
何故、彼女が夜勤の時に、こんなことになるのか。
どうにもできないことに、彼は苛立ちを覚える。
萌には、まだ早いのだ。
ふと、先ほどまで会っていた、萌とそう年の変わらない女子大生達を思い出した。
あんなにも能天気に遊んでいられる彼女たちと萌とは、何がそんなに違うというのだろう。
生まれて間もない赤ん坊の死の場面に立ち会うなど、何も二十歳の小娘が味わわなくてもいいではないか。
看護師は患者を護り、癒す存在だ。しかし、その細い肩を見下ろしていると、萌こそを誰かが護ってやるべきではないのかと、一美は思った。
だが、そんな彼の物思いをよそに、萌が顔を上げる。唇は赤くなっていたが、そこに血はにじんでいなかった。
「わたし、わたしにできることをさがします。少しでも、何か……」
萌はそう言って、潤みを消した目を一美に向ける。
彼女のその真っ直ぐすぎる眼差しに、一美は不安を覚えてしまう。
のめり込めば、それだけ最期を迎えた時のダメージも大きくなるだろう。先のない患者と接するなら、もっとドライになれる者の方がいい。
そんなことを考えながら、一美は萌を見つめる。その視線をどう受け止めたのか、彼女は軽く頭を下げると、再びPICUに戻っていった。
一美は、取り敢えず今晩だけのことだから、とその背中を見送る。
「彼女……ちょっと心配ですね」
そう呟いたのは肇だ。一美の心中を代弁した台詞に、彼も頷く。
そう、誰が見ても、萌のひたむきさには不安を覚える筈だった。
*
夜が明けて。
朝のカンファレンスもそっちのけで、一美と武藤師長は互いに一歩も引かない顔つきで向き合っていた。
「何で彼女なんだ。もっとベテランを当てたらいいだろう!」
「患者さんの担当看護師を誰にするかは、師長であるあたしが決めることだよ。先生に口出しされる覚えはありません」
「彼女にはまだ早い!」
論争の元は、樫本康太の担当看護師を誰にするか、である。
患者の看護をする際に、看護師たちは『担当』と『受け持ち』を決める。
『受け持ち』はその日その日の持ち回りでケアをするだけだが、一方『担当』はより濃い関係を築くようになる。
医者のように毎日相手をするわけではないが、それでも、『担当』看護師になれば『受け持ち』は優先的に当てられるようになるし、『担当』が中心になってどんなケアをしていくかというプランをたてていくことになる。
たいていは入院した時に勤務していた看護師が『担当』になるのだが、今回のあの赤ん坊の件では、てっきりそれは川西になるのだろうと一美は思っていたのだ。
だが、朝になって出勤してきた武藤師長は、殆ど考えることなく萌を手招きすると、言った。
「あんたが担当やんなさい」
彼女の指示に、萌は無言でしっかりと顎を引き、頷いた。一美は、そこに異議を申し立てたのである。
「そりゃ、無理だろう」
即座にそう、声を上げた。
本来であれば担当看護師を誰にするかなど、武藤師長が言ったように医者が口を挟む問題ではない。だが、一美は、こればかりは黙っていられなかった。
武藤師長は突然割り込んできた一美に向き直ると、腕を組んで見上げてくる。彼女も長身な方だが、頭半分ほど一美には及ばない。だが、その身長差をものともせず、師長は彼の視線を受け止めた。
「何か、ご意見でも?」
「小宮山さんはまだ経験が浅いだろう? 彼女にあの子は荷が重い」
一方的な一美の言葉に声を上げようとした萌を、武藤師長が片腕を伸ばして制する。
そして、彼女に代わって一美に問いかけた。
「では、先生。どれほど経験を積んだら、当ててもいいと?」
「少なくとも、今よりは」
曖昧な彼の返事に、武藤師長は大きなため息をつく。
「……あのね、先生。この子は『可愛い可愛いお嬢ちゃん』じゃないんですよ? この子はね、『看護師』なわけ。解かる?」
「そんなの解かってるさ」
当たり前すぎる彼女の台詞に、一美はバカにしているのかとムッとする。ここで働いている以上、萌が看護師であることは疑う余地もない。
彼女の言わんとしていることを理解できない一美に、武藤師長は鋭い眼差しを向けた。
「まだ早い、まだ早いって、彼氏との付き合いを認めない父親かっての。この子は、どんどん経験を積んでいかなきゃならないの。機会があったら、跳び付く。それに早いも遅いもないんだよ。小宮山は自分自身であの家族と向き合うことを選んだんだ。余計な甘やかしはやめてくださいな」
武藤師長の言葉を萌が全面支持していることは、彼女の目を見れば明らかだ。
二の句を継げない一美の肩が、叩かれる。それにのんびりとした声が続いた。
「はい、君の負け。師長さんの決定に口を挟んじゃ駄目だよ」
「南先生」
振り返った先にいたのは病棟医長でもある南利一で、一美は更に抗する言葉を失った。
「……解かりました」
一美は短くそれだけ答えて、踵を返す。さっさとナースステーションを出て、むっつりと廊下を歩いた。
自分は苛立っている。
けれども、いったい何に対して腹を立てているのかが、判らない。
萌をあの患者の担当看護師にした武藤師長に対してなのか。
一美を制止した南医師に対してなのか。
――それとも、せっかく助けてやろうと自分が差し出した手を振り払った萌に対してなのか。
そう思って、ふと、あることに気が付いた。
果たして、今まで自分は誰かに手を貸そうと思ったことがあっただろうか。
患者には手を掛ける。それは当然のことだ。
だが、私的な付き合いの中で、利を考えずに誰かに何かをしてやろうという気になったことは、無い気がする。それに、他人に拒否されたからといって、そのことに対して何かを感じるということも無かった筈だ。
自分は、もっと『ドライ』だった。
思わず、足が止まった。それと同時に思考も停止する。
別に、今まで誰かを助けようとしたことがなかったことにショックを受けたわけではない。むしろ、その気になっていた己に、気付かぬうちに変わっていた己に愕然としたのだ。
その変化がいつからなのかなど、考えなくてもすぐに思い当たった。
この初夏――彼女がこの病棟に来てからだ。
たった一人の新人によって自分が変えられつつあることが、一美には理解できなかった。
そして、変えられたくはないとも思った。
「岩崎先生!」
廊下に立ち尽くしていた一美に、背後から声がかかる。振り返らなくとも、声の主が誰なのかは容易に知れた。
クルリと一美の前に回った萌が、いつものように彼を見上げてくる。
「あの……」
言いかけて、続ける言葉が見つからなかったのか、口ごもる。
迷いを映して軽く睫毛が伏せられ、そして、彼女は意を決するようにキュッと唇を引き結んだ。
小さく息を飲み込んだのか、微かに喉が動く。
ややして再び萌は目を上げ、一美の視線を捉えた。
「あの、ありがとうございました」
「何が?」
「えっと……わたしを、護ろうとしてくださったんですよね? つらい思いをしないようにって」
「……」
「先生のお気持ちは、すごく嬉しかったんです。でも、わたしはやりたいと思いました。経験とかじゃなくて、わたしができることを探したいって、わたしができることをしたいって、思ったんです」
「俺には関係ない」
ぶっきらぼうにそう言い切った一美に、萌は微かに顎を引いた。
「……そうですね……でも、ありがとうございました。本当に、嬉しかったんです、わたし。それだけは、ちゃんとお伝えしたくって。じゃあ……」
ピョコンと頭を下げて、萌は身を翻すとナースステーションに戻っていく。
彼女の姿が視界から消えてから、一美は、何か声をかけてやれば良かったと、微かな後悔の念を覚える。そうして、また、そんなものが我が身の内に生じたことに、小さく舌打ちをしたのだった。