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一美の元に萌からの電話があったのは、夜の九時を回った辺りだった。
多分、仕事が終わってロッカールームに戻ったところで、すぐにかけてきたのだろう。プライベートで言葉を交わしたのは、実に一週間ぶりだった。
「今から伺ってもいいですか?」
少し硬い口調で、萌はそう言った。彼女の中で、何かが定まったのだろう――そう思わせる口調で。
一美が彼の望む言葉を聞くことができるのか、それとも真逆のものを耳にする羽目になるのか。
いずれにしても、きちんと彼女の考えを聞こうと、思った。それを受け入れるかどうかは、また別として。
「待っている」とだけ答えて、一美は電話を切る。病院から彼のマンションまでは、三十分もかからない。
一美は立ち上がるとキッチンに向かった。コーヒーの豆を挽き、コーヒーメーカーにセットする。
やがて、サーバーに充分な量のコーヒーが満ちた頃、玄関のチャイムが鳴った。時計に目を走らせると、電話があってからまだ十五分ほどだ。予想よりも、随分早い。
一美は一度大きく息をつき、彼女を迎えに出る。
「いらっしゃい」
「……こんばんは」
ドアを開けてやると、その場で萌はペコリと頭を下げた。髪が乱れて頬が少し上気しているところを見ると、多分走って来たのだろう。
「どうぞ」
一美は言いながら少し身を引いて彼女を迎え入れ、鍵をかけたら先に立ってリビングに戻る。
三歩ほど歩いた時だった。
ガシリ、と何かが、彼の背中にしがみ付いた。抱き付く、などという色気のある風情ではない。子どもが走ってきて力任せにドスンとやる、まさにしがみ付く、というやつだ。
「萌?」
肩越しに振り返っても、背中に押し付けられた萌の顔は見えない。さてどうしたものかと思案していると、くぐもった彼女の声が背中をくすぐった。
「ごめんなさい」
それは、いったい何に対しての謝罪なのか。
一美は腹に回されたその手を引き剥がすと、クルリと彼女に向き直った。彼を見上げてくるその眼差しに、涙は無い。むしろ、強い光を秘めて、少しも逸らすことなく真っ直ぐに彼の目を見つめてくる。
「ごめんなさい」
萌は、またその言葉を口にした。そして、続ける。
「わたし、先生のことが好きです。どんなふうに好きなのかとかは、やっぱり判らないままなんですけど、好きです。もしかしたら『お父さんみたい』とか……『おかあさんみたい』とかで、『恋愛』ではないのかもしれないですけど、先生とずっと一緒にいたいです。いさせてください」
何を今更な。
一美は半ば呆れて、内心でそうぼやいた。
そんなのは、当たり前だ。
「どうせ抱き付くなら、こっちにしてくれよ」
そう言いながら、掴んだままだった萌の手を、自分の背中に回させる。そして、彼自身の腕は彼女の背中に伸ばして、ゆるりと抱き締めた。
その小さな身体の形を確かめるように、やんわりと包み込む。以前よりも、また少し柔らか味を欠いていて、一美は内心で舌打ちをした。
せざるを得なかったとは言え、食が進まなくなるほどに彼女を追い詰めたのは、彼だ。また餌付けをしなければ、と頭の中のメモ帳に最優先項目として記載する。
「で、何に対しての『ごめんなさい』なんだ?」
そう問うと、萌は首をほとんど直角に曲げて、一美と視線を合わせた。そして、生真面目な口調で答える。
「勝手にグダグダ考えて、ドンドン自分でも何が何だか解からなくなっていって、先生とちゃんと向き合わず、逃げようとしました。でも、一番は、先生を悲しませてしまったことです」
「じゃあ、何故俺が悲しいと思ったのかも解かったのか?」
「わたしが、先生の気持ちを解かっていなかったから……?」
「なら、俺の気持ちが解かったのか?」
「……同情じゃ、ないんですよね? わたしのことを好きだと思ってくださってると思っても、いいんですよね?」
自明なことを、何故、そんなに自信がなさそうに問うてくるのか。
――まったく、あれだけはっきり意思表明していても、まだそのレベルなのか。
一美は、思わず深々とため息をついてしまった。それに身を強張らせた萌の背中を、宥めるように叩いてやる。そうして、決して目を逸らせることができないように、彼女の頬を両手のひらで包み込んでその大きな瞳を覗き込んだ。
「俺は、何度も声に出して言ったよな? もっと言葉を尽くして『説明』してやろうか?」
少々意地の悪い笑みを浮かべた一美を、萌はパチクリと大きく瞬きをして見つめる。
「俺は君の笑った顔が好きだ。多分、最初にやられたのは、それだ。鈍いところはイラッとする時もあるが、逆に嗜虐心をそそられる。それに、君の弱いところも見過ごせない。支えたいと思って、つい手も口も出てしまう。人の好意を素直に信じられなくて、近付いたら逃げようとするところを見ると、捕まえて、力づくでもどれだけ想っているのかを教え込んでやりたくなる。だが、一番惹かれるのは、弱いくせに強くあろうとするところだ。弱いけれどもその弱さに負けまいとするところが、堪らなく愛おしい。君が頑張らなくてもいいように、甘やかしてやりたくなる」
「先生……」
手の中の萌の頬は、真っ赤に火照っている。ジッと見つめると、困ったように視線を揺らした。
「最初は、屈託のない、天真爛漫な子だと思っていた。ただ、無邪気で可愛いだけの子かと。だが、君の色々な側面を見て、君のことを一つ知るたびに、どんどん目が放せなくなっていった。君が笑ってくれると、俺の中が満たされる。俺の知らないところで泣いているかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。だから、傍に居て欲しいと思った――俺の目の届くところに。目覚めた時に腕の中に君の温もりがあると、この上なく幸せだ。君の『不幸な生い立ち』なんかじゃ、気持ちは動かない。不幸な子どもなんて、今までに何人も見てきた。同情で、プロポーズなんかしやしない」
どうだ? と目で問いかける。彼女のその目尻に雫が溜まっているのは、感動のあまり、というよりは、居た堪れなさ故か。顔中で、もう放してくれと訴えている。
「よく……解かりました……自惚れてみることにします……」
消え入りそうな声で、彼女はそう囁いた。
一美はニヤリと笑い、頬から背中へと、手を滑らせる。彼の腕の中で、萌は震えるような溜息をついた。
*
場所を移し、食卓に座った萌は、考え込むようにテーブルに視線を落としたままコーヒーをすすっていた。その向かいに座って、一美は彼女が口を開くのを待つ。
辺りに漂うのは、コーヒーの香りと時計の秒針が刻む音だけだ。
やがて、萌が視線を上げる。
「わたし、母を捜そうと思うんです」
「母って、君を産んだ……ということか?」
「はい」
萌は小さく、だがしっかりと頷く。
「何でわたしを産んだのか、そうして置き去りにしたのか、それを知りたいんです」
「ろくでもない理由かもしれないぞ?」
「それでも、聞きたいです」
萌の眼差しは、少しもぶれていない。彼女は微かに首をかしげて、続ける。
「わたしは、今まで、見たくないものは見えない振りをしてきました。独りでできるって言いながら、助けてくれようとしている人たちの手を知らないうちに拒んでしまってました。誰かと深く付き合おうともせず、去って行く人も惜しもうとしませんでした。強く欲しがるよりも、諦めた方が楽だから、最初から欲しがるのをやめてました。色々なことから、ずっと、逃げてきてたんです……今までは、それでうまくいってたんですよ」
そう言って、萌は笑った。その笑みは決して晴れやかなものではなかったが。
「見たくないからって言って見ないでいたら、わたしは変われません。でも、変わりたいんです。わたしの根っこにあるのは、やっぱり母のことだと思うから、ちゃんと向き合わないといけないと思うんです」
萌のその推察に、一美は握った拳に力を込めた。萌の不安定さの根源は、母親のことだけではないだろう。恐らく、彼女も覚えていない頃の、日々。それがより濃い影を落としている筈だ。四歳で『クスノキの家』に入った時には、すでに『良い子』だったという。その時点で、すでに今の彼女の原型は作り上げられていた。その空白の四年間の方が、萌の『根っこ』を作るのに多大な影響を及ぼした筈だった。
――里親のことを、萌に言うべきだろうか。両者を会わせて、何か得るものがあるだろうか。
一美には、そうは思えなかった。それが萌の志に背くことだとしても、教えたくないと思ってしまった。彼女の口から里親のことが出たことはない。もしかしたら、深層意識にはしっかりと食い込んだままでも、表面的な記憶には残っていないのかもしれない。だったら、このまましまい込んで蓋をして、彼がしっかり鍵をかけてしまえばいいと、思った。
大事なのは、「何故そうなったのか」ではない。「これからどうするのか」だ。
萌が前を向いて歩き出そうとしているのなら、それでいいではないか。
自分の心の中に潜るようにして話す萌は、一美の表情には気付かないまま、言葉を紡ぐ。
「もしかしたら、『いらなかったから』って言われるかもしれません。『何で来たの?』って、拒否されるかもしれません。それでもいいんです。過去に縛られる為に会うわけじゃないですから。少しでも自分のことを知る為に、会うんです」
そう言い終えて、萌は微笑んだ。
一美は立ち上がり、彼女の傍に行く。身を屈めて、小さな子どもにするように、肩口に抱き上げた。華奢な身体は微かに震えていて、彼はその震えを押さえ込むように、ギュッと力を込める。
「誰が君のことを要らないと言っても、俺がいる。さっきも言っただろう? 俺は君にいて欲しい。それだけは、忘れるな」
「……はい」
萌は一美の首筋に顔を埋め、小さく頷いた。
*
しばらく萌を抱き締めた後、一美はソファに下ろした彼女の隣に座って、一つの名前を口にした。
「……誰ですか?」
唐突に告げられた知らない名前に、萌は怪訝な眼差しを一美へ向ける。
「君のお母さんの名前だ。今の住所と電話番号もわかる」
彼の答えに、萌は大きな目を一層大きく、丸くする。
「何で……」
「知っているか、と? 『クスノキの家』に君を迎えに行った時、関根さんが教えてくれた」
「おかあさんが? ……わたしには、知らないって、言っていたのに」
大事な育ての母に嘘をつかれていたということが、彼女にとってショックだったようだ。膝の上にパタリと両手を落とし、ぽつりとこぼした。
「本当の名前かどうか、判らなかったからだろう。その後の消息も知れなかったし、いっそ知らないままの方がいいと思ったのではないかな」
「そう、なのかなぁ」
優子を擁護する一美の台詞に、萌は複雑な顔をしながらも納得したようだ。
「でも、先生は何で母の住所とまで知ってるんですか?」
「調べさせた。伝手があってな。旧姓は、『佐々木めぐみ』だ。今の名前が『山下めぐみ』」
「結婚、してるんだ……」
ポツリと、萌が呟く。短い一言からは、何を思っているのかを察することはできない。その心中を慮りながら、一美は続ける。
「君は、彼女が十五歳の時の子だ」
「十五」
それだけ言って、萌は絶句した。そして短くはない時間を経た後、また繰り返す。
「十五……子ども、だったんですね」
『若い』ではなく『子ども』と評した萌の声は、どこか理解の色を含んでいるように聞こえる。理解と、そして諦めの色を。
「君の気持ちが決まったら、会いに行こう――俺が連れて行く」
「先生が?」
「ああ。話は、二人きりでしたらいい。だが、俺もその時に近くにいたい」
「でも、わたし独りで……――はい、ありがとうございます」
また、いつものように「独りで大丈夫」と言おうとしたに違いない。口ごもりつつ、少しためらった後、萌は頷いた。
そして、クッと顔を上げて一美を見る。
「プロポーズのお返事、もう少しだけ、待ってください。ちゃんと、しますから」
その返事がどんなものか、一美にはもう判っている。だが、それは萌のけじめなのだろう。
彼女の口からはっきりと告げられるのを、彼は待とうと思った。
黙ったまま腕を伸ばし、萌の肩を引き寄せる。彼女はいつものようにほんの一瞬緊張を走らせ、そして力を抜いて一美の胸にもたれかかった。
彼は細い腰に腕を回して抱き寄せ、丸い頭に手を当て肩にのせる。
華奢で温かな身体から伝わってくるものは、全幅の信頼だ。
萌は、その重み以上の、その何倍もの重みを持つ彼女の心を、一美に委ねてくれている。
――今の彼には、それが判った。
こみ上げる、愛おしさ。
彼女を幸せにしたいと、一美は思った。
そうできるなら、他の何も惜しくない、と。
彼はかすかに頭を傾けて、彼女のこめかみの少し上に唇を押し当てた。柔らかなくせ毛から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
ただそうしているだけで、一美は、萌との間に深いつながりを感じられる。それは、今まで出会ったどんな女にも感じたことのない、深い、深いものだった。
そんなふうに思えるのは、萌に対してだけなのだ。
彼にとって唯一の、そして至上の、宝物。
一美は、腕と手に力をこめる。
そうやって、随分と長い間、かけがえのないその温もりを腕の中に閉じ込めていた。




