8
一美のマンションのダイニングテーブルでは、彼と母親の一香が向かい合わせで座り、道子の給仕で夕食を摂っていた。
――黙々と、無言で。
誘いは、彼女の方からだった。
一香から一美に何らかの声がかかるというのは、記憶に残る限り初めてではないだろうかと思う。
無駄なことを徹底的に排除する彼女のことだから、食事をすることが目的ではないはずだ。何か、話があるのだろう。
ネタはと言えば、萌のことくらいしか思い浮かばない。
(結婚相手として、彼女が気に食わない、ということではないよな)
この母親が、一美のことに対して、それほどの関心を抱くとは思えない。取り敢えず結婚して跡継ぎを作ってくれさえすればいい、と考える程度だろう。
だが、実際のところ、一香がこの家に上がってからおよそ一時間が経ったというのに、ろくに言葉を交わしていなかった。
多忙な彼女がわざわざ時間を作ってやってきたのだから、何某かの用件はある筈に違いないのだが。
もう、食事も終わりだ。
食後のコーヒーを口に運びながら、結局この人は何をしにきたのだろうかと首をかしげた一美の前で、不意に一香が言葉を発した。来た時の「こんばんは、元気?」、食べる前の「いただきます」、食事中の「おいしいわ」に引き続き、四番目の発言である。
「で、どうなの? 萌さんとは。式はいつ?」
そうきたか。
実は停滞中だとも言えず、彼は肩をすくめた。
「まだ、決まっていません」
「そう。手術の予定も変えなきゃいけないから、決まり次第教えてよ?」
「はい」
それきり、また、静寂。
(その話だけ、なのか?)
だったら、電話で済むだろうに。
そう思って眉間にしわを寄せて母を見やると、同じような顔を一美に向けていた。
「何です?」
「……あなた――」
一香は、口ごもっている。
母らしくないその素振りに、一美は一層眉をひそめた。
彼女は、どこかばつが悪そうに、続ける。
「――萌さんと幸せにね」
結局、一香の言いたいことはそれだけだったのか、コーヒーを飲み終えると「明日も早いから」と残して帰っていった。
道子も手早く後片付けを済ませて一香とさほど間を空けず姿を消したのだが、彼女は妙に意味有りげにクスクスと笑っていた。あれは何だったのか。
独り残された一美は、どうしたものかと天井を仰ぐ。
こうやって、時間ができるたびに思うのは、萌のことだ。
この間は、彼女を追い詰めすぎてしまったかもしれない。
だが、この気持ちを『同情だ』とは思って欲しくなかった。
決して、そんなものではない。もっと利己的な、自分の為に彼女が欲しいという願望に基づくものなのだ。
――どうやったら、萌に、彼女を望んでいる者がいるということを思い知らせることができるのだろう。
あれだけ言葉を尽くしても、まだ本気にしてくれないのか。
よりにもよって、導き出した『答え』が『同情』だとは。
(同情で、俺みたいな男があんなふうに女にべたべたすると思うのか?)
多分、萌は、彼女自身の一美に対する気持ちについても、グダグダと考えているに違いない。何だか、その様がまざまざと頭に浮かぶ。
萌の気持ちなど、言葉がなくとも解かるのだ。解かっていないのは、本人ばかりで。
だが、しかし。
その萌自身が踏ん切りをつけてくれなければ次に進めないのが、現実だ。
先ほどの一香とのやり取りを思い出して、一美はため息をつく。
彼としても、早いところ決めてしまいたいところなのだが。
化石を掘り出す古生物学者の気分とは、こんなものだろうか。
コツコツと掘り進めても、なかなか望む形が出てこない。
だが、そろそろ彼女も何かに気付き始めている筈だ。刷毛でちまちま砂をどけるのをやめて、ノミとハンマーでガツンとやってもいい頃合なのかもしれない。
一美は天井を仰いで大きく息をつく。
その為の『道具』は、もう用意してあった。
*
昼休み、涼しい風が吹き始めた屋上で、萌は高く澄み渡る空を眺めていた。
仕事をしている間はいい。忙しく立ち働いていると、余計なことは考えないで済んだ。
けれども、こうやって時間が空くと、頭に浮かんでくるのは先日の一美とのやり取りだった。
あの時、彼は悲しそうな目をしていた。悲しそうな、どこか寂しそうな、目。
同じような眼差しを、他にも見たことがある。
(あれは、いつ、誰の中に見たのだったろう)
はっきりとは覚えていないけれど、同じような眼差しを注がれて、やっぱりなぜそんな顔をするのか解からなくて、もどかしくなったことは薄っすらと記憶にあった。
一美があんな目をしたのは、もちろん萌の所為だ。萌が、何かを間違えた所為だ。
(プロポーズを受けられないと言ったから? それとも、彼の気持ちを同情だと言ってしまったから?)
そのどちらでもない気がする。
(そんな『浅い』ものではなくて、何か、もっと深いところにあるんだ)
もう少しで答えが見つかりそうなのに、後一歩で手が届かない。彼以外の誰の目の中に同じものを見たのかが判れば、その答えも手に入るような気がするのに。
悲しませた理由が判らなければ謝ることもできなくて、ろくに言葉を交わせないまま、結局一週間も経ってしまった。
誰かと関わり合う中で、こんなに色々考えたのは、初めてかもしれない。
(いつもは、こんなに迷わないのに)
萌と、『他人』との関係は、いつも単純だったから。
誰かを好きになっても、ただ、その『好き』という気持ちを抱いていられれば、それで良かったのだ――今までは。
一方的に大事に想って、その人が自分と関係ないところで幸せになってくれていれば、それで満足できた。皆、萌の前を通り過ぎていくけれど、『それ』で良かった――『それ以上』は必要なかった。
(自己満足、だよね)
萌は、こっそりと自嘲する。
今なら、判る。
それは、ドラマの中の登場人物のやり取りを眺めているようなものだったことが。自分とは別の世界で起きていることを、眺めて、憧れていただけだった。
一美に容赦なく攻め込まれて、『別の世界』で起きている筈のことが、『現実』になった。そうして初めて、『傍観者』でいることを自分が無意識のうちに望んでいたのだということに気付かされた。
そう、萌は、『当事者』になりたいとは思っていなかったのだ。
彼の言うとおり、ずっと憧れていたものが、今は手を伸ばせば届く場所にある。けれども、自分は、その手を伸ばすことを躊躇している。手に入れることを、恐れている。
これまで、人と深い関わり合いを持つことが無かったけれど、それは、知らないうちに彼女が見えない壁を作っていたからなのかもしれない。
今まで出会った人たちは、その壁を感じると自然と離れていったのに、一美はそうしなかった。その壁を乗り越えて――違う、打ち破って、萌の中に入ってこようとしている。
彼は、萌に『逃げ』を赦してくれない。
プロポーズを受け入れるべきではない『理由』を告げても、すげなく却下された。それが萌の本心ではないと確信しているかのように。
一美といると、今まで見ずに済んでいたことが、どんどん目の前に突き付けられてくる。
彼といると酔いそうなほどに心地良いのに、不意に、尻尾を巻いて逃げ出したくなるほど怖くなる。
(わたしは、本当はどうしたいんだろう)
一美と出会う前のように、『平和に』暮らしたいのか。
それとも、これまでにはなかった深い関わりを、一美と築いていきたいのか。
――判らない。
仮に、一美に完全に別れを告げて、彼との関係を断ち切ったとして、またもとの自分に戻れるのだろうか。
――それも、判らない。
本当に、どうしたらいいのか判らなかった。
もっと前に結論を出さなければいけなかったのに、ダラダラと先延ばしにして、彼と共に過ごす心地良さだけを味わっていた。そうして、その挙句、一美にあんな悲しい目をさせてしまった。
――何て、ズルくて弱い人間なのだろう、わたしは。
空の青さが目に沁みて、萌は目を閉じて手すりに額を押し付ける。
こんなふうに嘆いているだけの自分は、イヤだった。
一歩を、踏み出したい。
けれど、動けない。
何かがすぐ目の前にぶら下がっている。その何かの正体が掴めたら、最初の一歩を前に出すことができるような気がするのに。
と。
「あ、やっぱりここにいた」
不意に、そんな声が響く。
萌が振り向いた先で、リコがヒラヒラと手を振ってよこした。
「まったく、まだ陽射しは強いっていうのに。若いからって油断してると、シミだらけになるよ?」
手のひらを翳しながら、リコが萌の隣にやってくる。
「また、昼ご飯抜いて、何やってるの」
「抜いたわけじゃないですよ。ちゃんと食べました。食べてから、ちょっと息抜きに来たんです」
「食べたったって、またカロリー何とかなんでしょ? ……ちょっとでも痩せたら、すぐ岩崎先生にバレて怒られるわよ」
予期せず耳にしたその名に、萌は微かに顎を引く。と、リコの目がキラリと光った。
「あの人も懲りないわね。また何かやったの?」
リコの中の一美は、すこぶる心証が悪い。問答無用で彼が悪者にされてしまったことに、萌は慌てて首を振る。
「いえ、違いますよ、わたしが勝手に……」
「あんたも、また、それ?」
「え?」
呆れたようなリコの声に、思わず振り返った。彼女は、ジトリと萌を見つめている。
「わたしが、わたしが――っていう、それ。あんた、いつでもそればっかり。それじゃ、喧嘩にもならないでしょ?」
「でも、今回は、ホントにわたしが悪いんです」
「だとしても! ちゃんと話してる? わたしが悪いんだからって、黙り込んでたら何も変えられないんだからね? せっかく二人でいるんだから、何かあるなら、ちゃんと二人で考えていかなくちゃ」
「……」
「何よ?」
思わず見つめてしまった萌を、リコがジロリと見返してきた。
「いえ、あの、リコさんは、わたしと岩崎先生がお付き合いするの、反対なんだと思っていました」
「そりゃ、そうでしょ。あんな厄介なの。恋愛初心者で堅実そのものなあんたと、うまくいくなんて思ってなかったもの」
「今は違うんですか?」
「まあね」
と、リコはため息をつく。
「岩崎先生が、意外にアレだったし。あんたには、あのくらいの方がいいのかもねって、思うようになったわ。岩崎先生が相手でも、牛の歩みだし。他の男だったら、どうにかなる前に共白髪になっちゃいそうだしね。だいたい、先生より、あんたの方が上手だわ」
「上手?」
「そう。だって、あんたの方が先生を振り回してるでしょ?」
「そんなこと、ないですよ」
自分の方が、一美の言動にオタオタしてばかりだ。一方、彼はといえば常に泰然自若としているようにしか見えない。
けれど、リコは肩をすくめる。
「はたから見てると、そんなことあるわよ。大いに。すごく変わったもの、岩崎先生」
「そう、でしょうか」
「気付いてあげなさいよ」
珍しく一美に同情的な声音で、リコがそう言った。そして、ガラリと口調を変える。
「あんたがここでタソガレてるのって、先生のことなんでしょ?」
「え?」
「あんたが落ち込んだり考え込んだりするのって、彼のことくらいじゃない。他の事ではケロッとしてるくせに、岩崎先生のことになるとグラグラ。私にだって判るくらいにね」
そう言うと、リコは萌の隣に立って柵に両肘を載せる。しばらく、二人は並んで同じ空を見つめていた。
さっきまであれほどよく喋っていたリコは、ピタリと口を噤んでいる。
萌は、自分の中でも整理がつかないまま、言葉を紡ごうとしてみた。
「わたし……このまま岩崎先生と一緒にいても、いいんでしょうか」
リコからの答えはない。萌は独り言つように続けた。
「わたし、自分で自分がよく解かりません。どんなふうに先生のことが好きなのか――自分がこれからどうしたらいいのか。色々なことを、考えれば考えるほど、解からなくなって」
萌がこぼした台詞に、リコがクスリと笑った。横を見ると、彼女の目元は柔らかく綻んでいる。
「変わったのは岩崎先生だけじゃないようね。あんたも確かに変わったわ」
「?」
萌はどういう意味かと首をかしげた。
「私に対してそんなふうにこぼすだなんて、今までなかったじゃない」
「こぼす?」
「そう。私にそんな弱音吐くなんて、初めてだわ」
「でも、リコさんには色々してもらいました」
「勝手に深読みして先読みして、殆ど空回りしてたけどね」
「そんなこと、ないです」
そのお陰で見えたことや動いたこともたくさんある。感謝の色を目に浮かべた萌に、リコは苦笑を返した。
「だったら、いいんだけど。じゃあ、愚痴ってくれたあんたに返事。そんなこと、考えるだけ無駄」
「え」
スッパリと袈裟懸けに切り伏せられ、萌はポカンとする。
「あのね、どんなふうに好きか、なんてどうでもいいでしょ。『こういうのが正しい好きの気持ち』なんてのが決まっているわけじゃないんだから。一緒にいて嬉しい、心地良い、それでオーケー、それが全て、よ」
「でも、そんなの……」
「ほんわかする好きでも、ドキドキする好きでも、イライラする好きでも、一緒にいたいと思うなら、それでいいじゃない。ドキドキハラハラで付き合いだした二人でも、五十年も夫婦をしてりゃ、まったりするわよ。でも、ずっと一緒にいたいままでいるのは同じでしょ? 感情を理屈で説明しようなんて、無理な話よ。あんた、そんなふわふわした見た目の割に、意外に理屈っぽいわよね」
ポカンと呆気に取られたままの萌に、リコは更に続ける。
「これからどうしたいのか、なんてのも無意味よね。『今』、一緒にいたいんでしょ? じゃあ、十年後、二十年後は? 逆に、岩崎先生がいない三十年後とか考えると、どうよ。嬉しい? 寂しい?」
そう言われて、気付く。
一緒にいてもいいのだろうか、というのは考えても、傍にいなくなったらどうなのか、は想像したことがなかった。
一美がいない、未来。それは……
「ね? 簡単でしょ? あんたって、器用そうなのに結構色々抜けてるわよね。あのさ、『わたしさえ我慢すれば……』とかいう自己犠牲っての? そういうの、ウツクシイかもしれないけど、あんたと真面目に向き合おうとしている相手からすれば、寂しいものよ? もっと、我を張ったらいいじゃない。それで離れていくなら、それだけの相手なのよ。多少のわがまま言ってくれた方が嬉しい相手ってのも、いるもんなんだから」
そう言って、リコは萌の背中をバシンと叩く。痛いほどに。
(わがままを、言う?)
そうしても、いいのだろうか。赦されるのだろうか。
リコのその言葉と背中の痛みに、萌は何だか微睡から叩き起こされたような心持ちになった。
思わず、しばしばと瞬きをする。そんな萌に、リコはカラリと笑った。
「さ、雑談終わり。仕事に戻ろう」
そう言って、さっさと先に立って歩き出す。
彼女に続こうとして、萌はふと立ち止まった。
入り口のドアに手を掛けて、もう一度空を振り仰ぐ。それはさっきと同じものなのに、少し、色が違って見えるような気がする。
リコは、萌が変わったと言った。
確かに、悩むようになった。今までは揺らがなかったことに、迷うようになった。
それは、自分が本当の意味で人と関わろうしていなかったということに気付き始めていたからかもしれない。
ちゃんと、人と、本当に向き合おうとするようになったからなのかもしれない。
まだまだ、うまくできていない。迷うことすらうまくできず、安易な方へ向かいそうになる。簡単で、平和な、『独り』という道へ。
今まで、独りでやれると思っていた。自分は独りなのだから、独りでやれるようにならなければ――強くならなければ、と。
けれど、人に頼ろうとしなかったのは、強さじゃない。人に頼れない、弱さだ。
優子やリコの言うとおり、手を差し伸べてくれた人がいるのに、それを取ろうとしなかった。
ふと、健人の母親、幸子への自分の言葉を思い出す。あの時、周りの手に気付けと言ったのだ――その手を取れ、と。
一美に、謝らなければ。
(ううん、謝りたい)
謝って、そして――
(なんて言ったらいいんだろう)
彼に伝えたいことが多すぎる。
『一美の為に』と言って、逃げようとして、本気で彼と向き合おうとしていなかった。ようやく、解かった。彼が悲しんだのは、彼が伸ばした手を萌が振り払ったからだ。プロポーズを断ったからとか、同情だと言ったからとか、そんなことではなく。
彼が「信じてくれ」と念を押したのも、当然だ。
不意に、もう一人の、彼と同じ目を向けた人が誰なのかが判った。
優子だ。
『クスノキの家』で過ごしていた時、母親代わりだった彼女も同じ目を時々萌に向けていた。一美と優子が萌の中で被ったのも、当たり前だ。
二人とも、萌に手を伸ばしてくれていた。いつでもそれを取れるように。それは、彼女のことを好きでいてくれるから。
一美にも優子にも、ありがとうと言わなければ。
自分の中の弱さと、ちゃんと向き合おう。無視して、見ない振りをするのはやめて。
そして、わたしはどうしたらいいのか、ではなくて、わたしがどうしたいのか、それを考えよう。
一美の顔が脳裏に浮かぶ。萌の頭の中の彼だけれども、笑って頷いてくれたような気が、した。




