7
一美の元に優人からの一通の封書が届いたのは、コンサートの二日後、彼に例のことを依頼してからきっかり十日後のことだった。
中に入っていた便箋に書かれていたのは二つの名前。そして、それぞれに電話番号と住所が付けられている。
中身を確認して、一美は優人に電話をかけた。
「届いたぞ。母親の方も、よくわかったな」
「ああ」
結構な手間だったろうに、得意げでもなく、彼は電話の向こうで短く応じただけだ。
「どうやって調べたんだ?」
「まあ、色々とな。詳しいことを教えてやってもいいが、知らん方がお前の為だ。万一後ろに手が回った時に、とぼけられないだろう? 本当に何も知らなければ、『知らぬ存ぜぬ』でも偽証罪にならないからな。僕達は何かあっても手立てを講じているが、お前のことまでは面倒見きれん」
つまり、あまり公言できない手段を使ったということか。一美は、それ以上は聞かないことにする。
「記録を残したくないから、郵送した。こちらは調査に使ったものも含めてデータを全部消してしまうから、お前も読んだら処分しておけ」
ずいぶんと大仰な、と思ったが、一美は口には出さなかった。
「わかった。で、礼はどうしたらいい?」
「そうだな……今度、いい酒でも奢ってくれ。ああ、その時に、例の彼女も見てみたい」
前半はいいとして、後半は素直に頷けない。だが、優人に大きな借りができたのは、確かなことだ。
一美は渋々と返事をする。
「……わかった。考えておく」
「じゃあな」
クックッという忍び笑いを最後に、短い電話は切れた。
まったく、相変らず意地が悪い。憮然としているこちらを、楽しんでいるに違いなかった。
一美は電話を置くと、もう一度、封書の中に入っていた愛想も素っ気もない事務用箋を開く。
二つある名前のうち、一つは里親のもの。そしてもう一つは、萌の母親のもの。
聞いていた萌の母親の名前は『佐々木めぐみ』だったが、優人の報告では苗字が変わっている。
いつ、結婚したのだろう。
産んですぐに自分が捨てた赤ん坊のことは、どんなふうに思っているのだろうか。
まさか、忘れたということはあるまい。過去のこととして吹っ切ってしまっているのか、それとも罪悪感で苛まれているのか。
一美は、彼女が結婚していたということに、なんとなく不快感を覚えた。
萌を捨てて今も彼女を苦しませている人間が幸せに暮らしているということが、気に入らなかった。
不幸に、孤独に、暮らしているべきだと、思った。
一美は眉間にしわを寄せてもう一つの名前に目を落とす。
萌の、里親。
彼らには、一美一人で会いに行くつもりだった。
――萌の母親の方は、どうすべきか。こちらは、熟考すべきだろう。
時計を見れば、まだ見知らぬ人間に電話をしても許される時刻だった。
*
「で、岩崎さんとおっしゃいましたっけ? ええっと、あの子……あら、ごめんなさい――」
「萌、です」
「そう、萌ちゃん。あの子と結婚なさるのね?」
「はい」
「主人もいれば良かったんですけど……せっかく前もってご連絡いただいたのに、生憎と、外せない用事がありまして」
「いえ、こちらこそ、不躾な申し出を聞いていただいて、ありがとうございます」
一美は、そう言って頭を下げる。
今、彼は、萌の元里親である小田家を訪れていた。
先に電話で連絡を入れておいたが、会えたのは妻の里美だけだ。『母親』の彼女がいれば知りたいことは訊けるであろうから、それで充分だった。
「幼い頃の短期間とは言え、萌はこちらでお世話になったわけですから、やはり結婚式には招待したいと思いまして。彼女には内緒なんです。サプライズで登場していただきたくて、こうやって、こっそり伺いました」
そう言って笑って見せると、里美も「まあ」と笑みを返してくる。
普通に考えれば、おかしいと思うだろう。名前も覚えていないような里子の婚約者と自称する者が突然連絡を取ってきて、会いたいと言うなどという事態は。
だが、一美の容姿と、物腰と、医者だという肩書きは、すっかり里美の目を眩ませているらしく、微塵も疑いなど抱いていないようだ。朗らかな笑顔で対応してくれる。
しばらくは夫の仕事がどうのこうのとらちもない雑談が続き、それに愛想笑いで応じる一美の顔はそろそろ引きつり始めそうだった。仕事中でも、こんなににこやかにはしない。
さて、どうやって萌の子どもの頃の話に誘導しようか。
里美の取りとめのない話に頷きながら、一美がそう思案した時だった。
自分の家族についてのネタが切れたらしい彼女が、顎に手を当てて『それ』を口にした。
「岩崎さんはご結婚なさるわけだから、あの子の生い立ちをご存知でしょう?」
知らなかったとしたら、こんなふうにばらしてしまって、どうするつもりだったのだろう。内心で呆れながら、一美は神妙な顔で頷いた。
「はい、伺っています」
「ねえ、可哀相な子よねぇ、母親が逃げてしまうだなんて」
「……」
彼女を観察する冷ややかな一美の眼差しには気付かず、里美は深々とため息をつく。
「私たちも、可哀相だと思ったからこそ、引き取ってあげたんですけど。私たちには子どもはできないだろうと言われてましてね。でも、長男を授かったんです。やっぱり、本当の子ができたら、ねぇ」
『本当の子』。
その言葉に、笑みを刻んだ一美の唇がピクリと引きつりそうになった。が、そんな彼をよそに、里美は自身に酔ったように続ける。
「できるだけ、育ててあげようと思ったんですよ? やっぱり、ほら、施設とかよりは普通の家庭で育つ方がいいでしょう? でも、うちの子――雄太が一歳越して来ると、元気な子なものですから、もう、手がかかって」
そう言いながら、彼女の目には息子が可愛くて仕方がない、という色が溢れかえっている。
その想いの、十分の一、いや、百分の一でも、萌に注いでくれたのだろうか。一美は、頼むからそうであってくれと願った。しかし、更に滔々と続けられた里美の台詞に、両膝に置いた拳を握り締める。
「確か、その頃、萌ちゃんは二歳――三歳――どちらだったかしら? とにかく、うちの雄太が一歳になった時、主人とも話し合って、やっぱりよその子を一緒に育てるのは無理ねっていうことになったんです。けど、あんまり急な話では申し訳ないでしょう? で、それから一年くらいは面倒みてあげて、『クスノキ』さんに引き取っていただいたんですよ」
まるで犬や猫の子を手放すような言いようで、里美はニッコリと笑顔になる。
一美には、何故彼女がそこで笑えるのか、さっぱり解からなかった。彼は唇を横に引き、辛うじて笑みといえるであろう表情を作って、応じる。
「そうですか。ご立派なことです」
「うちではね、あの子のことを、きちんと躾けましたのよ? 次のおうちに引き取られた時に、わがままな子だとか言われずに、ちゃんとできるように」
「そうですね。彼女は、とても『いい子』です」
「まあ。やっぱり、小さい頃の躾って、大事なんですねぇ」
「ええ……そうですね……」
一美は、何とかそれだけ搾り出す。
『ちゃんと躾けた』
その言葉の意味するところは、どんなものか。
一美の脳裏に、赤ん坊を目の中に入れても痛くないほどに可愛がる夫婦の姿が浮かぶ。
子どもができないと言われていた彼らには、この上ない僥倖だったに違いない。喜びに溢れて、わが子のことで頭の中が一杯になる。
それは、理解できる。
それを、責めることはできない。
だが、そんな彼らを、萌はいったいどんな気持ちで見ていたのだろう。その輪の中に、入ることは、できていたのだろうか――一美には、そうは思えなかった。
小田夫妻がろくでもない人間だとは言わない。
萌の境遇を哀れみ、引き取ろうとした、善意に満ちた人間だ。赤の他人よりも、血を分けた子を可愛がるのも、至極当然のこと。
悪意など欠片もない、ごく普通の人たち。
ただ、彼らは気付かなかっただけだ。子どもがどれほど『親』の空気を敏感に読み取るかということに。
里美は覚えていなかったが、それは萌が二歳の時だ。
自分を取り巻く世界に対する不安が強くなり、一番親の庇護を必要とする時。
そんな時期に、自分と他の家族との間に明確な壁ができたことを、彼女は察しただろう。
幼い頭で、自分の何がいけないのか、懸命に考えたかもしれない。
どうしたら以前の温もりを与えてもらえるのか、必死で考えたに違いない。
――そうして、一番わがままである筈の年頃に完璧に我を押し殺すことを覚え、けれど結局『親』には別れを告げられた。
それは全て一美の推測に過ぎない。
当たっていて欲しくないと、思う。
だが。
辻褄が合ってしまう。
(クソ)
一美は、内心で、毒づく。もしも今『その時』に跳べるなら、小さな萌を抱き上げてやれるのに。
「岩崎さん?」
無意識のうちに、険しい顔つきになっていたのだろう。里美がその舌を止め、怪訝な顔つきで彼を見つめてくる。
「ああ、失礼しました。……そろそろ、帰らなければならない時間なので」
もう、この家にいたくなかった。ここで過ごしていた萌を、これ以上想像したくない。
そんな一美の胸中は知らず、里美が「まあ」というふうに頬に手を当てる。
「そうですよね、お医者様では、お忙しいですよね。何のお構いもできませんで……」
「いえ、こちらこそ急なお伺いにも拘らず、ありがとうございました」
「あ、お式の方は、いつ頃に?」
そう言われて、一美は一瞬何のことだろうと首を捻りかけたが、そう言えば結婚式に招待するという口実だったことを思い出す。
「まだ、未定なんです。正式に決まったら招待状をお送りしますので」
「お待ちしておりますわ」
里美は屈託なくそう言った。だが、きっと一週間もすれば、すっかり忘れてしまうのだろう。つい先ほどまで、萌の名前を忘れていたように。
一美の胸に、唐突にムカつきが込み上げてくる。
「では」
言葉少なくそう告げて一美は立ち上がると、案内を待たずに玄関に向かった。
外に出て、自分の車に乗り、深く深く呼吸する。
気分が多少なりとも落ち着いてきたところで、エンジンをスタートさせた。それでもしばらくは高速道路に乗る気になれなくて、少しの間、一般道を走らせる。
無性に萌に逢いたくてたまらない。
逢って、彼女を抱き締めたかった。
ここから家まで一時間半ほどだが、まだ、それほど遅い時間にならずに済む。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、一美は高速の入り口を目指した。
*
仕事から帰って一息ついた頃、不意に玄関のチャイムが鳴らされて、萌は時計に目を走らせた。夜の十時を少し回ったところで、いったい誰だろうかと彼女は眉をひそめる。
「どちら様?」
「俺だ」
扉越しに返ってきた声に、萌は殆ど条件反射のようにドアを開けていた。
「先生、どうしたんですか?」
「入っても、いいか?」
「どうぞ」
何だか一美は随分疲れた様子で、萌は一も二もなく身体を引いて彼を招き入れる。
何部屋もある一美のマンションとは違って、ここはしがないワンルームだ。元々広いとは言えないのに、身体の大きな一美が入ってくると一層狭く感じられる。
「座っててください、お茶を入れますから」
ソファなんて置く場所がないから、あるのは座布団くらいだ。それに胡坐をかいた一美にそう言い置いて、お湯を沸かしに行こうと身を翻した萌だったけれど、一美に手を取られて引き留められる。
「茶はいいから、おいで」
「先生?」
一美は、何だか妙に沈んでいる様子だった。
(何があったんだろう)
いつも自信満々な一美のらしくない姿に戸惑いを覚えた萌の腕を、彼はそっと引っ張った。さして強い力ではなかったけれど、何だか逆らいがたくて、萌は素直に彼の腕の中に納まる。
抱きすくめられた萌の頭に、一美の顎がのせられた。
何か、イヤなことでもあったのだろうか。
今日は土曜日で病院は休みだったから、一美とは、看護師と医師として、午前中に少し言葉を交わしただけだった。
(あの時は、普通……だったよね?)
帰ってから、何かがあったのか。
「先生、どうかしたんですか?」
萌は、もう一度そう問いかける。それに返されたのは、また、全然問いの答えになっていない言葉だった。
「俺は、君が好きだ」
「は?」
「結婚しよう。今から、は無理か。明日にでも婚姻届けを出しに行こう」
「ちょっと、先生?」
「俺が、君の家族になるから」
「先生、ちょっと、待ってください」
萌は一美の胸に腕を突っ張って、身体を離す。
「どうしたんですか、本当に。変です」
言いながら彼の目を見ると、思いの他真剣な眼差しと行き合った。
「変じゃない。とっくにプロポーズはしただろう?」
「……そうですけど、でも……」
言い淀んだ萌を、一美は再び引き寄せようとする。けれども、どう考えてもやっぱり変だった。
「君は俺が好きだ。俺は君が好きだ。だから、一緒にいたい――それで充分じゃないか」
一美の言葉はとても単純で、きっぱりとしていて、萌はごまかされてしまいそうになる。
でも、そういうわけにはいかなかった。
逆に、今がチャンスなのかもしれない――ここ数日考え、そして辿り着いた結論を彼に告げる為の。
腕をつっかえ棒にして身体を離し、萌は一美と視線を合わせた。
「わたし、ここのところ、考えてました」
「何を?」
怪訝そうな顔をして、一美が訊く。萌は一つ二つ息を呑み込んで、続けた。
「『好き』について――先生の、プロポーズについて、他にも色々」
「そんなもの、根を詰めて考えるようなものではないだろう?」
「でも、わたしは考えたんです。で、思いました」
そこで、口ごもる。それは、萌自身も言葉にしたくないことだった。
けれども、言わないわけにはいかない。
「……先生、わたしのことをどれくらいご存知なんですか?」
「どれくらい、とは?」
「わたしが赤ちゃんの頃に捨てられて、里子に出されたところからも返されたっていうこと、知ってらっしゃるんでしょう?」
一美が、ハッと息を呑んだのが、判った。
(やっぱり、知っているんだ)
萌は、心の中で苦笑する。
だから、なのだ。一美が萌に『結婚』という言葉を出してきたのは。
それなら、納得できる『理由』だった。
実の親に捨てられて、引き取られた里親からもいらないと言われた、寄る辺のない子ども。どちらかだけなら珍しくないかもしれないけれど、その両方というのは、そうそうないだろう。
きっと、それが一美が『萌を』選んだ理由だ。
「先生のそれは、きっと、わたしのことを可哀想って思う気持ちが八十パーセントくらいなんですよ」
萌は努めて明るい笑顔を作って、軽い口調でそう言った。
一美は優しい人だから、多分、『好き』と『同情』が一緒くたになってしまっているのだろう。
彼は元々家庭なんて欲しくないと言っていた人だ。
けれど萌が以前に家庭が欲しいとこぼしたことがあるから、結婚しようと言ってくれたのだろう。
(――『可哀想な』わたしのために)
だったら、萌は一美の申し出を受けてはいけない。
きっと、その方が、彼だってホッとする筈だ。
そうしたら、『今』を変えずに済む。今のまま、一美が萌のことをいらなくなるまでは、一緒に過ごしたらいい。
「結婚なんて、しなくていいんですよ。わたし、今のままでも充分幸せですから」
明るく、屈託なく、言ったつもりだった。けれど、萌のその言葉を聞いた途端、一美の顔が曇る。
それがあんまり悲しそうだったから、萌は慌てて両手を振った。
「あ、いえ、イヤじゃないんですよ? それでも、嬉しいです、好きだって言ってもらえて。でも、それで結婚っていうのは、やっぱり違うって思うんです」
慌てて言い繕った萌に、一美は深い溜息をつく。
それがまるで胸の奥底から搾り出されたかのように聞こえて、萌は胸が痛くなった。
(でも、わたしは間違ってないよね?)
間違っているのは、こんな気持ちで結婚することの方だ。
萌は、一美の反論に備えて身構える。その様子に、彼は少し笑った。
「同情ではないさ。確かに、幼い頃の君の事を想うと、胸が痛む」
ほら、やっぱり。
萌のそんな内心のつぶやきは表情にも表れていたと見えて、一美は小さく首を振った。
「違う。胸が痛んだのが、先じゃない。君を愛しく思うから、君がつらかった頃を思うと胸が痛むんだ。同じ話を聞かされても、他の人間ではこんなふうには感じない。君のことだから、悲しいんだ」
切々とそう説く一美だったけれど、萌には同じことのように思われてならなかった。
だから、言う。
「それはやっぱり、同情ですよ。ね?」
別に気にしていないから、という気持ちを表す為に、笑顔を付けた。けれども一美の眼差しはやっぱり寂しそうなままで、萌は浮かべた笑顔を消すに消せなくなってしまう。
彼を悲しませているのは、間違いなく自分だ。その事実に、思考が停止する。
一美はそんな萌を見つめたまま、言った。
「俺は君の境遇に心を奪われたわけじゃない。君自身に惹かれてるんだ」
『わたし自身』――でも、それなら、もしも彼が離れていってしまう時が来たら、それは、萌自身のことをイヤになったということだ。
(わたしは、また、疎まれる)
――誰よりも大好きな、誰よりも大事な、人から。
フッとそんな考えが頭をよぎり、思わずフルリと身を震わせる。それを感じ取ったのか、微かに一美の腕に力がこもった。
ギュッと引き寄せられて、抱き締められる。
「君が同情だと思いたいなら、それでもいい。だが、それは逃げだ」
「逃げ? わたしは、べつに……」
「いいや、逃げている。望みさえすれば手に入るものから、君は逃げているんだ。手に入れた後のことを、恐れて。『家族』が欲しいと言いながら、実際には手に入れようとしない。手に入れる前から失うことを、怖がってるんだ」
萌の腕は、力を失っていた。もう一美を押しとどめておくことはできなくて、その腕に抱き寄せられるがままに、彼の胸に頬を押し付ける。
低い声が、硬い胸を通して耳に直接響いてくるようだ。
「この気持ちは、同情なんかじゃない。それに、俺は、君の手を放したりはしない。約束する。だから、一度だけでいい、俺を信じてくれ。その一度で、充分だから」
一瞬、彼の腕に力が入って、そして、解放された。
立ち上がった一美は、身を屈めてぺたりと座り込んだままの萌の頬に手のひらで触れる。
「君が考えたいと言うなら、好きなだけ考えればいい。だが、そうしたからといって、答えが得られるとは限らない。君に必要なのは、原因や理由じゃない――先を見る勇気だ」
そう言って、ただ彼を見上げるだけの萌の唇に、触れるだけのキスを落とした。
すぐに離れて行ってしまった温もりが優しくて、切なくて、萌はふいに泣きたくなる。
何を言ったらいいのか判らない萌はただただ一美を見つめるばかりで、そんな彼女に、彼は寂しげな微笑みを浮かべた。
「これだけは何度でも言う。俺は、君を諦めない。そのことは肝に銘じておけ」
宣言するようにきっぱりと告げると、一美は身を起こして玄関に向かう。そうして、去り際に「すぐに鍵をかけろよ」と残して出て行った。
萌はノロノロと立ち上がると、一美に言われたように、玄関に鍵をかける。そしてまた部屋に戻り、ペタンと座り込んだ。
一生懸命に考えたことは、一美に一蹴されてしまった。
――『同情』じゃ、ないの?
――わたしが、逃げてる?
そんな筈はなかった。
一生懸命に、一美に向き合おうとしているだけだ。
彼の人生に、自分がこのまま足を突っ込んでしまってもいいものなのかどうかを、考えているだけなのだ。
それなのに。
一美は萌の答えを否定する。
彼は、自分を信じて欲しいと、言った。
萌は彼をちゃんと信じている。でも、彼にはそれが通じていない。
「ちゃんと、信じているのに」
声に出して、そう呟く。その時、胸の奥の奥で、微かな囁きが聞こえたような気が、した。
――本当に?
そう自問する、微かな囁きが。
最後にキスをして萌を見下ろしてきた一美の目は、悲しそうだった。
それは彼女のせいだ。それだけは判る。
けれど。
「……わかんないよ……何がいけなかったの……?」
そうつぶやいても、答えてくれる者はいない。
目を閉じれば、目蓋の裏に自分に向けられていた彼の眼差しがよみがえる。それは、萌の心を刺し貫いた。




