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天使と狼  作者: トウリン
ほんとうの、はじまり

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36/46

6

「では、熱冷ましの坐薬を出しておきますので、本人がつらいようだったら使ってあげてください。熱が高いだけで、水分が摂れて本人が元気だったら、使わなくていいですよ。休みが明けたら、必ずかかりつけに行って、様子を診てもらってください。では、お大事に」

 言い慣れた台詞をよどみなくスラスラと口にして、一美かずよしは診察を切り上げる。

 今日は日曜日だが、当直の一美には長い一日が待っていた。


 霞谷かすみだに病院は二次救急病院なので、基本的には『飛び込み』の患者は対応しないことになっている。「急に熱が出た」などの訴えの患者は、一次救急である急病センターなどに行ってもらうのだ。

 だが、定義上はそうなっていても、窓口に来てしまった者を追い返すわけにもいかないのが現実で、結局、休日でも数十人の患者を診る羽目になることが殆どだった。


 取り敢えず溜まった患者を一掃すると、一休みできそうな間が空いた。今のところ新しい患者は来ていないようで、お茶の一杯くらいは飲む時間があるだろう。

「じゃあ、俺は行くから」

 救急外来の看護師にそう声をかけて、一美は医局に向かう。

 普段の賑やかさが嘘のように静まり返っている廊下を歩く彼の脳裏には、先だっての斉藤貢さいとう みつぐとのことが浮かんでくる。


 貢との会談の後、一美は何となくモヤモヤとすっきりしない日々を過ごしていた。


 自分こそが、もえのことを最も理解している存在でありたい。

 そう願っているにも拘らず、一美の周りの者は皆彼女のことを良く解かっていて、実は一番理解していないのは自分なのではなかろうかという気がしてくるのだ。


 だから、モヤモヤする。


 これがもしや、『自信が揺らぐ』ということなのだろうか。

 今までの人生において、一美は常に自信にあふれていた。

 実際、これまでは望んだことはほぼその通りに実現できてきたし、医者になってからは意図して自信を持つように心掛けてきた。医師という仕事は、パフォーマンスの一つとして自信を持って物事に当たるということが必要不可欠でもあったからだ――不安げな医者では、患者に安心感を与えられない。

 成功体験に基づいた自信と、仮面として身に着けた自信。

 その両者を併せ持った一美は、自他ともに認める自信満々な人間なのだ。


 ――その筈だったというのに。


 萌といると、彼の人生における様々な事柄が覆されていくようだった。

 変化を疎んじているわけではないが、何というか、これが『先の見えない不安』というものなのだろうかと思う。


 そんなふうにつらつらと色々考えて、一美はふと雰囲気の違いに気が付いた。


 救急外来から玄関前のホールを抜けて医局のある棟に行くのだが、休日には静まり返っている筈のホールからざわめきが聞こえてくるのだ。

 何事だろうかと一瞬考えて、一美はすぐにピアノコンサートを開催する日だったことを思い出す。

 開演まではまだ時間があるようで、ホールにいる者の殆どは私服を着たボランティアたちだった。普段から患者の案内などをしてくれている病院ボランティアと、恐らく時間が空いている看護師たちだろう。殆ど女性で、男性の姿は数えるほどだ。

 奉仕活動にはまったくといって興味がない一美は、忙しく立ち働く彼らを横目にそこを抜けようとする。


 が。


 その中の一人の女性の後姿に、目を疑った。

 彼女がこんな時間に病院内にいる筈がないのだが、たとえ後姿だとしても一美が彼女のことを見間違えるわけがない。

 彼は真っ直ぐにその背中に歩み寄り、その腕を捕らえる。


「何をしているんだ」

 尖った声でそう咎めた一美を、振り返った彼女は――萌は、目を丸くして見上げてくる。

「先生」

「何をしていると訊いているんだ」

「コンサートのボランティアです」

 萌がキョトンとして答える。


 訊き方が悪かった。

 ボランティアをしていることなど、見れば判る。

 一美が訊きたかったのは、十二時間の夜勤を終えて家に帰っている筈の萌が、何故、昼間近の病院でボランティアをしているか、ということだった。


「君はいったい、何時間働く気だ。さっさと帰って寝ろ」

「え、大丈夫ですよ」

 萌は屈託なくニッコリと笑う。

 何と言ったら、一美のこの心中をうまく伝えられるのか。

 ほとんど苛立ちに近いものを覚えながら、彼は続ける。

「君は夜勤明けだろう。十二時間働き詰めの者が奉仕活動をする必要はない」

「でも、先生たちだって、当直の時は三十六時間とか、普通に働いてるじゃないですか」

「それは、給料をもらって働く『仕事』だ。ボランティアは無理をしてまでやるもんじゃないだろう」

「無理なんてしてないですもん。若いから、体力あるんです」

 まったく。こういう時は、打てば響くように返してくる。


 萌の説得を諦めた一美は、彼女の腕を捉えたまま、近くにいたボランティアスタッフに声をかけた。

「ああ、ちょっと」

「はい?」

 笑顔を浮かべて振り返ったスタッフに、一美は事情を説明する。

「彼女は夜勤明けなんだ」

「え、ちょっと、先生!」

「明日も日勤が入っているし、ボランティアはキャンセルして帰してやってくれ」

 萌の抗議を無視して一美が言うと、ボランティアスタッフは目を丸くして萌に顔を向けた。勤務の後だという事は、やはり告げていなかったようだ。


「え? そうなんですか? そんな無理しなくても良かったのに。人手はありますから、帰っても大丈夫ですよ」

「ありがとう」

「わたし、帰りませんから!」

 強引な一美の言動に呆気に取られてそのやり取りを聞いていた萌だったが、彼が彼女の腕を引いて歩き出そうとすると、両脚を踏ん張って抵抗しようとする。


 業を煮やした一美は彼女の腰に腕を回すと、ヒョイと持ち上げて歩き出した。

「え、あ、ちょっと、先生! 待ってください」

 萌は手足をばたつかせて暴れるが、普段、激しく抵抗する子ども達を抑え込んでいる一美の敵ではない。

 何事かとその場の者が振り返る中を構わずスタスタ歩いて、さっさとホールを後にする。

 看護師のロッカールームの前まで運んで、そこで下ろしてやった。

 自分の足で立った萌は、無言で彼を睨みつけている。


「じゃあ、俺は当直だから。すぐに帰って寝ろよ」

 そう言い置いて、一美は返事を聞かずに立ち去ろうとした。が、背中にぶつけられた、いかにも怒っているらしい萌の声に、振り返る。

「わたし、全然やれたんですから!」

 どうやらだいぶ怒らせてしまったらしい、とは思ったが、一美も引く気はない。

 これが看護師の仕事だったら彼女の望むようにさせてやりたいところだが、ボランティアなら話は別だ。萌は明日も日勤で働くし、今日は帰って休むべきなのだ。


「いいから、帰れ」

「先生! 横暴です!」

 萌の背丈は一美の顎に届くかどうか、というところだ。

 そんな彼女が拳を握り締めて両足を踏ん張っていても、仔猫が毛を逆立てている程度にしか見えやしない。危うく緩みそうになる口元を引き締めて、一美は絡め手で攻めることにした。


 萌に向き直って、懇々と説く。

「俺は君が心配なんだ。君は勤務中に仮眠も取らないから、完全な徹夜明けなんだろう? 自分では大丈夫だと思っていても、疲れってのは溜まっていくものなんだ。休める時に休むのも、仕事をする上では必要なことだ、違うか? 大丈夫だと油断していて潰れたら、その方が周りに迷惑をかける」

 最後の一文が一番効果を発揮したようで、萌はそこで少し俯いて黙り込んだ。と、タイミングよく、そこで一美の院内PHSが鳴る。

「じゃあ、俺は行くから、早く帰るんだぞ」

 一美は手を伸ばして、クシャリと彼女の髪を撫でてやる。そうしてしまってから、子ども扱いしているように見えてしまったかと思ったが、仕方がない。

 頭の中を整理した萌がまた何か言い出す前に、今度こそ一美は踵を返してその場を後にする。


 PHSのコールは病棟からで、患者の点滴が漏れたから入れ直して欲しいということだった。

 さして梃子摺ることなく処置を終わらせ、一美は医局への帰り際、念の為にコンサート会場へ足を運ぶ。

 グルリと見回してもそこに萌らしき姿はなく、どうやら素直に帰ったらしいと胸を撫で下ろした。そして、今度こそ医局に向かう。


(まったく、彼女はどうしてああなのだろう)

 幾度となく繰り返した問いを、一美はまた胸中で呟いた。献身的と言えば聞こえがいいのだが。

 確かに、小児科の面々も、基本的には休日も出勤している。だが、それは、子ども達は日々状態が変わる為、目を離すことができないからだ。

 患者達の状態が落ち着いていれば当直医に任せるし、来る必要がなければ、来ない。わざわざ業務外の仕事を見つけるなどということはしやしない。休めるに越したことはないのだ。

 首を振りつつ医局に戻ると、そこにはその小児科医の一人、徳永肇とくなが はじめがいた。白衣を置いているところをみると、自分の患者を診終わって帰るところなのだろう。


 入ってきた一美に気付いて、彼はペコリと頭を下げた。

「あ、お疲れ様です。外来、忙しいですか?」

 彼らしい柔らかな笑みと共に、そう訊いてくる。

「いや、そうでもない。朝一番で、五人ほど溜まっていたくらいだ」

「そうですか。やっぱり、時期がいいからですかね」

 もう少しすると、台風やら涼しくなるやらで、喘息や感染症の子どもが増えてくる。そうなると、休憩はおろか食事もろくに摂れなくなるのだ。

「まあ、今のうちに楽をさせてもらうさ」

 言いながら、一美は自分のデスクに着く。と、ふと思いついて、クルリと肇に向き直った。


「なあ、徳永」

「何ですか?」

 帰りの身支度を整えていた肇が、振り返る。

「お前、心理方面に詳しいだろう?」

「詳しい、というほどじゃないですけど、興味はあります」

 そう謙遜するが、肇のデスクの上には児童心理などの本がぎっしりと積まれている。しかも、かなり読み込んだ状態で。

 元々、彼は精神科と小児科とで選択を迷っていたらしいから、今も小児の心身症などに強い関心を持っていた。


 一美は一つ咳払いをして、切り出す。

「その、ワーカホリックってやつについて、どう思う?」

「仕事中毒ですか?」

「そうだ。仕事の後にボランティア、とか、何を思ってそんな余計なことをする気になるんだと思う?」

 生真面目な肇は、唐突な一美の奇妙な問いにも、真剣に考え込んだ。

「うぅん。本来の仕事にのめり込むなら、その仕事が好きだからってことなんでしょうね。でも、別のことをやるのか。ボランティアじゃ、お金にはならないし。単純に、人の役に立ちたいってことですかねぇ」

「だが、何故そこまでやりたがる? ある程度なら解かるが、身を粉にして人の役に立つ、というのはどういう考えから来ているのか」

「身を粉にして、ですか。そうですねぇ……そうやって、自分の存在を証明したい、とか?」

「証明?」

「そう。あるいは、存在を赦してもらう、とか」

「何でそんな必要があるんだ」


 一美は、眉をひそめる。

 自分が存在していいかなど、誰かに赦しを乞うものではない筈だ。許可してもらうまでもなく、そこにすでにいるのだから。


 本気で理解不能な顔をしている一美に、肇は更に言い添えた。

「神経性食思不振症の人なんかは、そういう一面もあるのではないか、と言われてますよ」

「拒食症か?」

「はい。あの子達なんかは、病的なほどに痩せたがりますよね。じゃあ、何でそんなに痩せたいのかというと、今の風潮は『痩せているほどキレイ』で、キレイであれば周りから称賛されて、認めてもらえると思うから。自尊心がしっかり作られていれば、他人にどう思われるかでそれほど右往左往しなくて済むんですけど。自尊心が低い子達にとっては、『周りの評価』の他にすがるものがないんですよ。」

 肇は、一文一文を噛み締めるように、言う。

「先生のおっしゃる『仕事にのめり込んじゃう人』は、そうすることで認めてもらいたいんじゃないでしょうか。ボランティアで人から感謝されて、自分の存在を確認する、みたいな」


『他人に認めてもらう』必要など露ほども感じたことのない一美は、彼の話に眉をひそめるばかりだ。


「さっぱり解からん。彼女はもう十分すぎるほど皆から評価されているし、むしろ天狗になっていいくらいだぞ?」

「……人の自尊心の土台を作るのは、なんだかんだ言って、やっぱり母親なんですよね。幼い子どもにとって、お母さんというのは世界の全てですから、小さい頃に母親にしっかりと受け止めてもらうことで、一番の基礎ができる。人生の中で一番重要な時期にこの世で一番重要な相手から与えられるべきだったものに匹敵するほどのものを、すでにその人ができ上がった状態で他の誰かから手に入れるのは、かなり大変なんじゃないでしょうか」

 真面目な顔でそう言い終えた彼だったが、一美の表情に気付いて、苦笑した。


「いや、まあ、人の心のことなので、他にももっと色々なことが絡み合っている筈ですけどね。他にも説は色々あるし。誰も自分の胸中なんて理路整然と語れないし、それが真実なのかも判りませんから。一元的に、『こうだ!』なんて言い切れるものではないですし。そもそもこんなのただの推量で、実際は、そんな深い意味とかなんてなかったりしてね」

「いや、ああ、そうだな、考え方の一つだな」

 一美は、そう呟く。彼の表情が予想外に真剣なものであることに、肇は少し戸惑いを覚えたようだった。


「岩崎先生?」

 問いかける眼差しの肇に、一美は小さくかぶりを振って返す。

「何でもない。引き留めて悪かったな。帰ってゆっくり休んでくれ」

「はい……お疲れ様でした」

 一美が促すと、肇は訝る眼差しを残しながらも鞄を手にして、頭を下げる。そして、何となく気掛かりそうな様子を残しつつも、医局を出て行った。


 独りになった一美は、肇の台詞を思い返す。


 ――自分の存在を、働くことで認めてもらう。


 それは、妙に、ぴったりきた――萌に。彼女の生い立ちを鑑みれば、そういう気持ちが心の奥底にあったとしても、不思議ではない。

 動くことの動機の一つが、「人の役に立ちたい」という気持ちであることは、誰しも多かれ少なかれあることだろう。その「役に立ちたい」という思いの底にあるものが、「そうすることで人から認めてもらいたい」という願望であることも。

 だが、「働くことで認めてもらう」――「尽くさなければ受け入れてもらえない」と思っているのであれば、それは、どうなのだろう。だから、萌は、赤の他人の為にも過剰なまでに動こうとするのだろうか。


 一美は、見も知らぬ相手を喜ばせたり、その相手に認めてもらいたいと思ったりすることはない。

 どうでもいい相手に尽くす気持ちにはならない。

 彼が動くのは、『大事に想っているその人』に喜んで欲しいからだ。

 ただ、「好きだ」「大事だ」と言葉で告げるだけでは、萌の心の奥底まで届かせることはできないということなのだろうか。

 何かをする必要はなく、ただシンプルに想いを注がれる、というのは、彼女には理解できないことなのだろうか。


 肇が言ったように、これはただの推論だ。

 萌の心は萌にしか――いや、本人にすら解からないかもしれない。それをグダグダ紐解こうなど、傲慢なことなのかもしれない。

 だが、一美は、もしもそんな心の動きが萌の中に潜んでいるのなら、「それは違う」と言ってやりたかった。


 何もしなくてもいい。

 ただ、お前自身を、萌そのものを好いている者もいるのだ、とその頭に叩き込んでやりたかった。

 誰かの為に夢中になるところもひっくるめて、一美は萌を好きなのだ――愛している。

 その行動の根底にあるものが「受け入れてもらいたいから動く」というものであったとしても、別に幻滅したりはしない。そんな弱さもまた、彼女を形作るものの一つなのだから。

 だが、そんな気持ちで『動かずにはいられない』のであれば、それはやめさせたかった。

 どうしたら、萌にとって一番良いようにできるのだろう。


 そう考えた一美の胸元で、PHSが存在を主張する。彼は小さく息を吐きつつ受話ボタンを押した。

「はい、小児科岩崎」

「あ、先生、すみません。また五人ほど患者さんが来られてます」

「わかった」

 取り敢えず、ひとまずはここまでだ。

 考えれば考えるほど、萌の中には何か根深いものが潜んでいるような気がしてくる。

 どうやったらそれを掘り出すことができるのか。いや、そもそも、どこまで探る必要があるのだろう。

 多分、全てを知る必要はない。そんなことは不可能だ。


 どうしても見つけなければならない、何か。


 その何かを、一美は探し出したかった――それさえ知れば、萌を本当に手に入れることができるようになる、何かを。


 一美は職務を果たそうと立ち上がる。

 救急外来への道すがら、思った。


 想いを通じ合わせるということが、これほど困難なことであろうとは。

 ただ単純に、想いを向けて、そして返してもらえるというのは、何とありがたいことなのだろう、と。


 萌は厄介な相手だ。

 だが、その厄介さも含めて愛してしまったのだから、仕方がない。

 救急外来に着いた一美は、深く息を一つ吐いて頭の中のスウィッチを切り替える。


 問診票を読み、電子カルテを開くと、一人目の名前を呼んだ。



   *



「もう!」

 足早に立ち去って行く一美の背中を見送って、萌はそう声をあげた。


 いくらなんでも、横暴すぎる。

 夜勤明けでもなんでも、自分の身体のことは自分が一番知っている。別に、大丈夫な筈だったのに。


 萌はもう一度コンサート会場に戻ろうかどうしようか、迷う。


 一美なんて、知ったことではない。

 萌だって一人前の大人なのだから、あんなふうに行動に口を挟まれる筋合いはないではないか。

 横を見たら、ガラス戸にクシャリと乱れた髪をした自分の姿が映っている。

 これも、一美のせいだ。


「わたし、もう二十歳超えてるんだし!」

 自分の面倒も見られない子どもの様な扱いは、納得いかない。


 ――よし、戻ろう。


 そう思った時だった。

 ズボンの後ろポケットに入れておいた携帯電話が音もなく振動する。

 誰だろうかと思いながら液晶を確認すると、そこには『おかあさん』の文字があった。彼女がそう呼ぶのは、一人だけ――『クスノキの家』の優子ゆうこだけだ。

 どうしたのだろうと訝しみながら、萌は通話ボタンを押す。


「もしもし?」

「あ、萌?」

 耳に優しい温かな声で名前を呼ばれ、先ほどの一件でささくれだってしまった萌の心が凪いでいく。

「どうしたんですか?」

 優子はいつも萌のことを気にかけてくれているけれど、それでも、用もないのにこうやって電話をかけてくることなどない。

 萌が『クスノキの家』を出てから一年以上が経つ。その一年で、彼女の方からの電話は初めてだった。何かあったのだろうかと、萌の中を不安がよぎる。

 が、返ってきたのは苦笑混じりの声だった。


「もう。何もなくても電話くらいするわよ。どうしてるのかなって思って。あなたの方からは連絡をくれないから」

「どうって……元気にしてます。ほら、便りのないのは無事な証拠って、言うじゃないですか」

「そうだけど、たまには声を聴かせてくれてもいいのよ? 夜遅くてもいいんだから」

「あ、はい……」

 確かに何か起きたわけではなさそうだけれども、何となく違和感が漂う。優子の声の裏に、何かあるような気がしてならない。


「本当に、何にもないんですよね?」

「いやね、何があるっていうのよ。……それより、あなたの方こそ、変わりはないのよね?」

「ありません。元気にしてます」

「そう……」


 しばらく、沈黙。

 そして、再び口を開いた優子から出てきたのは、意外な名前だった。


「それならいいけど、何かあったら岩崎さんに相談するのよ?」

「先生、ですか?」

 唐突にその名を挙げられ、萌は思わず受話器を耳から離してまじまじと見つめてしまう。

 何故、ここで一美の名前が出てくるのだろう。

 そんな疑問を、そのまま優子に投げかける。


「何で、先生が出てくるんですか?」

「何故って、今、一番あなたの傍にいてくれる人でしょう? あなたが困っている時、私が傍にいたらいいけれど、遠く離れていたら、何もしてあげられないもの」

「わたし、自分のことは自分でできます」

「ええ、そうね。してしまえるわね。でも、誰かが一緒にいてくれたら、独りでやるよりもつらさは減るわ。岩崎さんだって、あなたが独りで何でもやってしまうより、声をかけてくれた方が嬉しいと思うの」


 そんなものだろうか。


 萌は首をかしげる。

 優子は「おかあさん」だから、そんなふうに言ってくれるのだ。

 独りでできることなのにいちいち一美の手を煩わせていたら、それこそ、愛想を尽かされてしまう気がする――きっと、彼は離れていってしまう。

 そうは思ったけれど、優子に反論するのも気が引けて、萌は言葉だけでも素直に頷いた。


「……わかりました」

 彼女のその返事に、電話の向こうで小さな吐息が聞こえる。

 そのため息の意味するところが何なのか――安堵なのか諦めなのか、萌には掴み兼ねた。それを最後に、会話が途切れてしまう。

 受話器の向こうの微かな息遣いを耳にしながら萌は何かを言わなければならないと思ったけれど、言葉が見つからない。


 やがて、先に口を開いたのは優子の方だった。

「取り敢えず、あなたが元気だというなら、良かったわ。じゃあね、また電話するから、あなたの方からもかけてきてね?」

「はい。ありがとうございます」

「……またね」

 そうして、聞こえてくるのはツー、ツーという電子音だけになる。


 萌は、電話を閉じてからもしばらくその場に佇んでいた。

 一美への反抗心は失せていて、コンサート会場に戻ってやる、という意地めいた気持ちはなくなっている。

 いつしかピアノの演奏が微かに耳に届き始め、ようやく萌は歩き出した――ロッカールームの方へ。

 そうして、置いておいたバッグをロッカーから出し、ロッカールームを、病院を出て、駅へと向かった。

 機械的に足を動かしながら、萌は優子が突然にあんなことを言い出した理由を考える。


(先生に相談しろ、だなんて)

 少なくとも、優子に対して弱音は吐かなかった筈。彼女を心配させるようなことは、何も言っていない筈だった。


 にも拘らず、優子のあの台詞。


「心配、させた? ……なんで?」

 会話を思い返してみても、何がいけなかったのか、判らない。

 何だか、一美と優子が被って見えた。

 どちらも、先回りして萌の心配をしてばかりだ。そう思うと、少し複雑な気持ちになる。

 一美と優子が似ているということは、自分も二人を混同しているのだろうか。


(まさか、わたしは、彼を『おかあさん』として見ているの?)


 まさか、そんな、バカな。

 そんな筈はない――と思いたい。

 慌てて首を振ったけれど、萌の心には何かがズシンと根を下ろす。


 自分の気持ちには、何一つ確信が持てないのだ。もしかしたら、本当はそんなふうに思っているのかもしれない。

『クスノキの家』を卒業して、優子との関係を切らなくちゃならなくなったから、一美を代わりにしたのだろうか。

 彼には対等な扱いをしてくれと訴えつつ、本当は、すがる相手として彼を求めているのだろうか。


「こんな気持ちで、いいのかな」

 思わず自問したけれど、いいわけがない。


 それに。

 それに、優子から突然出てきた一美の名前。


 優子と一美は、萌を『クスノキの家』に迎えに来たあの時しか出会っていない。迎えに来て顔を合わせただけなら、こんなふうに優子の口から彼の名前は出てこないだろう。


 ふと、萌は足を止める。後ろから歩いてきた人が迷惑そうによけていったけれど、気もそぞろに頭を下げるしかできなかった。


 一美のプロポーズ。家庭なんか要らないと言っていた彼の突然のプロポーズは、あの時だった。

 あの日、優子と一美はどんな話をしたのだろう。彼は、どこまで知っているのだろう。


 ――ああ、そっか。


 不意に、萌の中に何かがストンと落ちた。

 彼は、全てを聞いたに違いない。萌の生い立ちを。


(きっと、先生は『同情』したんだ)


 彼女がどんなふうに扱われてきたかを聞いて、そして同情して、憐れんだ。

『それ』なら彼の言動が理解できる。


「そっか……」

 萌は、ポツリとそれだけつぶやいた。


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