5
一美が優人に調査を依頼してから三日が経ったが、まだ彼からの連絡はない。
「もどかしいな」
電話帳で調べるようなわけにはいかないものなのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、ただ待つしかない一美は、何となく落ち着かない日々を過ごしていた。
あと、何日ほどかかるのだろうか。
三日? 一週間?
焦る必要はないのだが、一日、二日を惜しんでしまう。
そんな気持ちで外来への廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた朗が「よう」と手を上げてきた。
小児科外来と朗が所属する整形外科の外来とは隣り合わせなので、よくすれ違う。
「丁度よかった」
一美の前まで来た朗はそう言いながらポケットを探ると、一枚の紙片を取り出した。それを受け取って開いてみると、目に入ってきたのはメールアドレスだ。
「変更したのか?」
「いいや」
「じゃぁ、誰のだ……女からのは受け取らないぞ」
そう言いながら返そうとする一美に、朗はにんまりと笑う。
まるで、にやにや笑いだけ残して消えていく某猫のようなその顔に、一美はムッと眉間にしわを寄せた。
「誰のだ?」
「斉藤さん」
「……は?」
「斉藤貢さん」
思いも寄らなかった名前を出され、一美は思わずそのメモを握り潰してしまう。忘れもしない、斉藤貢は以前萌に言い寄った男だが、何故その名前が今更出てくるのか。
「彼、萌ちゃんとデートしたんだよねぇ」
「な――」
――んだと、と言おうとした一美の声は、続いた朗の台詞で喉の奥に押し込められた。
「お前が彼女を振った頃に」
ニヤツク朗を、一美は無言で睨み付ける。
断じて、振ってなどいない。
だが、あのことに関しては全面的に一美に非があるのだ。それは、どう言い繕おうとしてもできることではない。
甚だ不本意だがあの時の会話の流れが一美が振った『ことになっていた』以上、萌がどこの男と何をしようが、それを責めることは一美にはできない。
――まったくもって受け入れ難いが。
それに、そもそも萌は『デート』だという頭はなかったのだろう。どういう経緯でそうなったのかは判らないが、彼女が率先して臨んだわけではない筈だ。
振り上げた拳を下ろす先を失って、一美はグッと唇を引き結ぶ。
「彼もさ、傷付いちゃってる萌ちゃんを見て、『これじゃイカン!』とか思ったんじゃないの? 悪い男にだまされているなら、助けてやらなきゃ、とか。で、一度お前と会って話をしてみたいんだってさ。お前の都合のつく日時を教えて欲しいって」
一美には自分の表情を見ることはできないが、渋面というよりも険しい顔付きになっていることは、疑いようがない。そんな彼に苦笑しながら、朗が続ける。
「まあさ、いい機会じゃないの? 真っ当な感覚をした人と、ちょっと対談してきたら? 何かねぇ、彼だったらゴールデンレトリバーを連れて家族そろってお散歩とか、息子を肩車して海沿いを歩くとか、すごく似合いそうな気がするよ」
「どうせ、俺には似合わないさ」
いかにも一美にはそぐわなそうな光景を挙げられ、彼は更にムッとする。そんな一美の肩をポンポンと叩いて、朗は付け加えた。
「そうだよねぇ。ホント、想像もできないや。まあ、とにかく、オレは伝えたからな」
さっくりとそう言って、彼は一美の脇をすり抜けて去って行く。
残された一美は、手の中の紙切れを見つめた。
連絡をする義理はない。そう、まったくないのだ。こんなものは、さっさと捨ててしまえばいい。
――そう思うのに、彼はメモをたたんで、財布にしまい込んだ。
真っ当な感覚。
どんなものが『まとも』なのか。
少なくとも、自分がそれとはかけ離れていることを、今では一美も理解している。だが、多少は変わった筈だ――あんな愚かなことで二度と萌を泣かせずに済むようになった程度には。
そうは言っても、人間、どうしても変えられない部分もある。
多分、斉藤のような男の方が、人――萌を幸せにできるのだろう。
一美の中にもそう思う自分がいるが、だからと言って『斉藤貢』になるわけにはいかないのだ。
それは何かが違う。
萌が想ってくれているのは『この』自分なのだから、今の一美のままで彼女を幸せにしてやるべきなのだ。
他の誰でもなく、この自分が。
「俺自身のやり方で」
そう呟いて、一美は外来に向けてまた歩き出した。
*
いつもの帰り道。
なんだか萌の心の中を見通そうとするかのような眼差しで、一美がジッと彼女を見つめてきた。
あんまり強い視線に萌は少し居心地悪くなる。
「なんですか?」
しばらくは我慢していたけれども、ついに萌は声をあげた。
「そんなふうに見られるのは、何だかイヤです」
「ん? ああ、悪い」
一美自身、彼女を見ていたことに気付いていなかったかのように、萌に言われて、彼はハッと瞬きをした。
「なんですか?」
萌は、もう一度そう問いかける。
いつも単刀直入な――時に、彼女が困るほどに―― 一美がこんな何かを含んだような素振りを見せるなど、あまりないことだ。自分が何かしてしまったのだろうかと、少し不安になる。
と、彼女のその気持ちが顔に表れたのか、一美がフッと微笑んだ。
「いや、本当に何でもない」
そう答えながら、彼は繋いでいた手を放して、代わりに萌の肩に回してくる。
こうやって一美に触れられると、やっぱり、まだ恥ずかしい。でも、それだけではなくて、同時に安らげる心地良さもまた、萌は覚える。抱き締められた時も、すっぽりと包み込まれているような感触が、とても好きだった。
何というか、一美は、前よりも『ベタベタ』はしなくなった。
すごく大きな違いはないのだけれど、たとえば人が近くにいるのにキスをしたりとか、萌が困惑するような触れ方は、グンと減った。
前は彼に押し潰されてしまいそうな、どこか有無を言わせないような強引さがあったけれど、今は、もっと、すっぽりと全てをくるみ込まれるように感じる。そして、そんなふうにされると、萌は自分がとても大事なもののように思えた。
萌と一美は、ゆっくりと足を進める。
その穏やかな時間が、彼女はとても好きだ。幸せで幸せで、鼻の奥がツンとする。
「どうした?」
何かを感じたのか、不意に一美がそう訊いてくる。今喋ると声が震えてしまいそうで、萌は黙って首を振った。
頭の天辺に、一美の視線を感じる。萌は少し俯いて、彼から顔を隠した。
と、そんな彼女に、何を考えたのか、更に一美が問いを重ねてくる。なんとも、答えにくい、問いを。
「……君は、俺のことが好きだろう?」
思わず萌の足が止まり、つんのめった彼女を一美が支える。
体勢を整えて、彼を見上げ、萌は訊き返した。
「はい?」
「俺のことが好きだと、言ってみてくれないか?」
一美が唐突にそんなことを言い出した意図が、全然読めない。けれど、見つめてくる彼の眼差しに冗談めかしたものはなく、ふざけているとか、からかっているとかではないことは伝わってきた。
「今、ですか?」
「今」
いっそ、からかわれているのなら、良かったのに。
萌はごまかすこともできずに、また俯いた。
この時間の駅前は人通りが多い。見知らぬカップルの会話など気にも留めないだろうけれども、だからと言って簡単には口に出せない。
萌が逃げても、多分、一美は苦笑しながらもいつものように許してくれるだろう。
けれど、彼の目の中に潜む真剣な光が、彼女を踏み止まらせた。
チラリと周囲に目を走らせ、一美を歩道の端に押しやる。彼の腕につかまって精一杯背伸びをして、耳元に口を寄せた。
そうして、囁く。
「好きです」
ちゃんと、届いただろうか。一言でも顔から火を噴きそうなのに、二度は言えない。
恐る恐る目を上げてみると、彼は至極満悦な笑みを浮かべていた。
「聴こえましたよ、ね?」
一応確認してみると、彼はニッと笑う。
「聴こえなかった。もう一度、言ってくれ」
絶対に、ウソだ。
いくら一美にしてやられてばかりの萌でも、彼の浮かべている表情を見れば間違いようがない。
いつもと違う目の色にだまされたけれども、やっぱり、からかわれていたのか。
「絶、対、もう言いません!」
パッと離れて、振り返りもせずに駅へ向かってスタスタと歩き出す。
萌としては早く歩いたつもりだったのに、数歩のうちに追いつかれて手を取られた。
「悪かった」
萌に逃げる余裕を与えずしっかりと手を繋ぎ直して、一美が言う。妙に、嬉しそうに。
そして少し身を屈めて萌の耳に囁き返した。
「ちゃんと、聞こえた。俺も、君が好きだ」
彼を見上げることなんて、できなかった。
いつも満足に気持ちを伝えられない萌と違って、一美は、言葉も行動も、惜しみなく彼女にくれる。
時に彼女が溺れてしまいそうになるほどに。
カッと頬が熱くなって、一美の忍び笑いが耳に届く。多分、こんな他愛のない言葉にもゆでダコのようになっている萌に、笑っているのだ。
彼に握られた手を振り払えないことが悔しくて、そして、やっぱり、幸せだった。
*
斉藤貢との会談に一美が用意したのは、深夜まで開いている喫茶店だった。
そこは変な拘りがある店で、夜中の二時まで営業しているくせに、出すものはコーヒーだけだ。
その代わり、そのコーヒーは旨い。
マスターの趣味でやっているようなところなので、基本的には閑古鳥が鳴いている。
その時も、店にいるのは一美と貢だけで、マスターはコーヒーを出すとさっさとカウンターの奥に引っ込み、雑誌を開いてそれに没頭し始めた。
「今夜は、お時間を割いていただいて、ありがとうございました」
そう言って、真向かいに座った貢が丁寧に頭を下げる。
入院している時にはまったく気にも留めていなかったので、彼の顔は覚えていなかった。こうして見てみると、平凡ではあるが温和そうで、いかにも一美と正反対の印象だ。
「いや。で、御用は?」
さっさと終わらせて、さっさと別れよう。
嫌味のない好青年の筈なのだが、何故だか妙に気に障る。何がどうと言えるわけではないのだが、彼を前にしていると胸の奥がジリジリと焼けるような疼きを訴える。
単刀直入の一美の言葉に貢は少し苦笑して、続けた。
「やっぱり、いい感情は抱けませんよね。じゃあ、僕も簡潔に言います。お話は、もうお判りでしょうけれど、小宮山さんのことです」
「君と何の関係が?」
ズバリと斬り返した一美に、彼は更に苦笑を深くする。
「関係は、ないですね。僕の一方的な想いだけです」
そこで彼は、一つ息をついた。
「岩崎先生は、小宮山さんとお付き合いなさってらっしゃるんですよね?」
「ああ」
これは、即答だ。半分威嚇する勢いで、即座に応じた。
そんな一美の様子に貢が微かに口元を緩ませ、そのことにまた、一美は苛立ちを覚える。彼の胸中に気付いているのかいないのか、貢が続けた。
「僕は、小宮山さんに幸せになって欲しいと思うんです。それが、僕以外の者の手の中で、でも構わない。彼女が変わらず笑っていられるなら、それでもいいんです」
確かに、僕がそうできるなら、その方がいいんですけどね、と笑った貢の顔は穏やかで、一美には彼が何故そんな表情でそんなことを言えるのかが、解からなかった。
他の男の腕の中で幸せそうに笑う萌など一美には想像できないし、したくもない。
腹の底が焼け付くようにヒリヒリとして、一美は眉間にしわを寄せる。
不機嫌を隠そうともしない彼に、貢は唐突に問いかけた。
「あなたは彼女を幸せにできますか?」
「する」
「自信がお有りなんですね」
きっぱりと断言した一美に、貢は若干呆気に取られた顔になる。
普通の、男だ。目の前のごく平凡な男に、その時一美は、何故か「負けたくない」と思った――財力も、容貌も、負ける要素などどこにもないというのに。
「自信なんぞないが、あいつを幸せにするのは、俺です」
言外に「誰にも渡すつもりはない」と告げる。その様子に、貢がやっと何かに気付いたような顔になった。
そして、再び苦笑する。
「ああ、誤解しないでください。別に、宣戦布告に来たわけではないんですから」
そう言うと、彼の笑みの中の苦みの部分が濃さを増した。
「あなたたち、元の鞘に納まったんでしょう? 勝ち目のない悪足掻きはしませんよ」
「諦めがいいな」
あれほどしつこく言い寄ってきた割に、あっさりしている。思わず一美が呟くと、貢は肩をすくめて返した。
「まあ、そりゃぁ……あなたとだったらワイン数口で前後不覚になるっていうのに、僕とだったら三杯でもケロリとしているんですから。そんな違いを見せつけられたら、もう諦めるしかないでしょう。……少し、後悔しましたけどね。あの時、彼女が弱っているところにつけ込んでいればって」
その台詞の聞き捨てならない部分に、一美がピクリと反応する。
「彼女は、君と酒を呑んだのか?」
一美の方から『別れ』を切り出した後だったのだ。彼に怒る権利はない。権利はないが――声に剣呑な色が滲むのを抑えることはできなかった。
一美と萌との間に常々交わされている約束事など知らない貢は、軽い口調で返す。
「ああ、食前酒ですよ。彼女は酒だと気付かなかったようで、ワインだと教えたら驚いていました。自分は弱い筈なのにってね。で、それを聞いて、これはこのままでは勝ち目がないなと思ったんですよ。無意識のうちに、僕の前では気を許せないって言われたわけだったし。それに、小宮山さんはあなたのことを吹っ切ろうとしていたようだったけれど、彼女の想いがどこにあるのかなんて、短い間しか一緒にいなくても、嫌でも判ってしまいましたよ。そんなふうに想いを残したままで、そう簡単に忘れられるものではないでしょう? 無理に忘れようとしている姿が痛々しくて、つい、あなたともう一度話してみたらいいと言ってしまって、結果は……こうなりました」
彼は笑う。
「あなたが本当に彼女のことをこっぴどく振ってくれたら、僕も諦めずにいられたんですけどね」
コメントのしようがない一美が黙ったままでいると、貢がふと真顔になった。
「彼女は、どことなく危うい感じがします。屈託なくて、すごく明るくて……僕を救ってくれたのに、ふとした時に、真っ暗な中で崖っぷちを歩いているような感じを受ける。僕が支えてあげられたらよかったけれど、彼女が望んだのは、あなただったから」
彼は立ち上がると、最後に言う。
「こんなの、僕が言う台詞ではないと思いますが、言いたいので言わせてもらいます。彼女を幸せにしてあげてください」
そうして頭を一つ下げると、一美の返事を待つことなく貢は店を出て行った。
独り残された一美は、眉間にしわを寄せて彼が座っていた椅子を睨み付け続ける。そこには誰もいないというのに、何かの影が残っているかのようだった。
この胸の中に渦巻いているものは、いったい何なのだろうか。
嫉妬……?
いいや、まさか。
彼の何に対してそんなものを抱くというのだろう。
有り得ない。
そう否定した頭の片隅で、小さな声が囁いた。
――だが、彼は、自分の持たない何かを持っている、と。
その何か故に、一美が散々迷った末に辿り着いた場所に、一足飛びに立つことができているのだ。
「クソッ」
小さく毒づいて、一美はコーヒーを口に運ぶ。それはすっかり冷めていて、熱くなった彼の頭の中を、ほんの少しだけ冷やしてくれた。




