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一美はスマートフォンの通話を切り、ソファの上に投げ出した。
不満足ではあるが予想通りの結果に、大きく息をつく。
電話の相手は萌の実家ともいえる『クスノキの家』の理事長、関根優子で、電話の内容は萌が幼い頃に里子に出されていた夫婦の名前を教えて欲しいというものであったのだが。
「まあ、仕方がないか」
実際のところ、一美も教えてもらえるとは思っていなかった。自分だって、患者の情報をおいそれと漏らしたりはしないのだから。ただ、萌に対して思い入れが深い優子であれば、もしかしたら、何か教えてくれるかもしれないとほんの少し期待しただけだ。
残念ながら優子は公私の区別ははっきりとつける人で、里親の情報は一切教えられないと、一美はきっぱりと断られた。
萌の人生の最初の四年間。
彼女の土台が作られた時期であろう四歳までを共に過ごした里親とは、どんな人物だったのか。彼女は、その頃をどんなふうに過ごしていたのか。
試しに、萌自身に当時のことが記憶にあるのか訊いてみたことがあったが、苦笑して「覚えてないですよ」と返された。そう答える前に、わずかな間があったように感じられたのは、一美が深読みし過ぎただけだったのか。
ソファに身を預けてしばし考えた後、一美はもう一度電話を取る。
情報を仕入れるのに、もう一つ伝手があることはあった。ただし、表の道とはいかないだろうが。
スマートフォンのアドレス帳を繰り、目当ての名前を探し出してかける。
三コールめで応答があった。
「何の用だ?」
第一声がそれで、いかにも彼らしい。いくら出る前に名前が判っていても、普通、もう少し体裁を繕うものだろうに。
電話の相手は舘優人とという名で、一美の中学時代からの悪友だ。
現在は情報セキュリティ会社を経営しているが、高校時代に学校のシステムに入り込んで友人の成績を書き換えてやったという逸話もある男だった。
今よりもはるかにセキュリティが緩かったとはいえ、普通は考えても実行しようとは思わないだろう。
能力値は確かに優れているが、人間的にどうかと問われると名前負けしているのは明らかだった。
一美は一応、挨拶から入る。
「久し振り」
「ああ。で?」
合理的であることを一番の信条としている優人は、短く応じて先を促してくる。素っ気ないことこの上ないが、その方が『頼みごと』もし易いというものだ。
彼に倣って、一美も単刀直入に切り出す。
「お前のところ、調査部門があっただろう? ちょっと調べて欲しいことがある」
「へえ?」
優人の声が、少し変わった。どうやら興味を示したようだ。
「俺の知り合いで、産まれてすぐに里子に出された子がいるんだが、その里親のことを知りたいんだ。それともう一つ、佐々木めぐみという女性が、今どこにいるかも知りたい」
「何だ、二つか。図々しいな。しかし、里親って、そういうのは、その里子自身が訊いたら普通に教えてくれるだろう?」
「ちょっと理由があってな、彼女には知らせずに調べたい」
一美の答えに、少し間が空く。
やがて再び聞こえてきた優人の声には、どこか愉快そうな響きが含まれていた。
「へえ、女か。どういう関係だ?」
「付き合ってる」
「付き合っている? お前が、『付き合っている』と認識して付き合っているのか? 相手が勝手にそう思っているだけじゃなくて?」
「そうだ」
「……もしかして、お前、その女に惚れてるわけ?」
「ああ」
即答した一美に、また沈黙。続いて聞こえてきたのは、忍び笑いだ。無遠慮なそれに、一美はムッとする。
「何だ?」
「だって、お前が『惚れてる』だって? あの、お前が?」
「そこは、もうどうでもいいだろう? やるのか、やらないのか、さっさと返事をくれ」
それでもしばらくはまだ押し殺した笑い声が響いていたが、むっつりと黙り込んだ一美の気配が伝わったのか、ようやく優人は言葉らしい言葉を返した。
「そんなに怒るな。いいさ、やってやろう」
クックッと笑いの混じる声だったが、それでも承諾は承諾だ。一美はホッと息をつく。
「すまない、恩に着る。礼はどうしたらいい?」
「まあ、そうだな。取り敢えず保留にしておこう。で、その『彼女』が里子に出ていたのは何年前だ?」
問われて、一美は萌の年を思い出す。七月の上旬に誕生日があったから、今は二十二歳になっている。
「二十二年前だ」
「何歳から何歳の間?」
「生後六ヶ月から四歳の誕生日までだ」
「生後六ヶ月……? てことは、今、二十二?」
「ああ」
また、受話器からの声が途絶えた。だが、今度は、彼の考えていることが一美にも手に取るように判る。
確かに萌と一美は一回り年が離れているが、これに関しては反撃の手段があった。
年の差は一美たちの方が大きいが、萌は成人女性だ。後ろ指を差されるいわれはない。
それに引き替え、優人の方は――
「お前のところの兄貴は、ハタチの時に十四の子どもに言い寄られていただろう? しかも、兄貴の方もまんざらじゃなかった」
ムスッとした声でそう言った一美に、ややして優人が答えた。
「……まあ、確かに。身内に人のことを言えないのがいたな。そこを突っ込むのはやめておこう。ああ、そうだ。もう一人の『佐々木めぐみ』というのは?」
「彼女の母親だ」
「名前しか知らないのか?」
「分娩時はどうも未成年だったらしい。下手をすると十五、六歳だ。陣痛の真っ盛りに言ったことだから、多分ごまかす余裕は無かったと思うが……。それに、飛び込み出産だから正確なところは言えないが、二ヶ月ほど早産だったようだ」
あまりに乏しい情報だ。もしかしたら本名ではないかもしれないし、本名だとしても、すでに結婚して変わってしまっているかもしれない。探し出すことができたら、かなりの幸運だ。
「一応、やってみよう。里親の方はわかると思うが、彼女の母親だという方は期待しないで待っていてくれ」
「頼む」
一美は短い言葉でそう答えた。その彼の耳に、最後にまた、ククッとこもった笑い声が届く。
「しかし……お前が、な」
それを最後に通話はプツリと切れた。
一美は手の中の電話を見つめ、そして眉間に皺を寄せた。
――いくら何でも、笑い過ぎではないのか?
彼は首を一つ振ると、気を取り直して頭の中を切り替える。
こうやって、萌に黙って動いていることが彼女に知れたら、きっと怒るだろう。
だが、一美は、彼女の里親や実母のことを知りたいと思う。幼い頃の彼女がどんなふうに扱われていたのかを知りたいのだ。
優子の話を聞く限り、萌が里親と接点を持つ必要は一切ないだろう。そうすることに、何のメリットもない。恐らく、むしろ害になる。
対して、実母の方はどうだろうか。
彼女が萌を捨てた時、いったい何を思ったのだろう。そして、今はどう思っているのだろう。
母親に捨てられるということは、子どもにとって耐え難いことに違いない。
一美はこれまで健人の他にも虐待された子どもを診たことがあったが、どの子も皆、母親を庇った。
あの気持ちは彼には理解できないことだが、そうなのだ。どんなに虐げられていても、母親を慕う。母親と子のつながりは、それほど強い。
母から捨てられたという事実は、子の心に欠落を残す。だが、その穴を塞げるほどの愛情をその後に注いでもらえれば、また、結果は違ってくるのだろう。
萌の場合、出生後間も無く引き取られているから、本来ならばある程度成長するまで『捨てられた』ことを知らなくて済んでいた筈だったのだ。
しかし、結局、中途半端な時期に里親からも突き放されてしまった。そして、その後『クスノキの家』に引き取られ、優子達から充分な愛情を注がれても、萌の中の欠落は埋め切れなかった。
それは、その穴がよほど深かったということなのだろう。
だから、一美は萌の過去を知りたいと思う。
その穴の原因となった、過去を。
グッと、スマートフォンを握る一美の手に力が入る。
と、その時。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると、二十一時半を少し回ったくらいだ。
きっと、萌だろう。
日勤帰りに一美の家に寄り、そこから車で彼女の家に送るのが、ほぼ日常のことになっている。
たいていは一美も彼女の仕事上がりに合わせて帰るのだが、今日は優人へ電話をする用があったので、先に帰宅していた。
今晩のように別々に帰宅した時、彼女は必ずチャイムを鳴らす。
いつでも好きなように入れるように、一美は合鍵を渡そうとしたのだが、萌は受け取らない。そうやって、彼女は常に二人の間の距離を一美にそこはかとなく示すのだ。
一美はため息をつきつつ玄関に向かう。
扉を開けてやると、彼を見上げて萌がパッと笑顔になった。
その笑みに、一美の胸が詰まる。何度目にしても、いつも同じ想いがこみ上げた。
泣いている彼女でも、笑っている彼女でも、どんな彼女でも、この手で幸せにしてやりたいと、心の底から思う。彼女が安心して「ただいま」と言える場所に、自分がなりたいと思うのだ。
「遅くなりました。待たせちゃいましたね。何か軽く作ります」
笑いながら一美の横をすり抜けてキッチンに向かおうとする萌の腕を捕らえ、引き寄せる。
背中から抱き締めると、華奢な彼女は全てが彼の腕の中に入りきってしまう。
そのことがまた、一美を胸苦しくさせた。
「先生?」
怪訝そうな声で呼びながら、萌は肩越しに彼を振り返る。そんな彼女の髪に頬を埋め、三つ四つ数えるほどの間、そのままでいた。
「どうかしましたか?」
彼女の柔らかさと温もりが自分の中にあることを実感し、そして、腕を開く。
「何でもない」
「そうですか? なんか変ですよ?」
彼に向き直って少し唇を尖らせた萌に、一美は小さく笑う。身を屈めて、その口の端にかすめるようなキスを落とした。それだけで、彼女はすぐに赤くなる。
「美味いものを作ってくれよ?」
クシャリと髪を一撫でして、離れた。
「もう……」
そんなふうにぼやいて、エプロンを身に着けながらキッチンに向かう彼女の背中を見送る。
こうやって逢っている時、彼女の方からプロポーズのことについて口にすることはない。まるで、そんなことはなかったかのように、振る舞う。
彼女に『約束』を与えてやりさえすれば、安心するに違いないと思っていた――『結婚』がその『約束』の証になると。
しかし、実際はその逆で、安心するどころか、むしろ彼から逃げようとしつつあるようにも見えるのだ。捕まえていようとして抱き締めてみても、何かの拍子にするりと零れ落ちてしまいそうな危うさを覚える。
萌をこの手に留めておくには、力任せでは解決しない。
一美は思う。
萌の中のその穴は、今、どれほどの深さを残しているのだろうか、と。
どれほど想いを注いだら、それを満たすことができるのだろう、と。
いや、あるいは。
結局のところ、萌の穴をふさぐのは、彼女自身にしかできないことなのかもしれない。
一美に必要なのは、そんな萌を傍で見つめ、支え、彼女が自分の力で乗り越えていくのを待つ、そんな強さなのかもしれなかった。




