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新人看護師参入から三ヶ月が経ち、病棟内も随分と落ち着きを取り戻していた。勤務交代の申し送りも、小声で一本調子だった自信がなさそうなものから、はきはきとした受け答えになっている。
「やあ、萌ちゃん、今日も可愛いね! リコさん、そんな目してたら美人が三割減だぜ? 勿体ない。師長も今日も麗しい!」
申し送りを終えてばらばらと動き始めた看護師たちの中に、朝の挨拶代わりに女性陣を褒めそやしながら入ってきたのは、整形外科医の有田朗である。それは朝のカンファレンスと同じくらい定例行事で、そんな彼に女性陣の冷ややかな眼差しが注がれるのもいつもの事だ。
どちらかというと一美と同系統の人間であり、年も彼の方が一つ上なだけ、医者としては同期だ。診療科は違えども、時間がある時に連れだって遊びに繰り出すのは彼であることが多かった。
やや硬派な容貌の一美と、いかにも軟派な朗の二人で歩いていると、獲物も釣れ易い。これまで付き合った女たちの殆どは、彼と一緒に引っ掛けたものだった。
「さあ、回診始めるよ? 今日は誰が付いてくれんの?」
「あ、わたしです」
「萌ちゃんか、そりゃ嬉しいね! じゃ、行こうか」
その言葉と共に、朗はするりと彼女の肩に腕を回す。すかさず、一美は彼の後ろ頭をひっぱたいた。
「いてッ! オレのこの優秀な脳細胞が、今ので数万個壊れたぜ?」
「やかましい。そうやって触んのはセクハラってんだよ。訴えられるぞ」
「萌ちゃんがそんなことするわけないじゃん、なあ?」
自分よりも頭一つは余裕で高い男二人に間近で立たれてやや怯みがちだった萌は、唐突に水を向けられて目を丸くする。
「え? ……えぇっと、そうですね、訴えません」
「だろ?」
「でも、触られるのはイヤです」
「え、そうなの?」
意外にきっぱりとした萌の返答に、朗がパッと腕を放す。
「何だよ、その心外そうな顔は。当たり前だろ? このタラシ」
「おや? その言葉は君にも当て嵌るんじゃないかなぁ?」
藪をつついて蛇を出しちゃうよ? という顔をしている朗を無視して萌に向き直ると、一美は彼を指差しながら懇々と説く。
「いいか? こいつの事は警戒しておけ。それこそ、TPOを考えずに手を出すからな」
「それは言い過ぎ。オレだって多少は考えてるって」
「嘘つけ。場所も相手も構わず、だろ」
「ひどいなぁ。しょうがないじゃん、女の子は誰もその子なりの良さがあるっていうか、目の前に女の子がいて口説かないのは、登山家が山を前にして登らないのと同じ、みたいな……」
何故か妙に照れ照れとした素振りで、朗が言う。
この男は、本能的に女が好きだ。放っておけばどこまでも『女性の素晴らしさ』を語り続けるだろう。
どうやってその口を閉じさせようかと一美が考え始めた時、不意に響いた萌の声が、ピタリと朗の舌を止めた。
「でも、有田先生はいいお医者様ですよね。患者さんと接するところとかを見ていると、とってもいい先生だなぁって、思います。すっごく丁寧で、本当に患者さんの痛みに対して真剣に向き合っているていうのが、伝わってくるんです」
萌は真っ直ぐに朗を見つめながら力説する。
それは、この上なくシンプルな賞賛の言葉だった。
彼女のその目に浮かぶものは、戦隊ヒーローを見つめる子どもたちに認められるものとも共通するかもしれない。
と、突然、朗がふらりとよろめいた。
「有田先生?」
「……オレは君の眼差しに耐えられない」
「え?」
「その、『いい人ですよね!』ビームは、オレには眩しすぎるんだよ……」
言いながら、ふらふらと近くの机に両手を突いた。
「え、えっと……有田、先生?」
朗の急変に対応しきれずおろおろとする萌の背中を、一美はポンポンと叩いてやる。
「あのバカは放っておいていいから、回診の用意をして来いよ」
「でも、具合が悪いんじゃないですか?」
「大丈夫、ただバカなだけだから。ほら、用意して来いって」
押しやるようにして送り出した萌は、それでもまだ朗の様子を気にしつつ、処置用カートの方へと歩いていく。
その背中を見送りながら、朗が一美の隣に戻ってきた。
「ホンット、あの子って、あれでハタチだっけ?」
「らしいな」
「まったく、オレの毒素が浄化されちゃうよ」
「またすぐに湧いてくるだろ?」
「そりゃそうだけどね、でも、ダメージでかいわ。今日は一日聖人になれそう。女の子にちょっかい出そうとしても、脳裏によみがえる『先生はいい人!』に煩悩がやられちゃうね、きっと」
確かに、その威力は少し前に一美自身も味わったものだ。
下手に制止をかけられるよりも全肯定される方が堪えるとは、今まで知らなかった。子どもの前で下手なことができないのとも、似ているかもしれない。
わずかな間物思いにふけっていた一美は、自分に注がれている朗の視線に気付いて眉間に皺を寄せた。
「なんだよ?」
「いやぁ、なんていうかさぁ、お前ってこんなに面倒見が良かったっけ?」
「はあ?」
怪訝な眼差しを向けた一美に、朗はニヤリと笑った。
「今まで、オレが誰のどこを触ろうが誰に何を言おうが、全然構わなかったじゃん。なぁんで、こんな急に世話焼きさんになったのかなぁ?」
「別に世話なんぞ焼いてないだろうよ」
「へぇ?」
確かに、萌を何となく放っておけないように思っていることは、一美も否定できない。だが、それは、言うなれば今にも転びそうな歩き方をしている子どもに手を出さずにはいられないのと同じようなものだ。
別に、他意はない。
ニヤニヤ笑いを残したまま、それでも、朗はそれ以上の追及は止める。そうして、その代わりに、とばかりにお誘いを持ち出してきた。
「それじゃぁ、久し振りに行くか? しばらくここじゃ女の子に手を出せなそうだし、オレ、欲求不満になっちゃうよ。お前も前の彼女と別れてからご無沙汰だろ?」
朗に言われて、そういえばかれこれ二ヶ月は女なしで過ごしているな、と一美は思い当たった。
そんな事態は中学校を卒業して以来かもしれない。
どことなく試すような朗の眼差しが気に食わないが、ちょっと気晴らしするのもいいだろう。
「そうだな……うちの科は落ち着いてくる時季だし……」
「よっしゃ、じゃ、どれがいい? 女子大生? OL? CAもイケちゃうよ?」
「任せるわ――ほら、準備ができたみたいだぜ?」
そう言って、一美は顎をしゃくる。その先では、萌が処置用カートを押してこちらに来ようとしているところだった。
「あ、ホントだ。仕事早いね。それじゃ、手配しとくからはっきり決まったらまた教えるわ」
そう残して、朗は萌と合流する。彼女はペコリと一美に頭を下げると、朗の後に続いてカートを押して歩き出した。
実際のところ、彼女の手際の良さには一美も感心している。
何年も看護師をやっている者でも、他の病棟から異動後はスムーズに動けるようになるのに数か月かかることもある。だが、萌はまっさらから始めたにも拘らず、この病棟に来てひと月後には粗方の業務はこなせるようになっていた。
多分、普段から家の手伝いなどをよくしていたのだろう。看護師の能力以前に、身体を動かす癖がついているのだ。
そんな感想を抱いて、一美はふと彼女が里見高校出身だということを思い出した。
あの高校は特殊で、中学卒業と同時に看護師を目指すことになる。
通常の高校生活プラスαがあるわけだから、必然的に、楽しいだけの高校生活というわけにはいかなくなる筈だ。レポートなども多いし、実習もある。寮や奨学金を目当てにする者も多く、そもそも中学卒業時点で将来を決めてしまうのだから、あの高校を選ぶ者は、『訳あり』なことも多いらしい。
おおよその二十歳前の女の子は、高校、大学と遊び倒すだろう。特に大学などは一番気楽なモラトリアム期間と言ってもいい。
仮に大学で専門性の高い学部に進んだとしても、里見高校よりは緩いかもしれない。現に、一美もそれなりにレベルの高い医学部に通っていたが、正直言って、勉強よりも遊びに費やした時間の方が多かった。
仕事に関する彼女の有能さと、対人面における純真さ――あるいは未成熟さは、どこかちぐはぐだ。
一美は、萌の屈託のない明るさを脳裏に浮かべる。
そこに、翳は微塵も見当たらない。
だが。
――あの笑顔の裏には、何かが隠されているのだろうか?
ふと、一美はそんなことを思った。
*
「よぅし、ほら、もうすぐ終わるからな……あと三秒、二、一、はい終わり」
一美は『終わり』の言葉と共にスッと針を抜く。
「頑張ったな、流石だ。強いな」
彼がそう声をかけると、今の今までジッと注射の恐怖に耐えていた五歳の少年は、ポロポロと涙をこぼし始めた。針を刺した時には泣かなくても、こうやって、処置が終わると同時に泣き出すことは結構ある。
しゃくりあげた少年の頭を、介助に付いていた萌がすかさず撫でた。
「しんちゃん、すごいねぇ、全然動かなかったよ。めっちゃ頑張った! ジッとしててくれたから、わたしも助かっちゃった。ほら、お母さんとこに行こうか。いっぱい褒めてもらわなくちゃ」
朗らかな声で褒めそやす萌に、少年は釣られたようにへにゃりと笑う。
彼の笑顔に応えるように満面の笑みを浮かべた萌は、小さな手を引いて、処置室を出て病室へと戻っていく。道中も少年の泣き声が響いてくることはなく、何かを話しかけている萌の声が続いていた。
彼女の子どもあしらいは、確かに巧い。
きっと、弟妹が多いのだろう。
小児科の看護師の中でも、子どもが大泣きするのに任せる者と、うまくあやして宥めてくれる者がいる。大泣きで終わらせた子は再検査の時に激しく抵抗することが多く、萌のようにうまくやり過ごしてくれる看護師が介助に付いてくれると、とても助かるのだ。
一美が水道で手を洗っていると、萌が戻ってくる。
「お疲れさん」
隣に並んで手洗いを始めた萌に手をすすぎながらそう声をかけると、彼女はフフ、と小さく笑みを漏らした。
「何だ?」
「いいえ、あの、先生って、『先生』をしてる時とそうじゃない時とで、全然違うなって思って」
「そりゃ、当たり前だろう」
「そうかもしれませんが、なんか、いいなって思って。優しそうで、頼れそうで、ああ、お医者さんだぁって、思います」
本気で心からそう思っている様子の萌に、一美は答える言葉を持たない。
常日頃から、容姿や医者というステータスに対する賛辞なら数限りなく聞いており、そういったものなら、あっさりと受け流すことができる。だが、医者としての姿を褒められたことは今までなく、彼は何と反応すべきか判らなかった。
謙遜か、否定か、受容か。
一美が答えを選んでいるうちに、更に萌の声が続いた。
「有田先生も、普段はちょっと……な人なのに、お仕事している時はとってもかっこいいです」
付け足された彼女の台詞に、何故か一美の胸の中がモヤッとする。
彼が口を開こうとしたところで、突然萌の後ろから何かが被さった。
中野リコだ。
「ちょっと? 仕事中の男は五割増しで良く見えるんだから、騙されたらダメよ? こんなのに引っかかるくらいなら、私が都合つけてあげるから。だいたい、医者なんてダメだって! あんたみたいな子の結婚相手には向かないから。もっと、のんびりマイホームパパをやってくれるような男の方がいいのよ。あ、ほら、斉藤さん! 彼なんてばっちりじゃないの?」
リコは立て板に水のようにまくし立てると、最後に聞き捨てならないことを残す。
「斉藤?」
一美は、今唐突に湧き出した名前を呟く。
医者の中にはその名字の者がいたが、全く病棟が違うので、萌と接点があるとは思えない。
検査技師か何かだろうかと一美は心当たりを探るが、さっぱり見当もつかなかった。
目を細めて見下ろした彼女は、一美の視線を受けて少し困ったように眉根を寄せると、答えた――リコの方に。
「斉藤さんは患者さんです。お世話しているから、親しげに見えるだけですよ」
「ええ? あれは絶対あんたに気があるって! 二十五歳、独身、真面目なサラリーマン。名前だって『貢』だなんて、ばっちりじゃん。名は体を表すって言うでしょ」
二人の話を横で聞きながら、どうやら、萌が担当している整形外科の患者らしいと一美は察する。
煽るリコに対して、萌はいたって冷静そのものだ。
「学校で、『患者さんのお世話をしていると、恋愛感情に似たものを持たれることがある』と言われました。きっと、それです。退院したら、わたしのことなんてあっという間に忘れちゃいますよ」
澄ました顔で言う萌に、リコが深々とため息をつく。
「夢がないなぁ。こんな職場、出会いがないんだから、チャンスがあったら跳び付きなさいよ」
「あはは。病院で出会ったこと自体、ご縁がなかったってことですよ」
「もう……あ、ナースコールだ。行かなくちゃ」
リコの胸ポケットでPHSが振動し始める。彼女は液晶を見て部屋番号を確かめると、一美を睨め上げた。
「いいですか? いたいけな女の子を惑わしたらダメですからね?」
リコは最後に念押しをすると、早足で去って行った。そう言われても、彼としては、惑わしたつもりは更々ないのだが。
憮然とした一美の隣で、手を洗い終えた萌がペーパータオルに手を伸ばす。
「それじゃ、わたしも失礼します」
会釈して行こうとする彼女を、一美は呼び止めた。
「あ、ちょい、待て」
「?」
振り返った萌は、首をかしげて一美を見上げてくる。
だから、そんなふうに真っ直ぐに男を見つめるもんじゃないんだよ、という思考が先に頭の中をよぎっていったが、それは無視して一美は言った。
「男に対して、優しいとか、頼りがいがあるとか、カッコいいとか、あんまり言うな」
「え?」
「そんなことを言われると、野郎は勘違いするもんなんだよ。特に、朗には絶対言うな。調子に乗るから」
普通なら、二十歳といういい年をした『大人』に余計なお世話だと、ムッとされるだろう。
だが、一美の強い口調に、萌は目を丸くし、そして、不意に、フワリと笑顔になった。
「何で笑ってるんだよ?」
「だって、その……そんなふうに注意されたの、初めてだから」
「……忠告、だ」
「ふふ。ご忠告、ありがとうございます」
そう言っておどけたようにペコリと頭を下げる。
「君、さぁ……」
「はい?」
特にかける言葉を決めないままに萌へ声をかけてしまった一美は、見上げてくる彼女の眼差しに、何故か口ごもってしまう。とにかく何かを言わなければと、一美はパッと頭に思い浮かんだ台詞をそのまま口に出した。
「何か困ったことがあったら言えよ? 朗のやつにまとわり付かれて困るとか」
一美自身にも、自分が何を言っているのかよく判らなかった。あまりにも、唐突過ぎる。
当然、萌も目を丸くしてその台詞を受け取っていたが、やがて顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ? 自分のことは自分でできますって」
そう言ってコロコロと屈託なく笑うと、もう一度頭を下げて、今度こそ自分の仕事に戻っていく。
その背中を見送りながら、一美は己の行動に憮然とした。朗が言ったように、こんなふうに世話を焼くのは、柄じゃない。
本当に、らしくないのだ。
それは判っているにも拘らず、気付けば手を出してしまっている自分がいることに、他ならぬ一美自身が一番戸惑いを覚えていた。