14
十八時に仕事を終えて、車を走らせること約二時間。
今、一美は萌がいるという養護施設『クスノキの家』の前に立っていた。
遅い時間になるのは判っていたから、今日訪問する旨は事前に連絡を入れてある。ただし、結局萌の携帯電話はつながらないままだった為、話をしたのはこの施設の理事長である関根優子という人物とだけだ。
武藤師長の親友でもあるというこの女性は、一美の言葉を聞くと「お待ちしています」とだけ答え、電話を切ってしまった。一美が行くことを彼女が萌に伝えてくれたかどうかは、不明だ。
一美が会いに行くことを聞かされたとしたら、その時、萌はいったいどんな反応を示したのだろう。
喜んだのだろうか。
それとも、彼が着く前に逃げようと思ったのだろうか。
逆に、知らされていないとしたら、突然に訪れた一美を見て、どんな顔をするだろう。
一美には、自分が彼女を傷付けたという自覚がある――それはもう、イヤというほどに。
ほんの一欠けらの気持ちも入っていなかったとはいえ、萌を拒絶する言葉をぶつけてしまったのだ。
(さっさと帰れと言われるかもしれないな)
だが、何を言われようがどんなことになろうが、彼に引くつもりはない。
説得にどれだけ時間がかかろうとも、萌を連れて帰るのだ。
一美は覚悟を決めて『クスノキの家』の事務所の玄関をくぐる。入ってすぐのカウンターには、この時間にも拘らず女性が一人座っていた。
彼女は一美を見るとニッコリと微笑む。
「すみません、岩崎一美と申しますが……こちらの関根さんとお会いする約束をしている者です」
「ああ、お話は伺っておりますので、理事長室へご案内します。どうぞ」
そう言って歩き出した彼女の後を、一美は追う。
事務所の中はひっそりとして暗く、人気もなかった。おそらく、彼の為に開けていてくれたのだろう。
「こちらですよ」
女性は立ち止まると、一枚の扉を手で示す。
「ありがとう」
会釈をした一美に、彼女は訳知り顔で微笑んだ。
「頑張ってね」
何を、と問う間を一美に与えず、彼女は来た廊下をさっさと戻って行ってしまった。
いったい、どんな人物が待ち構えているというのか――武藤師長の親友だというくらいだから、かなりの曲者なのかもしれない。
一美は手を上げて、扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
まるで校長室に入る中学生のようだと思いながらも、一美はドアを開けた。
「いらっしゃい」
迎えたのは、柔和な声だ。ソファから立ち上がった女性は、ふっくらとして、いかにも優しいお母さん然としている。
予想とは違った彼女の雰囲気に、一美は拍子抜けするのを禁じ得なかった。
「どうかなさいまして? こちらへお座りくださいな」
外見通りの優しそうな声で、彼女は自分の向かいのソファを示した。一美は足を進めると、会釈を一つしてそこに腰を下ろす。
「私はここの理事長をしております、関根優子と申します」
「岩崎一美です。小宮山さんとは同じ職場で働いています」
「存じておりますわ。美恵さんから、お噂も色々と」
予想通りに武藤師長の名前が出てきて、一美は内心で苦虫を噛み潰す。いったい、どんな『噂』をされたことやら。
口調や物腰はソフトだが、彼に注がれる優子の目付きから、推して知るべし、だ。
一美は小さく咳払いをして、言う。
「職場の同僚、ということもありますが、個人的なお付き合いもさせていただいています」
その台詞に、優子の目がきらりと光った。
「現在形、ですの?」
「はい?」
「今も、お付き合いを続けていらっしゃるおつもりですか?」
「私は、そのつもりです」
きっぱりと、一美は断言する。だが、それで「はい、そうですか、では連れてきます」とは当然ならず、優子は穏やかな――だがそこの知れない微笑みを浮かべて小さく首をかしげた。
「そうですか。それなら、何故、あの子は突然ここに帰ってきたりしたのでしょう? あの子はこの『クスノキの家』を卒業した身。少し顔を見せに来たというだけならわかります。でも、他の子ならともかく、あの子が自分からしばらく居させて欲しいというなんて、余程のことがあったとしか思えません。そんな時に離れてしまうだなんて、本当にお付き合いなさってらっしゃると声を大にすることができまして?」
口調は穏やかだ。だが、一美には「どの面下げてそんなことを言っているのか」と糾弾されているように思われてならない。
「それに関しては、少し齟齬が――いえ、私が言葉を誤りました。おそらく、彼女がこちらに帰ってきた原因も、それです」
突き刺さる優子の視線を、一美は真っ向から受け止める。
「私は、小宮山さん――萌を、傷付けました。そして、彼女は去って行った。でも、私は終わりにしたくないんです。もう一度、挽回するチャンスが欲しい」
「あなたはご自分にそれを与えられるだけの価値があると思われますの?」
「判りません。ただ、その価値があるかどうかは、萌に決めて欲しい」
それを最後に、一美は口を閉ざす。
静寂の中、優子と一美の眼差しが絡み合った。どちらも、ほんの僅かばかりも逸らすことなく、瞬きをすることもない。
自分自身の言うべきことは言い終えた一美は、優子が口を開くのをジッと待つ。
乾いた目がひりついてきた頃、ふと優子が目蓋を下ろし、小さくため息をついた。
そうして、彼女は背筋を伸ばし、再び一美の目を見据えると、語り出す。
「あの子は、萌は、本当にいい子なんです。とても」
それは、言われるまでもなく、一美も良く知っている。
そんな気もちが顔に出ていたのか、優子は宥めるように苦笑した。そして、でも、と続ける。
「でも、深く付き合うには、難しい子だと思います」
「何故?」
一美は、今から優子が話そうとしていることは、彼がいつも萌に対して抱いていた微かな違和感の答えになるであろうことを察する。無意識に、膝の上に置いた両手を握り締めた。
「お付き合いなさっていたなら、気付かれたでしょう? あの子には、『我』がなさ過ぎるんです。自分の為に何かを要求することがなくて、常に相手のことしか考えない」
「だが、それは長所の筈では?」
「ええ、そうですね。でも、いかがでした? あなたはそれで満足できましたか?」
そう問われて、一美は返事に詰まる。彼が言葉を見つけるより先に、優子が小さく首を振った。
「私は、できません。もっと我がままを言って欲しいし、弱音だって吐いて欲しい。何も要求されないなら、私のことを必要とされていない気がしてくる」
そう言って、彼女は、一美に「どう?」という目を向ける。
確かにそれは、彼も何度も感じてきたことだった。優子は彼の目の中に同意を見つけたらしく、小さく頷いた。
「人はね、大事に思っている相手ほど、その人から必要とされたいと思うものじゃないかしら。そうして、満足感を得る。大事な人から何かをしてもらったら、それはそれで嬉しいけれども、充足感は、何かをしてあげて、それで相手が喜んでくれた時の方が大きいのじゃないかしら?」
優子は、苦笑する。寂しそうに。
「あの子は、それをくれないの。何かをしてあげたら、『嬉しい』『ありがとう』と言うわ。でも、いつも変わらない笑顔でいるから、それがどれくらい嬉しいのかが判らない。もしかしたら、私を喜ばせる為にそう言っているのではないかと、勘繰ってしまうのよね」
一美には、優子の言葉にいくつも思い当たる節があった。
萌が何を望んでいるのかが解からないままに日々を重ね、そして、彼女が心に秘めていたものをポロリとこぼした時に、その肝心な時に、しくじった。
強く奥歯を噛み締めた一美の耳に、悲しげな声。
顔を上げると、温かく、そしてその声通りの色を含んだ眼差しが彼に注がれていた。
「あの子はね、生まれてすぐに、母親に逃げられてしまったの。出産したその日に、母親が病院から逃げてしまって。母親は未成年で、駆け込み出産だったそうよ。そんなだから、身元で判るのは母親の名前だけで、これも本名かどうかは判らないのだけど。慌ただしく分娩になって、落ち着いた後に話を聞こうとしたら、もう姿が消えていたらしいわ。その後あの子は乳児院に入れられて、生後六か月で里親の元に行ったのだけど」
優子がふと視線を落とす。
「子どもができない身体と言われたから、将来的には養子にしたいと言っていた夫婦だったのよ。でも、萌が二歳になった頃に実子が生まれてね。まあ、色々あって四歳の時にここに来たの。もう、とても聞き分けのいい『良い子』だったわ」
優子が発した『良い子』という言葉には、複雑な響きが含まされていた。
哀しみ、苛立ち、そんな響きが。
一美は口を挟むことなく、彼女が語るに任せる。何となく、求めていたものに指先が触れそうな気がしてきていた。
「私は、あの子が自分の事で泣いたり、怒ったり、駄々をこねたり、そんな『困った』ことをするところを見たことがないの。いつも聞き分けが良くて、ニコニコしてて。……岩崎先生は、週末里親って、知ってらっしゃる?」
「時々、数日だけ里親のところに行って過ごすやつですよね? 盆やら正月やら、そういう時に」
「そう。ここから里親のところに行く時とか、逆に里親のところからここに帰ってくる時とか、泣いたりする子は結構いるのよ。でも、萌はそれもなかったわ。里親のもとで過ごした時間がどんなに楽しくても、時間になれば、すっぱりと別れられるの。だから、里親も、あの子のことを可愛いと思いながらも、強い愛着は作れない。ここの子どもたちともそうね。本当に、目の中に入れても痛くない、というほどに可愛がっている子でも、親元に帰ったり、里親が決まってここを出て行ったりする時に、晴れやかな笑顔で見送るのよ」
その時一美は、ふと健人のことを思い出した。確かに、あの時も萌は笑って送り出していた。彼はそのことに微かな不満、あるいは不安を覚えた筈だ。
「あの子は強いでしょう? ちゃんと与えられた愛情を受け取ってくれたから。でも、一番の芯のところは弱いのよ。無条件に愛してくれる筈の人に、見放されてしまったから。あれは、土台がない強さなの。あの子の心の底には、いつも不安があるんだわ。愛してくれてありがとう、嬉しいよ、と言いつつ、いつその愛情を失ってもいいように、身構えている。それは永久に続くものではないと、最初から諦めてしまってる。わたしのことを放さないでと、しがみついてはこないの」
優子の口から吐き出される小さなため息と、悲嘆。
「あの子は、最初から全部諦めているような気がするわ。自分の手の中に残るものは何もないんだって。だから、欲しがらないの」
目を光らせて、優子は一美に問うてくる。
「あなたは、萌にご自分を欲しがらせることができて? 手放したくないと、しがみつかせることができる? ……私には、できなかったわ。あの子にとって、私は『みんなの』お母さんだったから」
一美は、彼女のその台詞に、即座に頷きを返したかった。
だが、自信が、ない。
萌が彼を求めてくれたら、自分はその手を放しはしないだろう。それは彼自身の気持ちだから、確約できる。
しかし、萌がどう考えるかは、強制できるものではない。
萌が求めるものは、何なのだろうか。
庇護者?
愛情?
温かな家庭?
一美は自問して、否定した。
いや、違う。おそらく彼女が一番欲しいものは、『失われないもの』なのではないかと、思った。愛情も、家庭も、それがあってこそ、なのだろう。
一美は、真っ直ぐに優子の目を捉えて、答える。
自分にできる、精一杯の事を。
「萌が私をどう思うかは、判りません。しかし、私は彼女を求めます。しつこくね。彼女の中の『欲しい』という気持ちが空っぽでも、私が倍注いでやったらいい。そうしたら、両方に満ちるじゃないですか」
そうして、ニヤリと笑って立ち上がる。
「萌はどこですか? 連れて帰りますので」
その問いに、優子は一つ二つ、瞬きをした。呆気に取られたその目の中に、次いで、笑みが広がっていく。
「庭にいますよ。玄関を出て右手の方です。この時間は、外で星を見ている筈」
それは、一美が萌を連れて行くことに対する承諾に等しかった。彼は優子に深く頭を下げる。
「ありがとうございます。また、後日挨拶には伺います」
踵を返して理事長室を、そして事務所を出る。満月が照らす屋外は、灯りらしい灯りがなくても、充分に周囲の様子を見て取ることができた。
速足で萌を探しながら、一美は過去を振り返る。
これまでの男女関係とは、まさに真逆だった。
すがる女たちに、すげなくする一美。
その時の彼は、彼女たちの事をうっとうしいと思ったものだ。
ならば、萌にその気持ちを味あわせてやろう。
諦めから逃げられるよりも、うっとうしがって逃げられる方が、遥かにマシというものだ。せめて、同じ土俵の上に立たせたい。
拓けた場所に出てグルリと視線を巡らせると、一人でベンチに腰かけた萌の姿が飛び込んでくる。夜空に向けられたその目には、今、いったい何が映っているのか。
一美は速度を緩めて、慎重に足を進める。
萌の顔立ちがはっきりと見て取れるほどの距離まで近付いた頃、ふと彼女が首を巡らせた。佇む一美を認めた瞬間その目が大きく見開かれ、さながらウサギが飛び跳ねるようにピョンと立ち上がる。
一瞬、ほんの一瞬、白く浮かぶ萌の顔に喜びの色が浮かんだのは、けっして一美の見間違いではないだろう。
その時、一美は思った。
彼女のことを逃がしはしない、と。
「萌、帰るぞ」
ゆっくりと距離を縮めつつ、そう宣言した。
*
人の、気配。
ぼんやりと、何を見るでもなく夜空に視線を投げていた萌は《もえ》は、微かな空気の揺れを感じて、施設の誰かが来たのかと、そちらに目を向ける。
そして。
(え、なんで?)
頭に浮かんだのは、ただそれだけだった。
逃げようとか、そんなふうに思ったわけではないのに、そこにいるのが誰なのか判った瞬間、とっさに立ち上がっていた。
夢でも、幻でもない。
だって、聞き間違えようのないはっきりした声で、彼女の名前を呼んだから。
「萌、帰るぞ」
彼の、一美の声で呼ばれた自分の名前に、クラリとする。
久し振りに耳にして、こんなにもそれを聴きたいと望んでいた自分がいることに、気付かされた。
そのことが何だか情けなくて、涙が出そうになる。
萌が自分の気持ちを持て余しているその間も、一美はジッと彼女を見つめながら着実に近づいてきていて、気付けば、その大きな身体はすぐ目の前まで来ていた。
「岩崎先生……」
なんで、ここに。
そう続けようとしたけれど、その言葉は彼の唇の中に吸い込まれてしまう。
避けようとする隙など、ほんの一秒も与えられなかった。
(だめ……)
理性が早く離れろと叫んでも、優しく、深く、何度も口づけられて、あっという間に萌の頭は何も考えられなくなった。
体中の力が抜けて自分の脚では立てなくなった彼女を、ようやく唇を離してくれた一美がその力強い腕で抱き締める。つま先が浮くほどに持ち上げられ、頭の奥が痺れるような低い声で耳元に囁かれた。
「俺が悪かった。謝るから戻ってきてくれ」
唸るような、謝罪の言葉。
けれど、彼が何故そんな事を言うのか、萌には理解できない。
「先生は、何も謝るようなこと、してないじゃないですか」
切れ切れの息でようやくそれだけ言うと、いっそう強く抱きすくめられた。
一美のその腕には、萌の呼吸が止まってしまいそうなほどの力がこもっている。
硬い胸に押し付けられてとても苦しいのに、萌の心は、響いてくる彼の鼓動に安らぎを覚えてしまう。
「先生は、何も悪いことなんてしてません」
辛うじてそう言うと、こめかみに温かなキスを感じた。
「いいや、した。君を悲しませた」
「悲しんでなんていません」
「じゃあ、傷付けた」
声が、近い。
鼓膜をくすぐられているようで、萌は身をよじる。
そんなふうに囁かれていたら、彼の言うこと全部に頷いてしまいそうだった。
「傷付いてもいません。わたしは全然、なんとも思ってませんから。だから、放してください」
毅然とした態度で言いたいのに、懇願するような口調になってしまう。けれども、そんな萌のお願いに、一美の腕には更に力が込められた。
放してたまるかと言わんばかりに。
「いいや。俺は君の信頼を裏切って、傷付けて、悲しませた。君自身が俺を信じていると思っていなかったから、傷付けられたことに気付いていないだけだ」
「わたし……先生のこと、ちゃんと信頼してました……してますよ?」
ちゃんと、自覚だってしていた。
でも、裏切られただなんて、これっぽっちも思っていない。
一美の言うことは、萌にはさっぱり当て嵌まっていない。
もごもごと、頬を彼の胸に押し付けられてくぐもった声で答えた彼女に、彼は更に畳み掛ける。
「いいや、そんな表層の信頼じゃない。もっと、君の深いところにあった信頼だ。絶対に、損なってはいけない信頼の筈だったのに、あの時、俺はしくじった」
「あの時……」
パッと『その言葉』が脳裏によみがえって、萌の胸がツキリと痛む。
彼の言う『あの時』はあのことなのだろう。
別に、もういいのに。
萌は口の中でそう呟く。
むしろ、早く忘れたいから、放っておいて欲しいのだ。さもないと、胸の痛みがいつまでも消えてくれないから。
距離を取りたくてもがくけれど、萌が逃れようとすればするほど、一美の拘束は巧みになっていく。
「あの言葉は、多分、君を試してしまったんだ。君の口から、別れたくない、一緒にいたいという言葉を聞きたいと、無意識に望んでいたんだ。俺のわがままだったんだ。おれ自身がそのことを解かっていなかったから、余計に事態をこじらせた。俺が、悪かった」
一美が何に対して謝っているのか、何故謝っているのか、萌にはさっぱり解からない。
「あの、先生? 本当に、先生は悪くないんです。わたしの方が、おかしいんです」
困惑しきってそう言うと、一美は萌を捉えていた腕を解いた。代わりに、その両手のひらで彼女の頬を包み込む。そうして、煌々と照らす月明かりのもと、萌の目を覗き込んできた。
「君は全然おかしくない。別れようという言葉は取り消す。いや、最初から、本当に別れたいと思って言ったわけじゃなかった。家族は要らないという言葉も取り消す。俺は君とずっと一緒にいたい。それが家族になるということなら、君と家庭を作りたい」
萌はポカンと彼を見つめた。
一美は、いったい何を言っているのだろう。
彼が日本語を話しているとは思えなかった。まるで、違う国の言葉を話しているように感じられる。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているであろう萌の唇に、一美は小さく笑ってキスを一つ落とした。そして、また、彼女の目を見つめる。
「俺と結婚してくれ。ずっと、自分に家庭など作れないと思っていた。妻も、子どもも必要ないと。だが、俺の人生に君は必要だ。『俺の子ども』は要らないが、『俺と君の子ども』は欲しい」
いつの間にか萌の両の目から溢れ出していた涙を、一美の親指が優しく拭う。その触れ方に、また雫が零れ落ちた。
「俺は無神経だから、またいつか同じように君を傷付けるかもしれない。けどな、そんな時には怒ってくれたらいいんだ。笑ってごまかさなくていい。ちゃんと怒って泣いて、俺に君が何を考えているのかを解からせてくれ。どんな君でも、俺は疎んじたりしないから。……君の気持ちが理解できない方が、俺にはつらい」
そう言うと一美は萌の頬に添えていた両手を離して、また彼女の背中に腕を回した。
――今度はフワリと柔らかく、包み込むように。
萌は手を上げかけて、一度止める。
彼の言葉に頷いて、いいのだろうか……この手で彼にすがり付いても?
迷った末に決められなくて、彼の服の裾を握り締めた。
そして、頬を彼の胸に押し当てる。そこから響いてくる鼓動の心地良さは、忘れようとしてもできやしない。
萌も一美も、ただ黙って互いのカタチを感じ取っていた。
静かな時間が流れ、ふと、思い出したように一美が声を上げる。
「なあ?」
萌は首を反らして彼を見た。
「君が仕事を辞めたいというなら止めないが、向こうには帰ってくれよ? 何なら、俺のマンションに来てもいいんだから」
「え?」
「仕事、どうするか保留中なんだろう?」
「はい?」
彼が何を言っているのかさっぱり解からず、萌は、思い切り、キョトンとしてしまう。
「……違うのか?」
「違います。夏休み中です。師長さんが、健人君のことがあったし、少し早めに夏休みをくれたんです元々、日曜日には帰る予定でした」
「夏休み……」
一美は、何だか呆然としているように見える。そして……怒っている?
「先生?」
そっと呼びかけると、彼はため息と共に首を振った。
「いや、何でもない。忘れてくれ。君が帰ってくるなら、それでいい」
そう言うと、彼は首を傾けて顔を近づけてくる。
萌は顔を上げたまま、それに応えた。
二度、三度と、優しく――優しく、ついばむように。
触れ合う唇の心地良さに、萌の頬にはまた一粒の涙が零れ落ちていった。




