13
子どもたちの歓声が、庭中に響き渡る。
彼らは弾む鞠のようで、そこそこの広さがある敷地中を、縦横無尽に駆け回っていた。下は三歳、上は六歳で、全部で十二人いる。
萌はベンチに座って、一時もジッとしていない弟妹たちをグルリと見渡した。彼らを眺めているだけで、自然と笑みが漏れてしまう。
久し振りの光景だけれども、数時間のうちに、まるでずっとここにいたかのように溶け込むことができた。
病院からここまでは電車で二時間もあれば着けるのに、仕事をしていると、どうしても足が遠くなってしまう。
萌が帰ってきたのは一年ぶりで、その一年の間に、何人かの子どもたちが旅立って、同じくらいの子どもたちがまた加わっていた。
彼女がここにいた頃も、子どもたちはせいぜい二年、長くても三年で通り過ぎていった。クルクルクルクル、入れ替わる。
いったい、何人、何十人、何百人、見送ったことだろう。
懐いた子たちに去られてしまうのは寂しいけれど、萌はそれを悲しいと思ったことはなかった。だって、みんな、幸せになる為に出て行くのだから。
ここで得られた大切なものは胸の奥にしまいこんで、新しい生活に進んでくれればいいのだ。
愛おしくて大事な子どもたち。
萌の、かけがえのない『家族』――たとえ、一緒に過ごすのは短い間でしかないとしても。
子どもたちの様子をぼんやりと眺めていた萌に、不意に声がかけられる。
「萌? どう、変わってないでしょう?」
「おかあさん」
振り返った先にいたのは、『母』の優子だ。もうじき六十歳になる彼女は、ふくよかな頬に名前の通りの笑みを浮かべている。
「はい、そうですね。半分くらいは初めて会う子ですけど、みんな元気いっぱいで」
「そうなのよ。今はちょっとやんちゃな子が多いかしら。もう、皆毎日へとへとよ」
「ふふ。そうみたいですね。でも、可愛い子ばっかです」
「そうでしょう?」
萌と優子は顔を見合わせて微笑み合う。
昨晩突然帰ってきた萌を、優子はごくごく自然に迎え入れた。理由も訊かず、目を見張ることもせず、まるで、学校から帰ってきた子どもを出迎えるかのように。
優子は萌の隣に腰を下ろす。
しばらく、二人は並んで子どもたちを眺めていた。言葉はないけれど、互いにどんな想いでいるかは判る。
穏やかで心地良いその時間に、萌の心はやんわりと凪いでいた。
と、不意に、ポツリと優子が言葉をこぼす。
「一度でもここに来た子は、みんな私たちの大事な『わが子』なのよ」
それは独り言のようで、萌はただ聴くだけにとどめる。優子もまた萌の言葉を待つことなく、前を向いたまま、続けた。
「あなたもね、私の子、私の娘なんだからね」
そう言うと、優子は手を伸ばして萌の頭をスルリと撫でる。
その仕草は、萌が小さなころから何度も繰り返されてきたものだ。
彼女が寂しい時も、嬉しい時も、悲しい時も、楽しい時も。
いつも、優子はその温かな手で触れてくれた。そうされると、萌の心の中はいつも満たされた。
萌はその温もりに、懐かしさを覚える。
けれど、その感触から与えられる何かは、昔とはどこかが違っていた。
優子の温かさは、かつてのようには萌を満たしてくれない。
いつの間にか、萌が望む温もりは、彼女を満たしてくれる温もりは、別の誰かから与えられるものになってしまっていたのだ。
――そう、今、萌が求めているのは、一番触れて欲しいと、触れたいと願っている人は、ここにはいない。
(もう、失くしてしまった)
萌は胸の中で呟く。
(先生は、もうわたしのことはいらないの)
一美は、もう彼女のことを求めていない。
(それは、わたしのせい)
誰に何を言われたわけでもないけれど、明確な事実として、自分には何かが欠けているのだということを、萌は知っていた。
小宮山萌という人間を欲してもらえないのは――たとえ一度は欲しいと思ってもらえても、結局最後には突き放されてしまうのは、多分、そのせいなのだ。
萌はキュッと唇を噛み締める。
そうしないと、熱くなった目の奥から、何かがこぼれ出してしまいそうだった。
優子は、じっと前を見つめたままの萌の頭をポンポンと、優しく叩く。
そして、立ち上がった。
「さ、ご飯の支度の時間だわ。あなたはこの子たちを見張っておいてね。油断をすると、とんでもないことしでかしてくれるから」
いたずらめかしてそう言い残すと、優子は屋内へと入っていく。その背を見送る萌の中には、じわりと彼女の言葉が染み込んでいく。
優子に『娘』と言ってもらえるのは、とても嬉しい。
けれど、彼女は萌一人のものではないことも、よく判っている。
優子は『みんなの』おかあさんだから、自分のことで気を煩わせるわけにはいかない。
(少し休んだら、また、出て行かないと)
元々、ここにいられるのは十八歳までなのだから、本当は、戻ってきてはいけない。卒業したからには、あとは自分の問題は自分で解決しなければ。
そう、自分独りで。
優子は優しいからいつでも帰っておいでと言ってくれるけれども、その言葉に甘えていてはいけない。
ここのみんなは自分の大事な家族で、萌の支えだ。でも、それは心の中に持っておくだけのもの。心の中に置いておいて、時々手に取ってその温もりを懐かしむ為のものだった。
いつまでもすがっていていいものではないことを、ちゃんと頭の中に刻んでおかなければ。
そんな萌の物思いを唐突に破ったのは、屈託のない弾む声だった。
「萌ちゃん! だっこぉ!」
子どもなりに空気を読んでいたのか、優子が去るのを待っていたかのように、中でも一際幼い男の子が駆け寄ってくる。殆ど体当たりのようにして抱き付いてきたその子を、萌は立ち上がって受け止めた。
「あ、ずるい! あたしも!」
「ぼくもぉ!」
一人が飛びついてくると、我も我もと集まってきて、あっという間に萌はまるで子どもの生る木のようになる。三人まではこらえたけれど、四人目でペシャリと座り込んだ。
初夏の気温はそれだけでも暑いのに、体温の高い子どもたちに何重にも抱き付かれ、萌も子どもたちも汗だくになった。
芝生の上に寝転んで、みんなして、キャーッと笑い声を上げる。
とても、幸せだった。
涙が出そうになるほどに。
(これで充分、でしょう?)
そう思うのに、思うべきなのに、萌はいつも何かが足りない気がする。
身に余るほどの幸せを手に入れているというのに、これ以上、何を望めるというのだろう。
満面の笑みの下で、萌はそんなことを考えていた。
*
本日三度目に病棟へ顔を出し、やはり求める姿が見当たらなくて、一美は首をかしげた。
ようやく、道子の忠告に従おうと心に決めて、朝からずっと萌を探していたのだ――今晩、話し合おう、と伝える為に。
ここ二日ほど携帯電話の電源は切られているし、メールを送っても丸一日返事がない。おそらく、一度も電源を入れていないのだろう。
仕方がないので勤務中に捕まえようと思ったのだが、病棟内でも一向に見かけない。
勤務表を見ると今日は日勤が入っていることになっているはずだ。
何か急用で出勤してきていないのか、あるいは他の病棟のヘルプに行っているのか。自分の病棟が暇だと、他の病棟に手伝いに行ったり、その需要もなければ休みになったりと、看護師の勤務は、時々そんなことがある。
一美は武藤師長に歩み寄る。
「ちょっと、いいかな」
「何ですか?」
何やら書類をチェックしていた武藤師長は、彼の呼びかけに顔を上げる。
「ああ、その、今日は小宮山さんは?」
「小宮山、ですか? ……どんな御用で?」
殆ど睨み付けているかのような眼差しを向けてくる武藤師長に、彼女はいったいどこまで事情を知っているのだろうかと一美は考えを巡らせてみたが、そのポーカーフェイスからはさっぱり読み取ることができない。
「ちょっと、私用だ。一言伝えるだけでいいんだ」
「一言、ねぇ」
ジトリと見てくる武藤に、一美は居心地が悪くなる。
「やっぱり、いい。出てきた時に話すから」
本当は一刻も早く話をしたかったが、止むを得ない。今晩、自宅にでも寄ってみよう。
そう頭を切り替えて立ち去ろうとした一美を、武藤師長の台詞が引き止めた。
「彼女は実家に帰りましたよ」
「実家……? 帰った……?」
ピタリと立ち止まり、振り返る。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、言葉の通りです」
「夏季休暇か? いったい、いつまで? いつ帰って来るんだ?」
「さあ……」
「さあって、そんな適当な。帰ってくるんだろう?」
「どうでしょうねぇ」
武藤師長はのらりくらりと一美をかわしていく。
萌がそんなふうに前触れもなく仕事を辞めるとは思えない。こんな、何の考えもなく突然に辞めるとは。
また戻ってくるに違いないと思っていても、一美の胸はざわついた。
もしも――もしも、彼女が仕事を辞めたとしたら、今、それを通じて辛うじてつながっている糸すら、プツリと切れてしまうのだ。
萌と、何の関係もなくなってしまう。
新しいつながりを懸命に模索している時だというのに、そんなことはとうてい許せなかった。
やはり、何としても彼女と直接話をしなければならない。
そう決意を新たにした一美に、武藤師長が冷ややかな声を投げかけてくる。
「ねぇ、先生。結局、先生はあの子をどうしたいんです?」
「え?」
「あの子はあたしの部下で、それに加えて、親友から預かった大事な子でもあるんですよ。物珍しさで手を出すなら、もう止めてくださいな」
「そんなつもりはない」
きっぱりと即答した一美を、武藤師長は鼻で笑い飛ばす。
「気付いておられないなら、自分の行動もわかっていない若造だって事ですね」
「どういう意味だ」
流石にムッとして、一美は眉根を寄せる。だが、鋭い彼の眼差しにも、師長はまったく怯む気配はなかった。
同じように険しい目を、彼に向けてくる。
「あの子は、見た目ほど簡単な子じゃありません。あの子に必要なのは、いちゃつくだけの男じゃなくて、あの子を包んで支えてやれるような存在なんですよ」
その台詞に、一美は苛立った。
言われなくても、嫌というほど思い知っている。彼もそれが解かり始めたからこそ、自分がその存在になりたいと思ったのだ。
一美と武藤師長は、言葉もなく視線を戦わせる。どちらも一歩も引かない構えだった。
瞬き一つせずに、一美の中を探ろうとしてくる武藤に受けて立つ。
やがて、先にその目から力を抜いたのは、武藤師長の方だった。小さく息をついて一枚の紙片に何かを書き付け、差し出してくる。
一美が受け取ると、そこには『クスノキの家』と書かれており、他に住所と電話番号もあった。名称からしてどこかの施設だが、健人が送られたところだろうか。だが、そうだとしても、彼女が今これを持ちだしてくる理由が判らない。
「何だ?」
「あの子の『実家』」
言われて、もう一度、手の中の紙切れに目を落とす。そして、再び武藤師長に目をやった。
「これ……」
「そういうことです。これ以上のことは、あたしの口からは言えません」
「わかった」
一美はその紙を丁寧に折りたたむと財布の中にしまう。そこに書かれていたことは彼の意表を突きはしたが、だからと言って、何が変わるわけでもない。
「ありがとう」
短く、そう礼を言うと、彼女は片手をひらりと振ってよこした。そして、話はおしまいとばかりにまた書類に向き直る。
必要最低限の情報は仕入れることができた一美も、踵を返して歩き出した。
一刻でも早く、萌がいる生活に戻りたい。
だが、ただ傍に置くだけではダメなのだ。それでは前と同じになる。
今度は、萌が何を望んでいるのかをきっちり訊いていこう。「解からない」と言い続けるのではなく。
今だって、萌のことについては解からないことだらけだ。表面的なことも、内面的なことも。
二人の『先』がどうなっているかも判らないけれど、取り敢えずは、彼女を知ることから始めようと、思った。




