12
日曜日の昼下がり。
ソファの背もたれに肘を乗せて、一美は掃除にいそしむ道子の背中を眺めていた。
彼にとってのいわゆる『母親像』は道子だ。
食事を作り、洗濯をし、掃除をし、学校であった話を聴く。
世の母親がするであろうことを、一美が赤ん坊の頃から、道子が担ってきた。だから、母親とはこういうもの、というイメージをある程度は想起することができる。
では、父親はどうだろう。
こちらは、思い浮かべようとしても、出てこない。
一般的には、父親とは一家を養う存在とされている筈だ。
外で働き、金を稼ぐ。
だが、一美の家族構成において母親の立場にある一香は、家事育児は一つもしないが父親と同じくらいの稼ぎ手で、その伝で言ったら母親も『父親』になる。その上、父親の美彦の方が年下の為か、あるいは婿養子だった為か、色々な場面でイニシアチブを取るのも一香の方だった。
なら、稼ぐ以外には、父親とは何をする?
キャッチボールか? 子どもを遊園地にでも連れて行く?
――一美は、美彦のそんな姿を見たことがない。
そもそも、両親の姿を家で見ることが殆どなかったのだが、一美が覚えている父親というものは、書斎で本を読むかパソコンに向かうかしている、背中だけだ。
理想の夫、理想の父親とは、どんなものなのか。
萌が望む『家庭』とはどのようなものなのか、さっぱり想像もつかない。
一美は小さく溜息をつく。
と。
「そんなに見つめられたら、穴が開きますよ」
不意に、道子がそんな声を上げた。
彼女は一美に背を向けたままだというのに、色々なことにすぐ気付く。それは一美が小さい頃からそうで、彼女の背中には目が付いているに違いないと思ったものだ。
「さっきから何なんですか、いったい」
掃除機のスウィッチを切って振り返った道子が、そう訊いてくる。一美は少々ごまかすように咳払いをして、ソファから立ち上がって彼女に向き直った。
「ああ、その……」
何とか適切な言葉を探し出そうとして口ごもった。
道子は急かそうとせずに、彼が次の言葉を発するのを待っている。
一美の世話をしていた頃から、道子はいつもそうだった。子どもの頃、言いたいことが多すぎて空回りしてしまう彼を、辛抱強く待ってくれたものだった。
道子は家政婦をしているから、色々な家庭に接していて、『一般的な家庭』にも造詣が深いに違いない。
もっとも、この日本で家政婦を頼むという時点で標準からはやや外れてしまうのかもしれないが、そこのところは目をつぶろう。
一美は突拍子もない質問にならないように、言葉を選ぶ。
「あなたから見て、うちの家族はどうだと思う?」
「どう?」
「こう、『普通』とは違っていたでしょう?」
「さあ……『普通』がどういうものか、判りませんからねぇ」
道子は首をかしげてそう呟く。
その様子からは、本当にそう考えているのか、それともお茶を濁しているのかは判断できない。
一美は言葉を重ねる。
「他の家では、父親ってのは何をしているものなのかを、知りたいんだ。ごく普通の、父親ってものを」
「そんなことを知って、どうするんです?」
道子は、目を細めて一美を見つめてきた。彼の真意を探ろうとしているかのように。
まさか、それを目指して努力する、などとは、一美には口が裂けても言えやしない。
むっつりと押し黙ったままの彼に、道子は肩をすくめた。
「決まりきったものなんてないですよ。どんな形が幸せなのかだなんて、多分、誰にも判りません」
「だが……」
一美は萌に完璧なものを用意してやりたかった――彼女が望むものを、完璧な形で。
そうしなければ、迎えにいけない。
眉間に皺を寄せた彼に、道子は聞き分けのない子どもを見る目を向けて続ける。
「形が幸せを作るわけじゃないですよ。どんな形でも、それが幸せかどうかを決めるのは、その人たち自身ですから」
「それが、どんな家庭でも?」
「そうですね。少なくとも、私はそう思いますよ。要は、自分が幸せで、相手も幸せにできたらそれでいいんです」
『幸せ』。
シンプルな言葉だ。そして、抽象的で曖昧な。
美味いものを食べさせたらいいとか、服やアクセサリを買ってやったらいいとか、そんなふうに明確なことだったら、どんなに簡単だったろう。
だがしかし、残念ながら、萌にはそれが通用しない。解かりやすいもので解かりやすく喜んではくれないのだ。
考え込んだ一美に、道子が短い忠言を添える。
「一美さん。とにかく、話をなさい」
「え?」
「あのお嬢さんなんでしょう? まだ、仲直りしてらっしゃらなかったんですね? 言葉を交わさなかったら、理解し合うなんて不可能ですよ。喧嘩をしてもいいんです。黙ってしまうのが、一番いけません。とにかく、お話しなさい。とことんまで話して、それでもうまくいかなかったら、ご縁がなかったということです」
「……タイミングが掴めなかったんだ」
「そんなの待っていたら、どんどん気まずくなりますよ。即断即決、善は急げ、です」
道子はたいしたことではないように、さらりと言ってくれる。
「そんな簡単なことじゃない」
「簡単ですよ。一美さんが自分で難しくしているだけです」
仏頂面でそう答えた一美を、道子は一刀両断した。どこか呆れたような眼差しを、彼女は一美に注ぐ。喃語を口にするようになる前から面倒をみられていた道子が相手では、甚だ分が悪かった。
「恋愛なんて、当たって砕けろ、ですよ」
いともあっさりとそう言ってのけてくれた道子に、一美は内心でぼやく。
本当に砕けてしまったら、どうしてくれるのだ、と。
すでに一度失敗した身としては、無謀な行動には出られない。もう、一度彼女を傷付けたのだ。
二度目を自分に赦すことはできなかった。
絶対に。
*
「萌!」
昼休憩、屋上でぼんやりと外を眺めていた萌は、突然名前を呼ばれて振り返った。
入り口の前に立っているのは、リコと――何故か、朗だ。
「ちょっと、お昼ご飯も食べずに何やってるの?」
そう言いながら近付いてきたリコを、昨日の貢のことがあったから、萌はジトリと睨み付ける。けれどリコは、ケロリとした様子で笑い返してきた。
「昨日はどうだった? 楽しかった?」
「騙しましたね?」
「あはは、ごめんごめん。正直に言ったら、絶対ウンと言わないと思ったから」
「当たり前です」
「そんなに怒らないでよ。で、どうだった? 付き合うことになった?」
目を輝かせて訊いてくるリコに、萌はため息を禁じ得ない。
自分はいいとして、貢にはいい迷惑だったに違いないというのに。
だまし討ちであんなことをしておいて、全然悪びれた気配がないのが、信じられない。
「有り得ませんから」
「え、何で? あんた、岩崎先生と別れたんでしょう?」
不意打ち、だった。
薄々、勘付かれているだろうとは思っていたけれど、こんなふうにズバリと指摘されるとは思っていなかった。咄嗟に言葉を返すことができずに黙り込んだままの萌に、リコが続ける。
「そんなの、雰囲気で判っちゃうわよ。いくら普通にしててもね。元々、あんたと岩崎先生は合ってなかったのよ。無理があったの。……うまくいくのかも、と思った時もあったけど、やっぱりだったわね。こうなったら、早いところ、もっとぴったりくる人を見つけなきゃ。斉藤さんがダメなら、また合コンする?」
ヤル気満々なリコに、萌は首を振った。
「いいです、当分は。少し、気持ちを整理しようと思って」
「もう、まだ若いのに! 花の命は短いのよ?」
リコはグルリと目を回して呆れたような声を上げる。
きっと、「早く相手を見つけ」させたいのではなくて、「早く一美を忘れ」させたいのだろう。萌が落ち込んでいるのが判るから、早く彼のことを忘れさせたいのだ。
大げさな言い方だったけれども、彼女が自分のことを思って言ってくれているのが伝わってきて、萌は小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないの!」
リコは更に憤慨した声を上げる。
萌はといえば、彼女の剣幕に笑ってごまかすしかない。彼女の気持ちは嬉しいのだけれども、まだ気持ちを切り替えられないし……切り替えたくないと思っている自分が心の片隅にいる。
「ああ、もう! この世に男なんて星の数ほどいるってのに!」
「まあ、人類の半分は男性ですものね」
「そうじゃなくって!」
噛み合っていない女子二人のやり取りに割って入ったのは、朗だ。
「ちょっとゴメンよ」
彼のその声に、リコが今思い出した、と言わんばかりの声を上げる。
「あ、そうそう。有田先生が萌に話があるって……」
「そうなんだ。探してたんだよ」
彼は病棟で会えば必ず声をかけてくるけれど、わざわざ探してとなると、今までなかったことだ。今は整形外科の患者も担当していないし、いったいどんな用なのかと、萌は首をかしげて彼を見上げた。
「何でしょう?」
朗はいつものように人懐こい笑顔を返してくる。
「あのさ、実家に帰るって聞いたんだけど、それホント?」
「え、あ、はい……明日」
「ふうん」
朗は鼻で頷くと、しばし考え込むように口を閉ざした。そして、また、話し出す。
「一美とは、本当に、もう終わりにするつもり?」
萌は、薄く笑う。
「先生は、わたしなんかにはもったいない人です」
「そう? 結構、お似合いだったけどなぁ。……あいつってさ、とっかえひっかえ女の子と遊んでても、付き合ってはいなかったんだよね」
「え?」
キョトンとした萌に、朗はニッコリと笑う。
「多分、ちゃんと『お付き合い』したのは、萌ちゃんが初めてなんじゃないかな」
「でも、それならあの数々の武勇伝は何なんですか?」
眉をひそめたリコに、朗が肩をすくめた。
「だから、あれはあくまでも『遊んで』いただけだったんだよね、今思えば。あいつのはああいうやり方なのかな、と思ってたけど、そうじゃなかった。だって、彼女たちと萌ちゃんとじゃぁ、接し方が全然違うし」
「なんか、それってサイテイですよ」
「だよねぇ。あ、オレはちゃんと真剣に付き合ってるからね、どの子とも」
「有田先生もたいして変わりませんよ、それ」
リコの非難に満ちた眼差しを、朗はニッコリと笑ってかわす。そして、また萌に向き直った。
「あいつって、女の子といても、一度も『先』を考えたことがなかったんじゃないかな」
「『先』?」
「そ、『先』、『将来』、そんなもの。だから、いつでも別れられたんだ。最初っから、その場限りのつもりでいたから」
「それは……きっと、わたしでも同じです」
「そうかなぁ」
朗はそう呟くと、屋上の柵に歩み寄り、そこに寄りかかって遠くを眺めやる。しばらくは、そのままだった。
やがて彼の口から出た声は普段の軽い響きを取り去ったもので、萌は何となく背筋を伸ばしてしまう。
「あいつは、ビビってるんじゃないかなと思うんだ」
「ビビる……?」
その言葉は、一美にもっとも似つかわしくないもののように、萌には思えた。
萌の知っている彼は、いつでも落ち着いていて、自信に満ちていて、揺らぎがない。どっしりとしているところが、何よりも安心できたのだ。
納得がいかない萌をよそに、朗は続ける。
「あいつのウチって、私立の病院なんだよ。岩崎循環器病院って知ってるかい?」
「それって、まさか、あの……?」
この辺りの出身ではない萌にはわからず、朗の問いに答えたのは、リコだった。彼女は目を丸くしている。
「そう、あの。母親は心臓外科医、父親は循環器内科医。どちらも日本で十本の指に入る権威だね」
「そんなにすごい人なんですか?」
萌は呆気に取られてしまう。
振り返ってみれば、一美の口から両親についてのことが出たことは一度もなかった。もっとも、それは萌も同じだったけれど。
彼が家族に触れることがないのをいいことに、彼女も何も言わなかった――尋ねることも、話すことも、しなかったのだ。
萌の問いに、朗が振り返ってニヤリとする。
「もう、バリバリ。日本全国はおろか、世界を飛び回っているよ。自宅で過ごすのなんか、一年のうちで数日しかないんじゃないの? 今もまだ現役で、時々テレビにも出てるよ」
桁違いの家族構成に、萌は言葉もない。まるで雲の上の人だ。
ポカンとしている彼女を置いて、朗が続けた。
「そんなだから、あいつは、『普通の幸せ家族』ってヤツが思い浮かばないんじゃないかと思うんだ。だから、誰かと深く関わることを拒む。然るべき家族のあり方ってやつが判らないから、自分に家庭は作れない、そう思ってるんじゃないかな」
朗は柵に寄りかかって天を仰ぐ。
「でもさぁ、一美って結構父親向きじゃない? 萌ちゃんと一緒にいるあいつを見てたら、つくづくそう思ったよ」
頭を戻し、彼は真っ直ぐに萌を見つめて言う――説くように。
「あいつには、大事にする為の誰かが必要なんだと思うよ。でも、どうやって大事にしたらいいか判らないから、尻尾を巻いて逃げ出すんだ。『理想的な家庭』ってヤツがどんなものか判らないから、はなから作ろうとしない」
そうして、バカみたいだろ? と肩をすくめて寄越す。萌は朗から目を逸らし、顔を伏せた。
それをバカだと言うなら、萌も同じようなものだ。もっとも、彼女は一美の逆だけれども。
「わたしだって、『理想の家庭』なんて、知らないもの……」
知らないからこそ憧れる、というものもあるではないか。
口の中で消えた微かな呟きは、リコと朗には殆ど届かなかったようで、二人からは問いかけるような眼差しが向けられる。
萌はそれに小さく頭を振って返しただけだった。
二人の視線から逃れるように、萌は空を見上げる。そこには雲一つなく、彼女の心も空っぽになっていくように感じられた。
今は、まだ、多くのことは考えられない。
――考えたく、なかった。




