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天使と狼  作者: トウリン
すれちがい

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23/46

9

 袖をクイと引かれ、もえはハッと我に返る。

 横に顔を向けると、健人けんとが彼女を見つめていた。その眼差しの中には彼女を案じる色が浮かんでいて、萌は自分がどんな顔をしていたのかに気付く。


「あ、ごめんね、書けた?」

 萌は言いながら笑顔を浮かべた。

 ちゃんと、笑顔になっている筈だ。


 二人の前には、いつもはお絵描きに使っているスケッチブックが広げられている。

 五歳の健人は普通なら幼稚園の年長さんに通っている年頃で、文字の読み書きなども教えられている筈なのだけれど、当然、それをされていない。

 イマドキの小学一年生は自分の名前くらいは書けるのが当たり前だと聞かされて、多少のとっかかりになれば、と萌が平仮名と数字だけでも教え始めたのだ。


 スケッチブックには几帳面な文字で『なにぬねの』と書かれている。少し前まではうまく書けなかった『ね』もちゃんと読める文字になっていた。

「上手に書けたね。じゃあ、次は『はひふへほ』だよ。ほら、こんな感じ」

 言いながら、萌はスケッチブックの上の方にお手本を書いてみせる。が、健人はそちらを見ずに、何か問いたげに彼女を見つめていた。


 物心付いて以来、母親の顔色を窺って生きてきたからなのか、健人はその年の割に人の表情を良く読み取る。何もないふりをしてみても、納得してくれないだろう。


 萌はちょっと困った顔で笑うと、彼に向けて首を振った。

「何でもないんだよ? ちょっとね、大事な人とケンカしちゃった。ケンカっていうか、絶交、かなぁ」

 彼女の言葉に、健人がムウッと眉間にしわを寄せた。

「違うよ、わたしがいけないんだよ、多分。……先生は、間違ってない……わたしが、変なの……」

 そう、自分の方にこそおかしなところがあるのだと、萌は思う。


 一昨日のことを思い返しても、何が一美かずよしを怒らせたのか、全然解からない。何があれほどまでに彼を怒らせて、あの言葉を口に出させたのか。

 あるいは、もしかしたら、もうもっと前から別れたいと思っていたのかもしれない。

 そんな考えがふと胸をよぎり、慌てて萌は否定する。そんな筈はない。一美だったら、萌のことが嫌になったら、ちゃんとすぐに言ってくれる。醒めた気持ちを隠して、あんなふうに彼女の事を扱ってはくれないだろう。

 だったら、やっぱり、『家族』という言葉の所為なのだろうか。自分でも、何故あそこであんな話の運びになってしまったのかは覚えていない。気付いたら、口にしてしまっていたから。


 ――『温かな家庭』。


 一美が冷たく投げ捨てるような声音で口にしたその言葉は、萌にとっては殆ど夢のようなものだった。


 一生の、夢。


 けれど、萌自身、ちぐはぐしたものを抱えている自分には気付いている。人に近付きたいと思っているのに、近付ききれない自分に。

 一美は鋭い人だから、萌の中のそんな矛盾に気付いていて、安易に『家族が欲しい』なんて言い出したことに怒ったのに違いない。

 心の底から打ち解けることができないのに『家族』だなんて、きっとずるい考えなのだ。

 だから、自分は一美を怒らせた。

 彼は、また、すぐに別の相手を見つけるだろう。自分が彼にとって別れ難いような人間だという幻想なんて、抱いていない。


 だから、もう、おしまい。


 気持ちを入れ替えるようにもう一度ニコリと笑い、萌はトントンとスケッチブックを指で叩く。

「ほら、この字。『ふ』が結構難しいんだよね。『は』と『ほ』は紛らわしいし」

 そうやって健人の注意を文字に向けさせようとしたけれど、彼はやっぱりジッと萌に視線を注いだままだ。そんなに顔に表れていたのだろうかと、反省する。

「本当に、大丈夫なの。今だけだから、気にしないで、ね? ほら、字を書こう?」

 再三促すと、ようやく健人の目がスケッチブックに向く。

 そうやって健人の目を逸らせて手持ち無沙汰になると、やっぱりどうしても頭の中は堂々巡りになる。


 丸一日が経って、病棟で一美と一緒になっても、業務のことについてしか話していない。彼が他に何か言いそうになったら、すぐに離れるようにしていた。


 一美に何か言われるのが、怖くてたまらない。

 仮に、それが仲直りの言葉だとしても。


 一美から放たれたあの一言は、もう二度と聞きたくない。あの一回で充分だ。二回も聞くことになったら、もう立ち直れなくなりそうな気がする。


 今まで、萌は、何かを強く欲しがることのないように、自分を戒めていた。手に入る喜びよりも、失う寂しさの方が、怖かったから。


 それなのに。


 一美の事を好きになって、幸運なことに彼に好きかもしれないと言ってもらえて、まるで宝物のように大事にしてもらって、その戒めを忘れかけてしまっていた。その身に余る幸せが続くことを分不相応にも望んだから、罰が当たったのだ。


 ――こんな、わたしなのに。


 萌は目の奥が熱くなるのをギュッと目を閉じて散らす。元々、自分には過ぎたものを手に入れて、それを失ったからといって泣くだなんて、バカだ。そう、自分自身をわらおうとしたけれど、できなかった。


 と、不意に、さわさわと前髪に何かが触れる。

 目蓋を開けると、すぐ目の前に小さな手のひらがあった。それは、まるで小さい子どもにするように萌の頭をヨシヨシと撫でている、健人の手だった。きっと、以前に、彼自身がそんなふうに撫でられたことがあるのだろう。誰かに――多分、母親に。


「ふふ、ありがとう。元気が出るよ。健人君の手は、魔法の手だね」

 そうして、彼女のものよりも小さなその手を両手で包む。

「健人君は優しいね。やっぱり、健人君のお母さんも優しい人なんだと思うよ。ちゃんと、人に優しくすることを教えてくれたんだもの。早く元気になって、元のお母さんに戻るといいね」

 萌の言葉に健人は少し俯いて、そして、微かに頷いた。

「強いね、健人君は。絶対に幸せになれるから、信じていてね。諦めないでね」

 そう言い含めて、萌は手を伸ばして健人の髪をクシャクシャとかき回す。彼はくすぐったそうに身をすくめて、口元を緩めた。

 笑顔の一歩手前のその表情に、萌も笑みを漏らす。

 健人に幸せになって欲しいと思う。健人の母親にも。とにかく、誰かに幸せになって欲しい。

 その為にできることがあるなら、自分の力の及ぶ限りのことをしたいと、萌は思った。


   *


 小児科医局にいるのは、一美かずよし祐里香ゆりかの二人きりだった。彼女はパソコンで学会発表の為のスライドを作っていて、キーボードを叩く音が静かに響いている。

 読んでいた学会雑誌を閉じると、一美は何気ない口調で切り出した。こんな女々しい真似はしたくないが、一晩考えてみてもさっぱり解答が見つからなかったのだから、仕方がない。


「ちょっと訊いてもいいか?」

「何ですか?」

 手を止めて、祐里香はクルリと椅子を回転させる。一美を見た彼女は、怪訝そうに眉をひそめていた。それも当然のことで、彼が祐里香に『質問』だなんて、恐らく初めてのことだろう。


 一美は言葉を選びつつ、問いを投げかけた。

「仮に……仮に、だな。別れ話を切り出して、それをすんなり『はい、そうですか』と受けたとしたら、その女性は何を考えていると思う?」


「小宮山さんと別れたんですか!?」

 ズバリと切り替えしてきた祐里香に、一美もまた即答する。

「別れてない」

「じゃ、誰の話です?」

「だから、『仮に』と言っただろう」

 小さく咳払いをしながらそう言った一美を、祐里香はどこか愉快そうに見やった。ろうといい、彼女といい、何故こうも『お見通し』感があるのだろう。一美は眉間に皺を寄せたが、祐里香はどこ吹く風で答える。


「まあ、それなら『仮に』でいいですけど? ええと、『仮に』、別れ話を切り出したらあっさり『うん』と言われてしまったら?」

 彼女はそこで口を閉じ、そして、ニッコリと笑った。

「そりゃ、気がないってことじゃないですか?」

 ザックリと切り伏せられ、一美は言葉に詰まる。憮然とした彼を充分に眺めた後、祐里香は思い付いたように付け足した。

「あ、そうそう。私の友達には、別れるのがイヤだから最初から男と付き合わないって子もいましたよ? すっごいネガティブですよね」


 『ネガティブ』


 もえにはこの上なく似つかわしくない単語だ。

 だが、一美は本当にそうだろうかと思い直す。彼女は一見明るく前向きで、この世にイヤなことなど何もない、と言わんばかりだ。にも拘らず、そこにはいつも微かな違和感が付いてまわった。

 その違和感の正体を知ることができれば、萌を理解することができるのだろうか。


 返事もせずに黙りこんだ一美に、祐里香はやれやれというように首を振りつつパソコンに向き直った。


 参考になったような、なっていないような答えをもらって、一美はむっつりと考え込む。

 頭を下げて謝れば、恐らく萌はすんなりと聞き入れるだろう。

 そして、元通り。

 それは本当に『元通り』であって、即ち、また同じことを繰り返すということだ。萌にまとわり付く違和感は消えず、彼女との間に感じる距離も消えない。


 萌を理解したいと思う。

 その奥にあるものを知って、すれ違うことなく彼女と向き合いたいと、一美は心の底から思う。

 それには、恐らく、彼自身も変わらなければならないのだろう。


 付き合っている相手のことを理解したいとか、自分を変えなければいけないとか。

 そんな考えを持つようになるとは、一美は夢にも思っていなかった。

 こんなふうに想う相手に出逢ったことが幸運なのか不運なのかは彼にも判らない。

 それでも、萌を手放そうとは思えないのだ。


 彼女を傍に置いておく為の方法はまだ手に入れていないままだったが、そう遠くならないうちに迎えに行くのは、彼の中での決定事項だった。


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