8
――またやった。
充分な睡眠をとってすっきりした頭で目覚めた時、萌の頭の中に真っ先に浮かんだのはそれだった。やっぱり、仮眠を取ってきたら良かったのだと後悔したが、先に立つものではない。
せっかく久し振りにプライベートで逢ったのだから、色々話そうと思っていたのに。
キスをされて、目を閉じて、横になって。
触れてくる一美の唇がいつになく優しかったから、その心地良さであっという間に眠りの底に引きずり込まれてしまった。
ある時点からふっつりと記憶が途切れていて、目が覚めたら彼のベッドの上で、自分がまたしでかしてしまったことを知る。
毎度毎度のことながら、何故、一美が相手だとこんなふうに眠り込んでしまうのか。
普段の萌は、割と眠りを必要としない。
十二時間勤務だと間で仮眠をとる看護師もいるけれど、萌はしない。人の気配があると、寝付きにくい性質なのだ。施設で、何かというと小さい子たちに起こされていたからかもしれない。
それなのに、一美が相手だとこの体たらく。
――彼の腕の中が心地良すぎるのが、悪い。
内心で一美の所為にして、萌は首を反らした。
一美の胸の中に抱え込まれていて、視線を上げただけでは彼の顔は見えない。けれども、緩やかな呼吸と鼓動で、まだぐっすりと眠っていることが判る。
どうしよう、彼が寝ている間に帰ってしまおうか。
そんなふうに考えて、萌は昨日の晩の一美の言葉を思い出した。確か、『知らない間に帰らないように』と、言っていた筈。
彼からしたら、たぶん、深い意味なんてない言葉。
けれど、萌はその言葉に身をよじりたくなるほどの幸せを覚えた。彼の傍にいてもいい、いて欲しい、と言われたような気がして。
『永遠』を求めることは間違っているけれど、一美と一緒にいると、どうしても「この時間がずっと続けばいい」と願ってしまう。
「ダメだな……」
子どもじみたその望みに、萌はため息をつく。
本当に、ずっと続いてくれればいいのに。
今日は休みだし、カーテンの隙間から忍び込んでくる光もまだ弱い。少なくとも、もうしばらくはこうしていてもいいかもしれない。
そう思って、萌はもそもそと一美の胸にすり寄った。
と。
クッという、忍び笑い。それと同時に、額に触れる硬い胸が小刻みに震えだす。
「先生?」
半信半疑で小声で呼ぶと、萌の身体に回されていた腕にギュッと力が込められた。
「もう! 起きてたんじゃないですか!」
抗議の声をあげながらジタバタしても、彼の腕は少しも緩まない。
「今、起きたところだ。君がくすぐるから」
「くすぐってなんかいません! 先生が起きてるんならもう起きますから、放してください」
そう言って体を起こそうとしても、一美は解放しようとしない。
「まだ五時を過ぎたばかりだぞ? 六時になったら道子さんが朝飯を作りに来てくれるから、それまでゆっくりしていたらいい。……何なら、昨日の続きでもするか?」
「続き?」
何か、していただろうか。
暴れるのをやめて萌がキョトンと尋ねると、一美は大きなため息をついた。
「随分早々に意識を飛ばしてたんだな。自信を無くすよ」
「え?」
「いや、何でもない。まあ、彼女が来る前にシャワーでも浴びたらいいさ。服、着たままだから、しわになってるだろう。洗濯したら、二時間くらいで仕上がる」
そう言うと、彼は腕を開いた。
その言葉を怪訝に思いながらも萌はベッドから下り、自分の姿を見降ろした。確かに、ズボンはまだしも、シャツはしわだらけで、かなりみっともないことになっている。
「すみません、お借りします」
答えて浴室へ向かい、シャツと下着を洗濯機に放り込んでスピードコースで運転を開始した。
そうしておいてシャワーを手早く浴びてしまう。
いつの間にか一美が置いておいてくれたらしいシャツを羽織り、髪を乾かそうと鏡に向かった。シャツはハイネックで一番上までボタンを留めてみたけれども、サイズが合わな過ぎて胸元はスカスカだ。
と、萌は、鏡の中の自分を見つめて、眉をひそめた。
せっかく留めたボタンを、一つ外してみる。
目に付いたのは、鎖骨の周りに散らばる、赤い痕。こすってみても消えず、虫刺されにしては、痒くもない。
(昨日のお昼にお風呂に入った時には、なかった、よ、ね……?)
意識していなかったから、はっきりとは覚えていない。
特に悪いものではなさそうだけれども。
取り敢えず髪を乾かして首をかしげつつ浴室を後にしてリビングに行くと、一美はコーヒーを淹れていた。
「上がったか。コーヒー飲むだろ?」
萌を認めた一美が、コーヒーサーバーを片手にそう訊いてくる。
「あ、はい。いただきます」
そう答えて、ふと彼女は一美に問い返した。
「先生は虫に刺されませんでした?」
「虫?」
「そう。わたし、結構食われました」
「いや、別に……どこを食われたって?」
「この辺りです」
と、萌は服の上から指差してみせる。一美はそこに目をやり、困ったような、笑いを含んだような、複雑な顔になった。
「先生?」
何か思い当たることがあるのだろうかと目で伺った萌に、彼はコーヒーサーバーをカウンターに置いて近付いてくる。
「それは虫刺されじゃなくて、キスマークだ」
「キスマーク? 口紅? こんなところに? 何で?」
「そっちのではなくて、こっちの方」
言うと、一美は萌の手を取って、手首の内側の柔らかな皮膚に口付けた。くすぐったさに次いで、痺れるような鈍い痛みが走る。
「ほら」
唇を離した一美は、何でもない事のようにその手首を萌に見せる。何気なく視線を落とすと、彼の唇が触れていたまさにその場所に、首元にもあるような赤い痣が浮いていた。
「え……?」
一拍置いて、それが何を意味するのかが萌の頭の中にも浸透してくる。
手首を見つめ、そして、一美を見上げた。
彼は、「わかったか?」というふうに、肩をヒョイとすくめてみせる。そこに悪びれた様子は微塵もない。
が、しかし、事態が理解できた萌は、一気に顔から火が噴き出たような火照りを覚える。
「人が寝ている間に、何をやってるんですか!?」
「あんなことをしている最中に眠ってしまう君が悪い」
猛然と抗議の声をあげた萌に、一美は飄々とうそぶくだけだ。
「そんなの、だって……こんなところ……」
呟きながら、無意識のうちに胸元を握り締める。
キッと睨み付けた萌に、一美はニッと笑い返してきた。
涙を滲ませる彼女を前に、何故そんなに楽しそうにしていられるのだろう。
更に文句を言ってやろうと口を開きかけたところで、玄関のドアが開く音が耳に届く。次いでパタパタとスリッパの足音が近づいてきた。
「あら、まあ、もう起きてらっしゃいましたか。早起きですこと」
リビングのドアを開けて姿を現し、にこやかにそう言ったのは道子だ。距離の近い二人を見て、その笑みを更に深くする。
萌は一美の服を掴んでいた手をパッと放し、慌てて頭を下げた。
「おはようございます!」
「よく眠れました? すぐ、朝ごはんを用意しますからね」
道子はそう言いながら手早くエプロンを身に着け、キッチンに入っていく。彼女がいる前でケンカを続けるわけにもいかず、萌はシレッとしている一美をもう一度睨み付けるしか、なかった。
*
道子が用意したのはトーストに卵焼き、サラダとコンソメスープだった。
萌はその卵焼きに感心しきりだ。
「どうやったら、こんなふうに中がトロッとなるんですか?」
「あら、いつでもお教えしますよ?」
「わあ、是非お願いします」
そんなふうに盛り上がる女性二人を横目で見ながら、一美は食事を平らげる。
どうやら、二人とも気が合ったらしい。
楽しそうに会話を弾ませる彼女たちに、彼も何となくホッとしていた。
道子は一美にとって母親代わりと言ってもいい存在だから、萌とはいつか引き合わせようと思っていたのだ。どちらも人好きのする人柄だからさほど心配はしていなかったが、実際に仲がいいところを目にできれば、言うことがない。
一美はチラリと時計に目を走らせる。八時を過ぎたところだ。
今日は日曜日だし、萌も休みだ。ざっと病棟回診をして、終わったら彼女をどこかに連れ出してやろう。
(海か……いや、山にするか。途中で昼飯食っていく方がいいな。軽くしとけば、夕食を少し早く摂れるだろうし)
夜になったらまたここに戻ってきて、ゆっくりすればいい。
彼はそんなふうに計画を立てると、コーヒーを飲み干して立ち上がった。
と、道子との会話に熱中していた萌が、見上げてくる。
「先生?」
「ちょっと病棟を見てくる」
そう答えて、ジャケットを羽織る。そのまま一人で玄関に向かおうとした、が。
「あ、じゃあ、わたしも行きます」
至極自然な口調で、萌が言った。
「は? 何で君が。休みだろ?」
「はい。でも、健人君に毎日行くよって、言ってあるんです」
朗らかにそう言う彼女に、一美は動きを止めた。
「……何だ、それ」
「え?」
一美の低い声に、バッグを手にした萌が振り返る。
きょとんとした顔は、何を言われたのか、まるで解かっていないようだ。一美も、彼女が何を考えているのかさっぱり解からない。
「君は休日に行く必要なんかないだろう」
「でも、約束したから」
「そこが違うだろう。休みの日は休むべきだ。君のそれは仕事の域を超えているぞ」
一美は不機嫌に答える。
そう、明らかに萌はオーバーワークだ。
目の下にクマを作るほどに自分の時間を潰すなど、のめり込み過ぎている。担当看護師ではあっても、そこまでする必要は全くない。
「仕事としてじゃなくて……わたし個人として行くんです」
萌は、何故一美が急に不機嫌になったのかの理由をつかみきれない様子で、おずおずとそう言った。
だが、その答えに、彼はいっそうイライラが募ってくる。
自分でも何故こんなふうになるのかは解からないが、とにかく胸の奥がざわめいている。
「何で君がそこまでするんだ。もうじきいなくなる相手だぞ」
「だからです」
「え?」
眉をひそめた一美を真っ直ぐに見上げて、萌は言う。
「短い間でも、ちゃんと自分の事を気にかけてくれている人がいるんだっていうことを、知っておいて欲しいんです」
「前も思ったが、君は患者に入れ込み過ぎる。もっと距離を置けよ。こんなことを続けていたら、君の方がいずれ潰れる。どうせあの子は、退院したら君のことなんてすぐに忘れてしまうんだぞ?」
「それでもいいんです」
「萌!」
萌は髪を揺らして頭を振った。そして、いつもの人当たりの良い柔らかなものではなく、射抜くような強いまなざしで一美を見つめてくる。
「あの子の方から忘れるんなら、いいんです。ここでのことよりも、もっともっといいことに出会えれば、多分、忘れちゃう。でも、それならその方がいいんです」
「寝食を惜しんで手をかけてやっているのに、か? そこまでしてやっているのに、あっさり忘れられても構わないと言うのか?」
自分が棘のある声を出しているという自覚はある。
けれど一美は、そう訊かないではいられなかった。
苛立ちを隠さない彼に戸惑った目を向けながらも、萌はうなずく。
「いいですよ、それで。『わたし』のことは忘れても、『誰か』が傍にいたっていうことを覚えていてくれたら」
一美には、理解できなかった。
何故、与えるだけで満足できるのか。
何故、それほど想いをかけた相手に、「忘れられてもいい」と言えるのか。
一瞬、健人と自分が重なった。
どんなに「好きだ」と言っていても、執着はすることなく、こちらが手を放せば同じようにあっさりと離れて行ってしまうのだろうか。
黙り込んでいる彼に、萌は微かに笑みを浮かべた。それはたゆたうような、曖昧で胸中を悟らせない笑みだった。
「わたしはあの子に人の温もりを知って、誰かに大事に想われることを知って、誰かを大事に思うことを知って欲しい。そしていつか、その大事な誰かと家族になって、幸せになって欲しいんです」
憧れを含んだような彼女の言葉に、一美は殆ど反射のように答える。
「温かな家庭ってやつか?」
一美のその一言の中には嘲るような響きが滲み、萌が怯んだように顎を引いた。判っていても、彼はその響きを消すことはできなかったし、消そうとも思わなかった。
「家族って、大事でしょう?」
確認するような、萌の声。
それに肯定を返して欲しがっていることは、一美も百も承知だ。
だが、彼は、冷たい声で嗤った。
「そうでもないな」
「え?」
「家族なんてものは、ただのシステムで、形だけのものに過ぎない」
断言した一美に、萌の顔がサッと白くなった。
この話の流れは、間違っている。このまま進めていってはいけない。
そう思ったが、一美は止められなかった。言うべきではないという声が頭の片隅で囁いていたのに、止めることができなかった。
「家族なんかなくても自分自身が強くなれば独りで生きていける。少なくとも、俺は必要ない」
突き放すような一美のその言葉に、萌が唇を噛んでうつむく。そして、消えそうな声で呟いた。
「わたしは、誰かと家族になりたいんです」
ただの形骸でしかないものを作れるのなら、その『誰か』は誰でもいいのか。
『形』にはすがるのに、『人』には執着しないのか。
憤りに最も近いものが、一美の心の中に吹き荒れる。
誓って言うが、その時、彼の頭の中にはそんな考えは欠片もなかった。ほんのわずかもそんなつもりはなかったのに、気付けば、いつも女たちと揉めた時に使っていたその言葉が、口から転がり出していた。
「じゃあ、別れるか?」
パッと、萌が顔を上げる。その目は揺れていて、今にも泣きだしそうだ。
『いや』
『別れない』
『捨てないで』
そんな返事がある筈だった。すがりついて、そう懇願してくる筈だった。
だが。
「……わかりました」
ポツリとそう言って、萌はクルリと背を向ける。そして、足音、玄関の扉が閉まる音が続いた。
他の女たちがしたように、一美が引き留める暇を与える為にとどまることもなく、ほんの僅かばかりもためらう気配はなかった。
一美は、追う為に足を踏み出すこともできずに、椅子にどさりと身を落とす。
彼女は行ってしまった――恐れていたとおり、何の未練も見せずに。
萌が自分の事を好いていることは、一美にもよくわかっていた。彼女の気持ちはとても素直で、それは間違いようがない。
けれども、彼女は行ってしまった。
あっさりと。
一美には、萌の気持ちがさっぱり解からなかった。
頭を抱えた彼に、黙って事の成り行きを見つめていた道子が静かに声をかける。
「一美さん。お判りだとは思いますが、早いところ謝っておしまいになることをお勧めしておきますよ?」
それは、判っている。だが、そうしたくとも、いったい何に対して謝ったらいいのかが、一美には解からなかったのだ。
*
一美の部屋を出て、萌はほぼ惰性で足を進めていた。
頭の中がボウッとして、うまく働かない。
『別れよう』
彼は、そう言った。
いやだった。彼を失いたくなかった。
ほんの一瞬、一瞬だけ、一美にしがみついてそんなことを言わないで欲しいとわがままを言ってしまいそうになった。
――けれど、仕方がない。
一美が、そう言うのだから。
手に入ったからといって、それにしがみついてはいけないのだ。
(いつだって、そう)
手に入れたものは、いつか必ず失う時が来る。それは、当たり前のこと。
その『いつか』が、今日だっただけ。
一粒だけコロリと頬を転がり落ちた涙を、萌は手のひらで拭った。




