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「じゃあ、お疲れさん!」
「お疲れ様でした」
夜勤が明け、萌はリコと声を掛け合って駅前で別れた。今晩は一美の家に行く約束をしているので、それまでに少しやっておきたいことがある。寝ておいた方がいいのは判っているけれど、するべきことを先送りにするのはあまり好きではなかった。
萌は、小さく欠伸を噛み殺す。
徹夜したことは何度もあるから、きっと今晩ももつ筈。
日が高くなり始めた青い空を見上げると、一瞬、クラリとした。
*
六時を少し過ぎた頃になって玄関のインターホンが鳴る。
モニターを見なくても外にいるのが誰なのかは判っているから、一美はそのまま玄関の扉を開いた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
彼の姿を認めて、萌が嬉しそうな笑顔になる。何というか、顔を見ただけでそんな反応を見せられると、どうにも面映い。
一美は身を引いて彼女を玄関に入れてやり、扉を閉めた。
と、萌の足がそこで止まり、うつむいている。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
彼女の視線は、足元――玄関にキレイに揃えて置かれている一組の女性用の靴に向けられている。
「ああ、一度は会わせておこうと思ってな。おいで」
そう言い置いて一美は先に立って歩き出し、ダイニングに入るとカウンター越しにキッチンへ声をかけた。そこでは一人の女性が、甲斐甲斐しく立ち働いている。
「道子さん」
「はい? まあ、その方ですか」
キッチンの中にいた六十代半ばほどのふくよかなその女性は萌に目を留め、笑顔でそう訊いてくる。
一美は後ろにいた萌の背中に手を添えて、エプロンで手を拭きながら出てきた女性に向けて、押し出した。
萌はその中年の女性にペコリと頭を下げると、次いで戸惑ったように一美を振り返る。
「こんばんは……えぇと……」
「彼女は園山道子さんだ。俺が中学を卒業するまで世話をしてくれていた。今は時々こうやって家のことをしに来てくれている。道子さん、こちらは付き合っている女性で、小宮山萌だ」
そっと萌の背に手を添えると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「初めまして、小宮山萌です」
少し緊張気味の萌に、道子は目を細める。
「まあ、フフ、可愛らしい方。はじめまして、園山道子です。一美さんが私にお付き合いしている方を紹介してくださるなんて、初めてじゃないですか。私、一美さんのおしめまで取り替えてたんですよ。それに……」
「道子さん、昔話はいいから、食事の準備に戻ってください」
「まあ。いいですよ、こんなおばさん放っておいて、仲良くお過ごしくださいな」
そう言って話の腰を折った一美を軽く睨み、萌には優しく笑いかけると、彼女はキッチンに戻っていった。
萌を促してソファに腰掛けると、すぐに道子がコーヒーを載せた盆を手にやってくる。一美と萌の前にそれぞれコーヒーをおろすと、またニッコリと笑顔になった。
「じゃあ、おじゃまさま。食事ができたら声をおかけしますよ。ああ、一美さんがおいたをしたら、声をお上げなさいな。ちゃんと叱ってあげますから」
イタズラっぽくそう残して去って行く道子の背中を見送って、萌がクスクスと笑う。久し振りに見る仕事場以外での寛いだ彼女に、一美の頬も自然と緩んだ。
「優しそうな人ですね。お手伝いさんとか、ですか?」
「というより、ベビーシッターだな。うちは両親が働いていたから、俺の面倒を彼女に頼んでいたんだ。ある程度成長したら、家政婦になったが」
「ご両親もお医者さんですか?」
「ああ、まあな。忙しくしている」
肩をすくめて、一美は短く答える。彼の家族については、それほど話す事はない。
早々に切り上げて、他の話題へと転向する。
「君の担当のあの子は、どんな調子だ? 時々見かけると、体重は増えてきたようだが」
「健人君ですか? はい! 元気になってきました。最近は、何となく、笑ったような顔をしてくれることもあるんです。お話はまだしてくれないんだけど……でも、そのうち、おしゃべりもしてくれるようになると思うんです」
目を輝かせてそう話す萌は、心の底から嬉しそうだ。
一美と一緒にいても滅多に見せることのない喜びに満ち満ちた表情に、彼は少し――本当にほんの少しだけ、複雑な心境になったが、まあ萌が良いのならそれでいいかとも思う。
「もう、施設に行く日にちや受け入れ先も決まってきているんだろう?」
「はい。さよならになってしまうけど……健人君にとっては、良いことですから」
「そうか……寂しくないのか?」
「え、あ……寂しい、ですよ?」
一美は隣に座る彼女を横目で見下ろしたが、そんなふうには見えない。
あれほど可愛がっていても、別れはあまりつらいものではないようだった。自分の寂しさよりも彼の幸せを……というよりも、もっと単純に、彼が幸せならそれでいい、という感じだ。そこには、彼女自身がどう感じているかということは、含まれていない気がする。
何となく胸の奥がざわついて、一美は萌の方に腕を回して引き寄せた。
「先生?」
道子が近くにいるというのに突然抱き寄せられた萌は、戸惑ったように彼を見上げてくる。こんなふうに距離を縮めても、彼女を手に入れている気持ちにはなれないのは、何故なのだろう。
ふと、朗との遣り取りを思い出した。
彼が言うようにしたら、もっと萌を近くに感じることができるようになるのだろうか。
――こうやって抱き締めるだけではなく、もっと、深く触れ合えば。
知らずのうちに手に力が入っていたのか、萌が身じろぎする。
「ああ、悪い」
呟いて、力を緩めた。
「先生、どうかしたんですか?」
「……いや、別に」
怪訝そうな眼差しで一美を見上げてくる萌に、首を振る。そして、頭を下げて彼女の唇に軽いキスを落とす。
「……道子さんが、いるのに……」
「料理に夢中で気付かないさ。それに、ソファの背で隠れて見えやしない」
そう答えて、もう一度顔を寄せたが、小さな手で押しやられた。
「ダメですよ」
萌は両手を突っ張って一美から身体を離すと、子ども達をたしなめる時のような眼差しで彼を睨み付けてくる。
「先生、何か変ですよ」
「そうか? 普通だろ」
「そうかなぁ……」
一美は小さく笑いをこぼして、もう一度彼女を引き寄せる。萌が諦めたように小さく息をつくと、身体の力を抜いたのが判った。
そこに、タイミングよく道子の声がかかる。
「さあ、お夕飯ができましたよ。仲が良いのはいいですが、先に食べちゃってくださいな」
その瞬間、パッと萌の頬に朱が散って、弾かれたように一美から身を引き剥がした。
やれやれと腰を上げると、一美は萌の手を取って立ち上がらせる。
「行こうか。彼女の食事は美味いよ」
取り敢えずは、腹ごしらえだった。
*
道子の食事は凝ってはいないが、家庭的でバラエティに富んでいる。彼女は、食事の支度を終えると帰途に着いた――「おいたはいけませんよ」と一美に釘を刺すことを忘れずに。
食卓に並べられた食事は二人分にしては多かったが、相変らず良く食べる萌の胃の中に少なくとも半分が消えていた。仕事が詰まるとバランス栄養食で済ましてしまうようだが、普段これほど食べるのに、よくぞ我慢できるものだ。
「片付けはいいよ。明日、道子さんが来てやってくれるから」
食べ終えてキッチンに立とうとする萌を、一美は引き止める。代わりにソファに座らせて、道子が用意しておいたコーヒーを運んだ。
そうして、彼女の隣に腰を下ろす。
「明日は休みだろ?」
「はい」
「じゃあ、泊まっていけばいい。いつものように、知らない間に帰らずに」
付け足したのは、ちょっとしたいやみだ。
一美は、朝に萌の寝顔を見たことがない。
朝起きたら腕の中に彼女が――というのを経験してみたいのに、いつももぬけの殻なのだ。キスで彼女を起こすなど、夢のまた夢、だった。
(まったく、何の為にここに泊まっていくんだよ)
一美は胸の中でそうぼやきながら彼女をヒョイと持ち上げると、自分の膝の上にのせた。
「え?」
こうすると、目の高さが殆ど同じになる。頬を赤らめて俯きそうになる萌の顎を捉えて、真っ直ぐにその目を覗き込んだ。
「先生、ちょっとこれは、恥ずかしいです」
「そうか? でも、この方が丁度いい」
「何に?」
一美はそれに答えず、触れるだけのキスをする。
一度離して萌を見ると、その頬は真っ赤になっていた。こんな軽いキスなど何度もしていることだというのに、いつも彼女は赤くなる。
それがいかにも彼女らしくて、一美は小さく笑った。
「君は、いつまで経っても慣れないみたいだな」
「慣れるものですか?」
「俺が知る限りでは、キスで赤くなる者はいなかったな」
「それって、今まで……」
藪を突きかけた萌の唇を、封じるように塞いだ。軽く、ついばむようなキスを何度も繰り返しながら、ゆっくりと彼女をソファに横たえる。
決して怯えさせることのないように、慎重に進めた。
深いキスも彼女が息切れする前に一息つかせて、緊張させないように、心地良さだけを与えられるように心がける。
そうしながら、一美の中で小さな声がした。
このまま身体を繋げてしまっても、いいのだろうか、と。
四ヶ月も付き合った恋人同士なら、別に何ら問題はない行為だ。
だが、距離を縮める為にするのと、距離が縮まったからするのとでは、大きな違いがある。
果たして、自分と萌との距離は、充分に縮めることができているのだろうか。
だが、心の奥のその囁きを、一美は追い払う。
以前、萌は、一美が彼女のことをどう想っていても構わない。自分が彼のことを好きなだけで、それだけでいいのだというようなことを口にした。
それは、取りも直さず、一美の気持ちは欲しがっていないということなのではないのか。
これまでの相手は、初めから彼に様々なものを要求した――物にしろ、気持ちにしろ。
だが、萌はそうではない。
ただ、自分の中にあるものだけで満足して、一美には何も望んでこない。それが彼には物足りなく、そして不安の元になっていた。
萌が一美のことを欲してくれれば、彼の中に燻ぶる何かが払拭されそうな気がする。
身体を一つにしてみれば、彼女の気持ちがはっきりと解かるような気がするのだ。
慣れた手付きで胸元のボタンを外し、その細い首筋に、のどの窪みに、華奢な鎖骨に、口付けを落としていく。
その肌の甘さに、酔いそうになった。
徐々に、一美はこれまで触れたことのない場所へと進めていくが、萌は嫌がることもなく、ただされるがままになっている。
ボタンを一つ外して、小ぶりだが、柔らかく隆起する胸元へ。
時々、こらえきれずに彼のものだという紅い証を残してしまった。。
ボタンをもう一つ外し、そしてシャツの裾を引っ張り出して細い背中に手を回す。
手探りで下着のホックを探って外そうとし――
ふと、一美は、眉根を寄せた。
少々、おとなし過ぎやしないだろうか。
キス一つを恥ずかしがる彼女なのだ。こんな所まで触れられて、何も言わずにいる筈がない。
一美は、遅ればせながらその違和感に気付く。
手を突いて身体を起こして萌を見れば、果たして、彼女のその両目は閉じられていた。
「萌……?」
そっと名を呼んでみるが、返事はない。
まさかと思うが、そのまさかの事態のようだ。
頬に手を触れてみても目蓋は上がらず、穏やかな呼吸は、明らかに彼女が深い眠りの淵にいることを表していた。
「マジかよ」
ぼやいて萌の上からおりると、肩膝を立てて床の上に座り込む。
コトに及ぼうとしている時に相手に眠られたことなど、今までない。どう反応していいのかが判らなかった。
ソファに肘を置いて頬杖を突くと、一美は萌の寝顔に目をやった。
起きている時には気付かなかったが、よくよく見ると、彼女の目の下には微かなクマがある。どうやら寝不足らしい。
きっとまた、あの少年のことで無理をしているのだろう。
「まったく……」
そっと手を伸ばして、頬にかかった髪をよけてやる。手のひらを頬に添えたまま親指で薄らと開いた唇をなぞると、微かに口元が綻んだ。
安心しきった、幼い子供のように。
「まだ、か」
一美は溜め息混じりに苦笑した。
萌を起こして最後までコトを運ぶ、ということもできる。しかし、元々迷いながら始めた行為に、一美はそうする気にはなれなかった。
結局、いつものパターンだ。
「しょうがねぇな」
呟いて、萌を抱き上げる。それでも彼女はピクリともしなかった。
これだけよく眠っていれば、いつものように数時間で起きてしまうことはあるまい。
勝手にベッドに連れて行くのもなんだが、ソファでは充分に疲れも取れないだろう。
一美は諦めたような、ホッとしたような息を一つつき、寝室へと向かった。




