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四月から六月は人が動く。
私立霞谷病院は病床数八百床、各種診療科を一通り備えた、救急対応もできる地域密着型の中堅総合病院である。
その霞谷病院の四階西病棟は小児科と整形外科との混合病棟になっており、そこでも四月に二人、五月に二人、そしてこの六月に一人、看護師の異動があった。
今日、その最後の一人がやってくる。
霞谷病院の小児科医は全部で五人。
定年間近な六十二歳の山田正敏を筆頭に、四十五歳の南利一、三十二歳の岩崎一美、二十九歳の徳永肇、小児科唯一の女性である二十八歳の松井祐里香だ。
その中でもまさに『中堅』にあたる岩崎一美は、医者になって七年目になる。
彼の医者としての評判は良く、背が高くて顔もいい、とくれば職場の看護師に引っ張りだこになりそうなものだ。
しかし、ある一点において一美の風評は芳しくなく、堅実な人生を歩みたい者からは避けて通られている。
もっとも、彼としても職場の人間との揉め事はまっぴらだったから、『そちら方面』においては敬遠してくれる方が助かるというものだ。
「あ、岩崎先生!」
六月の第一日に病棟に姿を現した一美を、看護師長の武藤美恵が手招きしていた。
美恵は美人でさばさばしているがなかなかの曲者で、油断しているとベテランの医者でもやり込められる。もうじき小学生になる孫がいる筈だが、そんなふうには見えない若々しさだ。
彼女はナース服を身に着けた一人の少女の肩を抱くと、一美の方へと向けさせた。
「ほら、最後の新人さん。小宮山萌さん。今年看護学校卒業したてのひよこちゃんだけど、よろしくしてやってよ。里見高校出身だから、まだピッチピチの二十歳だよ」
「へえ……実習生かと思った」
思わず一美はそう呟く。
里見高校とは中学卒業後から看護科に入学し、最短コースで看護師になれる高校だ。確かに、そこ出身の新人ならばまだ二十歳なのだろうが、武藤師長の隣に立つ新米ナースの化粧っ気のない顔は、一見すると女子高生だ。
「小宮山萌です。よろしくお願いします」
ジロジロと遠慮のない一美の視線を注がれながら、外見通りに幼さの残る声でそう言うと、彼女はぺこりと頭を下げた。
「よろしく」
一美は型通りに挨拶を返す。
と、緊張していたのか、萌はフニャリと頬を緩めた。
(まあ、可愛いことは可愛いかな)
一美は内心でそう評価を下す。
もっとも、あくまでも小動物か何かを見た時に抱くような『可愛い』であって、成熟したクールビューティーの方に食指が動く彼の好みからは大きく外れてはいるが。
まあ、見て楽しいのが増えてくれれば、職場の潤いになるというものだ。一美も、ニッと笑みを返してやると、萌の肩からも力が抜けたようだった。
なかなか好調な滑り出し。
第一印象はまずまずだと思われた。が、そこに、別の看護師からの声が水を差す。
その主はこの病棟に来て三年になる中野リコだ。
リコも萌と同じように看護師になってすぐにここで働き始めたのだが、彼女は四年制大学を出ているので現在二十五歳になる。
看護師になって三年も経てば、医者のあしらいも患者のあしらいもこなれてくるから、一美を前にしてもかしこまった様子は微塵もなく、萌への忠告を垂れてきた。
「ちょっと、その人手が早いから気を付けなさいよ? もう、ホンット、洒落にならないんだから。見た目にポーッとなったら痛い目見るわよ。岩崎先生も、その子は私が指導するんですから、変なちょっかいかけないで下さいよ?」
聞き捨てならないそのセリフに、己の名誉の為、一美は抗議の声を上げる。
「おい、いくらなんでも、こんなガキ臭いのに用はねぇよ」
三十二歳の一美からすれば、実年齢二十歳、外見年齢十六歳の小娘など、同僚でなくても守備範囲外だ。
呆れた口調でリコに返した一美に、萌がポツリと呟いた。
「ガキ臭い……」
「ああ、悪い。『若々しい』?」
「何で、疑問形なんですか」
睨み付けてくる顔は、やはり幼い。とてもではないが『女』には見えず、思わず一美は頬を緩めてしまう。
(あ、まずった)
そう思った時には、遅かった。
彼の笑みをどう受け取ったのか、萌の唇はより一層ムッと引き結ばれる。
どうやら、新スタッフとの顔合わせは失敗に終わったらしいと一美が悟った時には、それはもう後の祭りだった。
*
「あの新人ちゃん、可愛いですよね」
医局でそう言ってきたのは、今年で医者四年目になる松井祐里香だ。小児科唯一の女医だが、チャキチャキしていて紅一点の印象は乏しい。
彼女の言葉を、もう一人の若手、一年先輩の徳永肇が引き継ぐ。祐里香よりもむしろ彼の方がおっとりとした優しげな物腰をしていて、時に先輩後輩の立場が逆転しかねない二人だ。
「新人? ああ、小宮山さん? 見た目がアレだから、最初は『この子大丈夫かな』と思ったけど、よく勉強してるし、よく動くよね。フットワークが軽いよ。子どものあやし方もうまいし」
「確かに。あの子が介助してくれると、色々やり易いですよ。それに、あの子にニコッとされるとね、こっちも癒されますわ」
二人は意気投合して顔を見合わせると、互いに頷き合った。
一美には、それが何となく楽しくない。
(『ニコッと』、だと?)
確かに、萌は仕事の面では他の新人とは比べ物にならない有能さを見せてくれ、業務に支障が出ることは全くないが、二人が言うような態度には、彼はお目にかかったことがなかった。
初対面の事を、まだ引きずっているのとは、少々違う気がする。強いて言うなら、怯えられているというか……
「俺には何か遠巻きだぞ、あいつ」
心持ちブスッとした声でそう言うと、祐里香と肇は同時に彼に視線を向けた。
「そりゃ、自業自得でしょう」
「ああ……まあ……」
祐里香の視線は冷たく、肇のそれはさもありなん、と言わんばかりだ。
「何で自業自得なんだよ」
「ええぇ、だって、先生、女癖悪いし」
呆れたように祐里香が言うが、一美には心外だ。
「職場じゃ手を出してねぇだろ?」
「じゃ、あの六東のナースはどうなんです? ほら、超美人の」
「あれはあっちから言い寄ってきたんだって」
「そこで手を出しちゃうから駄目なんじゃないですか。それに、めっちゃ泥沼になったでしょ?」
祐里香の隣では、肇がうんうんと頷いている。
一美は渋面で腕を組む。
確かに、あれはしくじった。
職場の者には手を出すまいと心に決めたきっかけはあの騒動だと言っても過言はない。今ではそのナースに蛇蝎のように嫌われているが、当時は振り切るのに苦労したのだ。
「……あれ以来、院内では何もしてねぇよ」
「でも、その一件がインパクトありましたからねぇ。きっと、先輩ナースから色々話が伝わってるんですよ。ほら、看護師たちのネットワークってすごいから」
女性の祐里香よりは多少同情的なのか、肇が気の毒そうに付け加えた。
件の看護師に関しては、本当に彼に対して未練があったのか、それとも単に美人で鳴らした自分が振られるということに我慢がならなかったのかは判らない。
ただ、彼女から猛烈なアピールを受け、一美がそれに音を上げてOKを出してしまったのが運の尽きだった。
付き合いを始めるに当たって『別れ際は揉めない』と約束したことが、一ヶ月後には彼女の中からすっぽりと消え失せていたのは疑いようのない事実だった。
あの時のことを思い出すと、今でも気が滅入る。まさに懲り懲り、というやつだ。
イヤなことを思い出してしまった一美は、気分を変えたくなってパソコンを閉じると立ち上がった。
「あれ、どうしたんですか?」
「ちょっと病棟行ってくるわ」
声をかけてきた肇にそう返すと、医局を後にした。
*
職員用裏階段の四階の扉を開けると、すぐにあるのはプレイルームだ。
もっとも、『ルーム』と言っても、個室になっているわけではない。廊下の突き当たりにスポンジ製のマットレスを敷いて衝立で仕切っただけのそのスペースだが、子ども達には結構喜ばれていた。
感染性の疾患ではなく、ある程度元気になった子どもは、プレイルームで遊ぶことを許される。とはいえ、所詮病院の中でのことなので、激しい遊びができるわけではないが。
とにかく、階段の扉を出て真っ先に一美の耳に入ってきたのは、絵本を読み聞かせている楽しげな声だった。いくつかの声音を使い分けて、抑揚も豊かに生き生きと朗読している。
プレイルームと廊下を仕切っている衝立の上から覗き込んでみると、下は三歳、上は六歳の五人の子どもたちが一人の看護師を取り囲んでいる。彼らに向けて絵本を広げているのは、萌だった。
彼女は衝立に背を向けているので一美には気付いていない。
五人の中で、一番年長の子だけが彼に目を向けたが、一美が人差し指を立てて唇に当てて合図をすると、また絵本に注意を戻した。
「――そうしておじいさんとおばあさんは、その可愛い女の子と一緒にいつまでもいつまでも楽しく暮らしました。おしまい!」
最後の『おしまい』と同時に、萌は絵本をパタンと閉じる。
「えぇえ、もっと読んでよぅ」
「今度は、こっち!」
ぶうぶうと文句を言い始めた子どもたちに、萌は毅然と首を振る。
「ダメです。今日はもうおしまい。あと五分で安静時間だから、お部屋に戻らないと。今日いい子にしてたら、明日また読んであげるよ?」
その台詞で、子ども達が釣られたように笑顔になる。
一美からは見えないが、多分、祐里香や肇が言っていた例の笑顔を浮かべているのだろう。
それが見えないことが、何となく悔しい。
多分、殆どの者が見ることができているものを、自分だけが見ていない、というのが気に食わないのだろうと、一美は自己分析をする。
――単に、それだけだ。
子どもたちは渋々ながらも素直に立ち上がり、病室に帰ろうとする。
そのうちの一人が一美に気付き、声を上げた。
「あ、岩崎先生!」
その声に、萌の肩があからさまにビクリとする。
妙に恐る恐る、といった風情で振り返り、ヒラヒラと手を振る一美と目が合うと、そのまま固まった。
「岩崎先生、またね!」
「おう、おとなしくしてろよ?」
「岩崎先生、バイバイ」
「また部屋に行くからな」
プレイルームから出ていく患児たちに応えつつ、視線は萌に注ぎ続けた。その間も、彼女はピクリとも動かない。その様はまるで肉食獣に見つかった小動物のようだ。
(これはこれで、何か面白いな)
表情は変えないまま、一美は心中でそう呟く。
これまで、女性をいじって楽しむ趣味はなかったが、相手によっては意外に楽しいのかもしれない。
だが、いつまでもこうやって睨めっこをしているわけにもいかず、一美は愛想笑いを浮かべてみせた。
と、彼女も曖昧に口元を緩める。
多分、いや絶対に、これは若手二人が言っていた笑顔とは違うものだろう。
一美はなんとなく面白くない。こうなれば、何としてもその笑顔を見てみたくなるというものだ。
「君さぁ、俺の事、どんなふうに聞いてんの?」
「え?」
「中野さんから色々聞かされてるんだろ?」
返事はなかったが、一瞬泳いだ萌の目が、真実を雄弁に語っていた。
「それ、かなり尾ひれ着いてるから」
「そう、なんですか?」
「どんな話を聞いてるんだよ」
「え……っと……」
口ごもる萌に、一美は『怒らないから言ってごらん?』的な笑みを浮かべて先を促す。
「その、ですね。他の病棟のナースを滅茶苦茶弄んで捨てた、とか、毎晩毎晩女の人をとっかえひっかえしてる、とか、半径一メートル以内に近付くと赤ちゃんができる、とか……とにかく、絶っっっ対、二人きりにはなるな、と他の先輩方からも言われました」
先輩『方』というからには、病棟の看護師の大多数が加担しているようだ。
恐らく、半分はこのいかにもすれていなそうな新人が一美の毒牙にかかることを阻止しようという親心なのだろう。だが、残りの半分は、彼女の反応を楽しむ為に違いない。
確かに、看護師たちの言葉は微妙に正しいが、完全に正確ではない。
あの看護師を一美の方から積極的に弄んだというつもりはないし、基本的に、一度に付き合うのは一人きりだ――まあ、タームが短いことは否定できないが。
それに、ここが一番重要だが、これまで数多く『こと』をこなしてきたが、避妊をしくじったことは一度もなかった。
「小宮山さんはそれを信じたわけ?」
「え……その……先生はモテそうですから、どこまで本当なのかなぁ、とか……」
萌はもごもごと、気まずそうに言う。ということは、流石に全てを信じているわけではないようだ。
微妙な真実は黙っておくこととして、一美はいかにも『仕方がないなぁ』と言わんばかりのため息をついてみせた。
「それ、君をからかってるだけだから」
「からかってる……?」
「そう、殆ど冗談だって。新人だから、遊ばれたんだろ」
彼の言葉が萌の中に落ちたその瞬間、彼女の顔にはパアッと満面の笑みが浮かぶ。
――これか。
そのあけすけさに、今度は一美が怯む番だった。
萌は両手を床に突くと彼の方に身を乗り出して、矢継ぎ早に言葉を繰り出していく。
「やっぱり、そうなんですね! そうですよね、ドラマじゃあるまいし、そんなひどい人、いるわけないですものね! 先輩たちから聞いて、いつか、ちゃんと先生にも訊いてみなくちゃって思ってたんですけど、内容が内容だから、どうしても訊き辛くて……本当の事が知れて良かった!」
そう言って再び浮かべた輝かんばかりの笑顔が、一美の目と心に沁みる。
成人したいっぱしの女性が、こんなに信じやすくていいものなのか?
一美の胸には、一抹の不安が湧き起る。
「うん、まあ……誤解が解けて良かったよ……でも、少しは疑うことを覚えた方がいいかもね、君は」
「そうですね、鵜呑みにしてしまって、すみません」
「まあ、気を付けて……」
一美としては看護師たちの言葉と自分の言葉と両方に対しての忠告のつもりだったのだが。
若干の良心の疼きを覚えながら、彼は短くそう答えた。
「今まで、変な態度を取ってしまってすみませんでした! 今後は改めます」
そう言って、萌はペコリと頭を下げる。
「うん、まあ、そうだね……」
頼むから、少しくらいは警戒しておいてくれ、と、らしくなく一美は思わずにはいられなかった。




