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一美のその日の午後は外来がなく、病棟も落ち着いていた。
暇つぶしがてらにインターネットで文献検索をしていた彼は、不意に鳴り始めた院内PHSを手に取った。
液晶画面に表示されているのは、『整形外科 有田』の名前だ。
朗が遊びの誘いやら何やらのくだらないことでPHSを使うことはないから、小児科医としての一美に用があるのだろう。
通話ボタンを押して、耳に当てる。
「岩崎だ。何だ?」
「ああ、今大丈夫か? 時間があるなら、ちょっと救急外来に来て欲しいんだけど?」
「わかった」
整形外科からコンサルト、しかも救急外来に召集だ。あまりいい予感はしない。
点滴が入らないから処置して欲しい、というパターンもあるが、それなら今の電話でそう言う筈だ。
医局を出て朗が待つ救急外来へ向かいながら、一美はいくつかの可能性を考える。
――整形外科絡みとなると、一番確率が高いのは、やはり『アレ』か。
常日頃から、彼は最悪の事態を想定しつつ動いている。
(俺の予想が外れていればいいがな)
表情には出さず、胸の内でそう呟きながら、急いだ。
救急外来に着いた一美が看護師に訊くと、その患児は観察室に寝かされているとのことだった。
各ベッドは天井から下げられているカーテンで、中が見えない。
彼は教えられたベッド番号に歩み寄ると、そっとカーテンをよけた。
中にいるのは、朗とベッドの上に寝かされている子どもだけだ。
「一美! 手間取らせて悪いね。この子なんだけど。腕の骨折の処置で麻酔をかけたから、今は寝てるんだけどね。どう思う?」
ベッドの上で穏やかな寝息を立てているのは、一見するとせいぜい四歳前後の体格の少年だ。だが、病院の寝間着越しにも判るその異様さに、一美は眉をひそめた。
朗がそんな彼にチラリと目をやると、少年に視線を戻して状況を話し出す。
「下田健人君、五歳ね。母親と車に乗っていて事故に遭った。母親の酒酔い運転で電信柱にドスン、だ。彼女の方は肝脾裂傷、軽度肺挫傷、全身打撲、ろっ骨三本骨折で入院一ヶ月はかかる。結構重傷だけどね、ま、死にはしない。問題は、この子の方なんだよね。健人君はシートベルトをしてたから、怪我は左腕の骨折だけ。ぽっきりだから、そんなに厄介じゃない。入院の必要もない――整外的には」
その説明を聞きながら、一美は昏々と眠る少年の服をめくる。その身体の有様に、眉間に皺を寄せた。
カルテを見れば、身長九十七センチ、体重十一キロとある。どちらも、五歳児の標準を大きく下回っていた。
子どもを見慣れている一美が年齢を見誤ったのは、その体格の所為だった。特に、痩せが著しい。肋が浮いて見え、肌は不潔だ。
ただ汚れているだけではなく新旧の痣が散在し、その中には二重条痕もあった――それはただの内出血とは違う。よほど強く打ち据えなければ、見られないものだ。
最悪の予想が見事に的中した一美は、ボソリと呟く。
「虐待だな」
「やっぱり? 今回のヤツとは別に、治癒済みだけどろっ骨に骨折の痕二ヶ所あるんだよね」
滅多に表情を変えない朗も、流石にどこか渋い顔をしている。
「母親は当分入院したままなんだな? じゃあ、子どもも小児科に入院させよう。それで時間を稼いで、児相に連絡をつける」
事故の時に一緒にいたのは母親だけのようだが、子どものこの様子を放置しているようなら、父親もろくなものではないだろう。
いずれにせよ、児童相談所に調査に入ってもらわなければなるまい。
虐待の疑いがあれば通告するのは法律で定められた義務だ。いや、たとえ義務付けられていなくても、これだけ明白な所見があれば、一美の中に連絡をためらう要素は微塵もない。
「そっか……」
朗は痛ましそうに子どもを見下ろし、溜息をつく。
「親なのになぁ」
「親にも色々いるさ。色々な。取り敢えず小児科が引き受ける。ご苦労さん」
「ああ、頼んだ」
朗に手を上げて応えると、一美は入院の手配をする為に、病棟へ向かった。
*
小児科病床がある四階西病棟では、今、小児科病棟医長の南医師と武藤看護師長、そして一美が額を集めていた。
「じゃあ、僕が主治医をやるから。虐待対策委員会にもかけないとなぁ」
緊迫した状況だというのに、南の口調はいつもと変わらずのんびりだ。
この霞谷病院には病院内の組織として虐待に対応する為の委員会があり、メンバーには医師や看護師だけでなく、ソーシャルワーカーや事務方、時には病院付きの弁護士も入ってくる。
虐待は様々な要因が絡んでくる為、小児科医師個人や小児科内だけで対処するのは難しく、『病院』として対応することになっているのだ。
うっかりすると警察沙汰になったり、あるいは、親の恨みが医師個人に向いてしまったりもする。関連機関も多岐に渡るので、一人の医師のみが担うには、荷が重過ぎるのだ。
「児童相談所にも通告しとかないとだねぇ。『疑わしきは通告せよ』だから仕方がないけど、やっぱりイヤなものだよ」
そう言った南医師の背中を、武藤師長が叩いた。
「まあまあ、ホントに虐待なのかどうなのかは児相じゃないと判定できないし。仮にホンモノの虐待だとなっても、それであの子が今よりマシな人生歩めるなら、その方がいいでしょうに」
「そうなんだけどね。親を疑わなきゃいけないというのは、イヤなものなんだよねぇ」
はあ、という溜息が続く。南医師のぼやきに、一美は肩をすくめる。
「まあ、状況証拠から言ったら、限りなく黒に近いですよね。親権喪失は無理でも、これだけはっきりしていたら、親権停止くらいにはして欲しいところですけどね」
どんな経緯があろうとも、現在のこの子どもの状況を見ればその母親に親としての権利があるとは、一美にはとうてい思えない。
彼からすれば、一度虐待した者であれば、親権を取り上げるのに期限付きの『停止』ではなく、剥奪してしまう『喪失』で全然構わないと思うのだ。
手厳しい一美に、南は苦笑と共に返す。
「まあ、その辺はきっちり調べてもらおうよ。身長はぎりぎり四歳レベル、体重はせいぜい二歳並み、かな。三歳くらいから始まったのかなぁ。今までお役所が関与してないなら、三歳児健診まではちゃんと行ってたんだと思うけど。今のご時世、定期健診に行ってなかったら、保健所がチェックしてくれるもんねぇ。児相が入れば、その辺は判るかな」
そうして、南はパソコンの電子カルテを開く。
「まあ、とにかく、僕たちは念の為に身体の病気の方をチェックしとこうか。もしかしたら、成長障害をきたすような病気があるとか、痣ができ易い病気があるとか、骨が折れ易い病気があるとかあるかもだしね」
確かに、『小児科医』としてやるべきことは、そこだ。
いくら疑わしくても、客観的に、淡々と対処すべきなのだ。
「そうですね」
一美は小さく息を吐き、むっつりと頷いた。
彼は、自分自身を子ども好きだと思ったことはないし、実際にそうではないと思っている。が、好きとか嫌いとかではなく、子どもがつらい目に遭っていると腹立たしくなるのだ。
と、そんな彼の耳に小さな笑い声が入ってくる。
「君って、ホントに見かけによらないよねぇ」
クスクスと笑う南に、一美は憮然とした目を向ける。
「何がですか?」
「別にぃ。さ、オーダーしないと。あ、看護師さんは誰になるの?」
一美の仏頂面をさらりと流し、南医師は武藤師長に問いかける。
「そうですねぇ」
武藤師長が看護師の名前が書かれている一覧表を眺めながら呟いた。そこに、声がかけられる。
「あの!」
姿を見なくても、一美にはその声の主が誰なのかはすぐに判った。
振り返れば思った通りの姿があって、彼は溜め息をこぼしそうになる。
(何も好き好んでこんな面倒な役を背負わなくてもいいだろうに)
一美の内心のぼやきなどには全く気付かず、立候補してきた看護師――萌が、武藤師長に真っ直ぐな眼差しを向けた。
「あの、わたし、担当やってもいいですか?」
「小宮山」
「わたし、やりたいです。ダメですか、武藤師長?」
生真面目な顔で懇願する眼差しを武藤師長に注ぐ萌に、師長は珍しく迷いを含んだ目を向ける。即断即決の彼女がそんなふうになることは、滅多にない。
「でもなぁ、あんたは……」
「師長」
一歩も引かない構えの萌に、師長は肩をすくめた。そして、いつものようにニッと笑う。
「まあ、いいか。やってみな」
「ありがとうございます!」
師長の許可に、萌はパッと顔を輝かせた。
早々に片が着いてしまったやり取りに、静観していた一美が横槍を入れる。
「ちょっと待て、また厄介なのを彼女に任せるのか?」
「またですか」
武藤師長が呆れた声を出すが、一美は続ける。
「前のあの子も、小宮山さんが担当しただろう? 他にも看護師はいくらでもいるのだから、今度は他の者に当てたらいい」
「彼女が自分で希望してるんだから、いいじゃないですか」
「けどな――」
更に言い募ろうとした一美だったが、いつぞやと同じパターンで肩を叩かれた。
「ちょっと、岩崎君?」
「南先生」
振り返った先にいる上司は、ニッコリと微笑んだ。
「僕の奥さんも看護師さんだったから職場恋愛は禁止しないけど、それが仕事の邪魔になるなら、良くないなぁ。職場に私情は入れちゃダメだよ?」
やんわりとした口調だが、それは明らかな『叱責』だ。
「……すみません」
不承不承そう答えた一美に、南は宥めるように微笑む。
「それに、あの時だって、彼女は見事にやり遂げたでしょ? 君が過保護すぎるんだって」
南医師の台詞に、一美が否定できるところは一つもない。最後の一言まで。
そしてダメ押しは萌からの言葉だった。彼女もあっけらかんと断言する。
「岩崎先生、大丈夫です。わたし、ちゃんとやりますから」
一点の曇りもない朗らかな笑顔を、一美は目を細めて見下ろした。
確かに、彼女は『ちゃんとやる』だろう。
だが、その『ちゃんとやる』のを『やり過ぎる』ところが、彼の心配の種なのだ。
またどっぷりとはまり込みそうで、気が気ではない。
ムッと黙り込んだ一美の肩を、もう一度南医師が叩く。
「あはは。君も苦労性だねぇ。僕の若い頃を思い出すよ。僕も奥さんが大事で大事で……」
「判りました、俺は口出ししませんよ」
南が余計なことを言い出す前に、一美は彼の言葉を遮った。彼が言うように、萌に対しては馬鹿みたいに過保護になってしまう。
それは、一美自身も重々承知しているのだが、判っていても止められないのだから、どうにも仕様がないことなのだ。
どうせ、あの子はここにはそう長くはいない。
長くても一ヶ月。
その間、自分が彼女の事に気を配ってやればいいことだ。
一美はチラリと萌に目を走らせると、ため息一つの後に、そう気持ちを切り替えた。




