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「で、行くんだ? 同窓会」
昼休みの食堂で、萌と先輩看護師中野リコ――そして何故か整形外科医の有田朗は昼食を摂っていた。
頬杖をついたリコに訊かれて、萌はおすすめ定食をつつきながら答える。
「行く……ことになっちゃってるみたいで……勤務表もチェックされました」
一美から彼の大学の同窓会に誘われて、萌はその日の勤務がどうなっているか判らないから、と断ろうとしたのだが、翌日にはその言い訳は却下されてしまった。同窓会の当日は勤務無し、翌日は夜勤で、夜更かしにも最適な日程だったのだ。
――気は、進まない。
萌は小さくため息をつく。
医者の集まりなんて、彼女にとっては場違いもいいところだ。
きっと、孔雀の群れの中に迷い込んだ雀にでもなった気分になるに違いない。
「まあまあ、気楽にやったらいいよ。人数多いからねぇ、誰が誰を連れてこようが、気にするヤツはいないって」
萌の心中を察してそう宥めた朗に、リコがボソリと呟く。
「でも、岩崎先生が袖にした人たちがてぐすね引いて待ってそうですよね」
「あはは、それはあるかも」
気楽な朗の言いように、萌の胸にはずんと重石が圧し掛かる。
ガクリと項垂れた彼女に朗が笑った。
「まあ、ある意味、驚かれるかもしれないけど、そんなに身構えなくても大丈夫さ。一美が一緒なんだから」
ある意味とはどういう意味なのか。
――やっぱり、あまりに似合っていない、とか……?
至極当たり前のその事実に、反論なんて思い浮かばない。
深みにはまりそうになるのを振り払い、萌はニコリと笑顔を浮かべた。
「そういえば、有田先生も行かれるんですか?」
「オレ? 行くよ、もちろん。会いたい人もたくさんいるしね」
彼のその台詞に、すかさずリコが茶々を入れる。
「それって、九十九パーセント、女の人でしょ?」
「いや、百パーセント」
厭味だった筈の彼女の言葉に、朗は笑顔と共にそう返した。
*
萌は姿見の中の自分を見つめる。
ワンピースは、可愛い。
一美が買ってくれた、桜色のワンピース。
クスノキの家を出るまでは卒業生が残していったお古を譲り受け、働くようになってからも自分で選ぶ服は機能的で安いものばかりだった。
こんなふうにヒラヒラした服なんて、着たことがない。
髪も、リコに借りたアクセサリーでアップにしてみた。
何度も何度も練習して、ようやくうまくまとまるようになった。
萌は、鏡の中の自分に笑いかけた。
何となく、引きつっている。
こんなふうに着飾って、確かに萌も、いつもの自分とは違うと思う。
でも――
本当に、こんな自分が一美の隣に立ってもいいのだろうか。
彼と二人きりでいる時は、別に何も気にならない。ただ、傍にいられればそれだけで幸せな気持ちでいっぱいになれるから。
でも、彼の『恋人』として隣に立つ時は――他の人にもそれを知らしめるように立つ時は、いつも少し居心地の悪さを覚える。
それは、多分、一美が自分のことをどんなふうに想ってくれているのかが、今ひとつ判らないからだ。
彼は萌のことをとても大事にしてくれるけれど、それがどんな気持ちから来るものなのかが、彼女には判らない。
付き合い始めた時に言われたのは、「多分、好きなのだと思う」。
だけど。
(先生の『好き』って、どういう『好き』なの?)
それは、こんなふうに着飾って彼の隣に並んでもいいような『好き』なのだろうか。
キスは、する。
そっと触れるだけのものも――深いものも。
(『妹』や『娘』とは、あんなキスはしないよね……?)
萌は、そっと指先で唇に触れながら、そう自問する。
そんなふうに想っている相手には、あんなキスはしないはず。
それに、前に一美の口から、「そうではない」と言われたではないか。
(――と思うって、付いてたけど)
ちょっとばかり不安要素はあるけれど、多分、そうではないのだ。
でも、キス以上は無い。
それは、どんな意味を持つのだろうか。普通は、付き合ってどれくらいで『その先』に進むものなのだろう。
萌は、色々なことが『初めて』だった。誰かをこんなふうに想うことも、誰かとあんなふうに触れ合うことも。
けれども、軽いキスでも死にそうなほどにドキドキしてしまう萌と違って、経験豊富な一美には、殆どおままごとのようなものなのかもしれない。
キスにも、深い意味なんて、ないのかもしれない。
「ああ、もう」
ただ彼を想っていた時の方が、幸せだった気さえしてくる。彼が自分のことをどんなふうに想っているのかを考えなくて済んだから。
大事にされて幸せなのに、不意に逃げ出したくなるなんて、自分でも変だと思う。けれども、時折そんな気持ちになってしまうのだ。
萌は小さく息をつく。
と、丁度その時、玄関のチャイムが鳴った。一美が迎えに来てくれたのだと思っても、すぐには動けなかった。
もう一度、チャイムが響く。
深呼吸を一つして、萌は玄関に向かった。
ドアを開ける前に、もう一度深呼吸。
そうして、ドアノブに手を掛ける。
「準備はできたか?」
玄関に入ってきた一美は、開口一番そう訊いてきた。
「はい、いつでも行けますよ?」
笑顔でそう答える萌を、彼はジッと見下ろしてくる。
――どこか、変?
思わず身なりを見直そうと視線を下げた萌の頬に、一美の手が添えられた。
「顔を上げて」
「え?」
萌は、眉をひそめて彼を見上げる。
「そのまま、少し唇開けて」
一美の意図が判らないまま、彼を見つめて言うとおりにした。
と。
「ひゃ!?」
唇に、かすめるように彼の唇が触れて、思わず萌は妙な声を上げてしまう。
「……悪い。そんなふうに見てくるから、つい……もう一度、ジッとしていてくれ」
頬が赤らんでいるのを自覚しつつ、萌はもう一度同じように固まった。
一美はポケットから何かを取り出すと、それで彼女の唇に触れる――隅から隅まで、丁寧に。
「いいぞ」
そう言うと、彼は萌の右手を取り、その上に何かを落とす。そこにあるのは、小さな口紅だ。キャップを外して見てみると、ワンピースと同じ、桜色だった。
「ワンピースも髪も、その色も良く似合う。行くぞ」
「……はい」
どんな顔をしたらいいのか、判らない。
うつむきがちに頷いて、萌は彼の後に続いた。
*
同窓会の会場は一流ホテルの広間で、萌は入り口の段階ですでに気後れしてしまって立ち止まる。
「萌?」
履き慣れないヒールのあるミュールにふら付く彼女の背中を支えていた一美が、怪訝そうに見下ろしてくる。スーツをきっちり着こなした彼はとても素敵で、煌びやかなホテルを背景にしても、少しも遜色ない。
「あの……わたし、やっぱり……」
「担いで運び込んでもいいんだぞ?」
「……はい……」
か細い声で返事をした萌に、一美が苦笑する。
「そんなに緊張しなくても、君は何か美味いものを食ってたらいい。ああ、酒は絶対に口にするなよ? 特に、俺が隣にいない時には」
かつて醜態を晒してしまった身としては、彼の最後の言葉には頷くしかない。
「立食だから、気楽にいけよ」
再び背を押されて、萌は一歩を踏み出した。
中では給仕がトレイに様々な飲み物を載せて歩き回っている。一美はそこからワインとオレンジジュースを取ると、当然のことながら、オレンジジュースを萌に差し出した。
それに口をつけようとした萌に、明るい――というより軽い、声がかかる。
「やあ、萌ちゃん、可愛いね。そういうの、新鮮だなぁ。一美の見立て? 趣味いいね」
つらつらとそう言いながら手を振ってきたのは、朗だ。
「有田先生、こんばんは」
知った顔に思わずホッと笑顔になった萌に、彼も笑い返してくる。
「こんばんは。でも、こういう席で、男にそんな顔向けたら良くないよ? こいつがやきもち妬くから」
「お前が相手で、誰が妬くか」
「そうだよねぇ、他のヤツだったら、メラメラだけどね」
ニヤニヤしながら言う朗に、一美は呆れたように肩をすくめた。
きっと、何をバカなことを、と思っているのだろうと萌は納得する。
一美がそんなことでやきもちを妬くなんて、想像もできなかった。
そんな彼らの会話の中に、また、別の声が飛び込んでくる。今度は複数だ。
「岩崎君、朗、久し振り!」
「二人とも変わってないねぇ」
「元気ぃ?」
新たな参入者は三人の女性で、誰も皆、成熟した美人ばかりだ。
その中の一人が、萌に目を留める。そして、至極当然の台詞を口にした。
「こちらは、どちらかの妹さん? 可愛いわね」
「そうでしょ? オレの――」
「俺の付き合っている相手だ」
朗が余計なことを口にする前に、一美がその台詞をひったくるようにして宣言する。
刹那、女性陣は、揃って絶句した。
「ええっと……カノジョ?」
しばしの無言の後、中の一人が確認するように問いかける。一美は、それに泰然と答えた。
萌の肩を抱き寄せながら。
「そうだ」
「へえ……」
一美の腕の中にいても、萌は注がれる視線にいたたまれなくなる。彼女達はしばらく萌と一美を交互に見やっていたが、やがて誰からともなく離れていった。
「あの……」
萌はおずおずと彼を見上げながら声をかける。
「何だ?」
「あの、肩を……」
「ああ、すまない。食事を取りに行ってくるといい」
一美は手を放すと萌を料理が並ぶカウンターへと向き直らせた。
「その間に、俺は教授に挨拶してくる。すぐに戻るから、料理を取ったらここで待っていろよ?」
「あ、オレもウチの教授のとこに行ってこないと。じゃあ、またね」
それぞれの用を足しに行く二人の背中を見送って、萌はどうしようかと迷う。
緊張している所為か、お腹はあまり空いていない。でも、何も食べていなければ、一美が心配するだろう。
何か軽いものだけでも、と彼女は料理に向かった。
野菜や魚介のあっさりしたものを選んで皿に取ると、先ほど一美といたテーブルに戻る。
彼はまだ帰ってきておらず、グルリと見渡すと、離れた場所で年配の男性と話している後姿が目に入った。
大勢の中でも一際目立つその背中を見つめながら、萌は皿をつつく。
そんな彼女に、声がかけられた。
「ねえ、あの、あなた……?」
振り返った先には、先ほどの三人の女性が立っている。
「あ、小宮山萌です」
一美も朗もいないのに、いったい何の用かと首を傾げつつも萌は応えた。
「萌ちゃん――萌ちゃんでいいかしら? あなた、岩崎君の彼女って、本当?」
「え、あ、はい、一応……お付き合いを……」
――している筈。
その筈だけれども、断言する勇気が持てないまま、声は尻すぼみになってしまう。しかし、三人はあやふやな萌の返事に深く突っ込むことはせず、あっけらかんと笑顔になった。
「そうなんだぁ……随分、好みが変わったというか……。あ! まさか、未成年じゃないわよね?」
「いえ、もうすぐ二十二になります」
「ってことは、まだ二十一なんだ……一回り違うのね」
そう言って、彼女たちは顔を見合わせる。
「じゃあ、別にジュースじゃなくてもいいんじゃない?」
「そうそう、ほら、こっちを飲みなさいよ」
言いながら、淡い琥珀色の液体が入ったグラスを差し出してくる。
流れから言って、間違いなくアルコールだ。
萌は初対面の相手からの勧めと一美との約束との間で惑う。けれど、相手は初対面とは言え、一美の古い知り合いだ。
彼の知人の誘いを断って彼に恥をかかせるのと、彼との約束を破って後で彼に怒られるのと。
どちらがいいかと考えて、萌は結局後者を選ぶ。
グラスを受け取り、口を付けると、液体が喉を転がり落ちていくと同時に、カッと熱くなった。
彼女たちも思い思いに飲み物を口に運び、切り出してくる。
「あの、さ、薄々勘付いてると思うけど、私達、学生の頃に彼と付き合ってたのよね」
それは、多分そうだろうな、と萌は言われる前から察しがついていた。
自然、俯きがちになる。
萌の落ち込みを悟ったのか、彼女たちは慌てたように続けた。
「ああ、でも、誤解しないでね。結構、こっぴどい別れ方したから、未練とかはないのよ、全然」
「そうそう、熱が冷めたら、もう、二度と付き合うもんかって感じよね」
「ああ……言えてる。のぼせてる間は、もう、まさに『恋は盲目』だったんだけどねぇ……」
美女三人はしみじみとした口調で頷き合った。そして、また萌に目を向ける。
「でも、今日の岩崎君、何か違ってたわ。年取って丸くなったのかしらねぇ……? こう、『護ってる』って感じだったわよね。あんな彼、見たことなかったわ」
彼女たちは、いかにも面白いものを見た、とばかりにクスクスと笑う。
萌はボウッとし始めた頭で、その台詞を反芻するが、うまく考えがまとまらない。
と、一人が「あ」、と声を上げた。
「鬼が帰ってくる。退散しようか。じゃあね、ええと、萌ちゃん」
三人は萌に手を振ると、いそいそと足早に立ち去っていく。それと入れ替わりで、背後から声がかけられた。
「萌? あの三人は、何を?」
萌は振り返って、三人の姿を目で追っている一美を見上げる。
「その……前に、お付き合いしてたとか……」
「余計なことを……」
小さく舌打ちした一美だが、ふと、萌が手にしているグラスに気が付いて眉をしかめた。
「君、ワインを飲んだのか?」
言われて、萌は手元に目を落とした。ちびちびと口にして、気付けば、グラスの中身は半分以上がなくなっている。
何だか、頭がふわふわした。
「のみますよ、だって、わたしはオトナですから」
「……舌が回ってないぞ」
「そんなこと、ないですよ」
言った傍から、ふら付いた。すかさず一美の腕が伸びて、彼女の腰に回される。
「なんですか?」
「転びそうだ」
「だいじょうぶです。ひとりでたてます」
言いながら彼の腕をグイグイと押しやろうとするけれど、びくともしない。そうなると、尚更ムキになってくる。
「いいから、肝心の用は終わったし、帰るぞ」
「は、な、し、て、く、だ、さ、い!」
「まったく……だから飲むなと言ったのに」
やれやれ、といった調子で呟くと、一美は肩に担ぐようにして、ヒョイと萌を片腕に抱き上げた。そうして、スタスタ歩き出す。
「せんせい! おろしてください! あるけますってば!」
「こっちの方が早い」
「また、こんな、こどもあつかいして!」
カッとなった萌は腕を突っ張って一美を睨み付けた。
そして。
「わたしは、こどもじゃ、ないんですから!」
両手で彼の頬を挟むと、彼の唇に自分のそれを押し付けた――ただ、押し付けただけだ。
二人の姿が見える範囲にいる者は、皆、シンと静まり返ってその様を凝視している。
一分は経った頃、萌はパッと身を離した。
「ね、こどもじゃないんです」
そう残して、くたりと彼にしなだれかかる。意識はそこでフツリと途切れた。
「まったく……どうしろと言うんだ?」
一人現実に置き去りにされ、衆人環視の的になった一美がそう呟いたことも、萌は知らない。
その後の彼女は、穏やかな眠りに浸るだけだった。
*
カチャカチャと、硬い物がぶつかる音が耳に付く。
そして、漂ってくるコーヒーの香り。
「あれ……?」
目蓋を開けた萌は、何度か瞬きを繰り返した。
キラキラとしたホテルの広間にいた筈が、今はどう見ても一美の部屋だ。横たえられていたソファから身を起こして、どういうことかとキョロキョロと部屋の中を見回した。
そこに、キッチンカウンターの向こうから耳に馴染んだ声がかかる。
「起きたのか」
「先生!」
萌はビクンと身体を震わせ、そちらに向き直った。
一美はコーヒーカップ二客をトレイに載せてやってくる。それをテーブルに置くと、ソファの傍に膝をついて萌を覗き込んできた。
「君、どこまで覚えてる?」
「覚えてるって……あれ? 昔、先生とお付き合いしていた人たちと話してて……」
「そこは忘れてくれても良かったのだけどな」
「え?」
「いや、何でも。他には?」
彼に重ねて問われて、一瞬後、サアッと萌は蒼くなる。
「もしかして、わたし、また……?」
「そう、またやった。だから飲むなと言っただろう」
「すみません……」
萌は首をすくめてお叱りを甘んじて受けた。項垂れた萌の頬に、一美の手のひらが触れる。
顔を上げた萌の唇に、ついばむようなキスが落ちる。二度、三度と。
「先生?」
唇が離れた隙に、何とか一美に問いかける。だが、彼は止めようとしない。いや、それどころか段々と口付けは深くなっていく。
「先生……先生! ちょっと、待って」
「いや、待たない……キスは人前でするもんじゃないんだよ」
「え……? それ……」
どういうことですか。
そう問おうとした萌の唇は、言い終える前に一美によって封じられる。
萌は頭を懸命に働かせてワインを口にしてからのことを思い出そうとするのに、繰り返されるキスに邪魔されて全然うまくいかない。
ようやく解放されたのは、いまだ息継ぎが巧くできない萌が息も絶え絶えになった頃だった。クタリと脱力した彼女を抱き締めた一美が、耳元で囁く。
「今度、俺がいないところで酒を呑んだら、これくらいでは済まさないからな?」
だが、一美のその台詞を頭の中に入れる余裕は、その時の萌にはなかったのである。
遠い意識の片隅で、彼の声は耳から耳へと抜けていった。




