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ゴールデンウィークのアーケード街は、人でごった返していた。昼を少し回った時間で、一番混んでいる時間帯かもしれない。
一美がこの時間に街を歩くことは、滅多にない。歩くとしたらもっぱら夜ばかりで、ざわめきの種類が違う。
今は騒がしいポップスのBGMに家族連れやら学生のカップルやらが溢れていて、歩き慣れた街並みだというのに、まるで違う場所のように感じられた。
無意識のうちに騒々しさをシャットダウンし、人の間を擦り抜けるようにして足を進めていた一美だったが、クンと引かれた左手にハッと我に返った。
その左手の中には、殆ど握り込むようにして、小さな温もりが包まれている。
「スミマセン!」
振り返った先で対向者に引っかかって謝罪の声をあげているのは、萌だ。
手をつながずにいるとはぐれてしまうのだが、つないでいてもうっかりするとこんな事態になる。
萌と付き合い始めてから、時々こうやって徒歩で移動するようになった。
だが、誰かと並んで歩くということがあまりなかった一美は、当初は、気付いたらいつの間にか彼女がいなかった、ということがしばしばあった。
一番のネックは、その歩幅の差だ。大抵の女性はごくごく自然に腕を組んできたものだったが、萌は恥ずかしいのかそうしようとしない。
手をつなぐことは良しとしてくれたのだが、時折ウィンドウに映る二人の姿を目にすると、一美は何となく複雑な心境になる。
それは、まるで兄と妹か――下手をすると父と娘のようだったから。
別に萌は成人した女性なのだから、たとえ年齢差十二歳と言えども、何も躊躇する必要はない。
にも拘らず、後ろめたいというか、どこか『イケナイこと』をしているような気になってしまうのは、彼女の見た目よりも中身に因るものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、一美が左腕を引っ張ると、萌はトトッとふらつきながら彼の胸元に飛び込んできた。
一美はつないでいた手を放し、彼女の肩を包み込んだ。彼の掌の中にすっぽりと入ってしまうその小ささを実感すると、いつも胸の中に何かが込み上げてくる。
――温かいような息苦しいような、何かが。
そんな時、一美は無性に萌を抱き締めたくなる。
それは、思春期真っ盛りの時でも覚えたことがないような衝動なのだが、当然いい年をした彼がそんな真似ができる筈もない。今は、ただ彼女の肩を抱く手に力を込めるにとどめておいた。
気付かれないように、丸い頭のてっぺんに軽いキスは落としたけれど。
「岩崎先生?」
距離の近さに戸惑った声をあげた萌に、一美は短く返す。
「この方が歩き易いだろ?」
「う……はい……」
彼の腕の中にいれば流石に通行人の当たりは激減するのは紛れもない事実で、萌は微かに頬を赤らめながらも頷いた。
「よし、じゃあ行くぞ」
そう言って、歩き出す。一美も、手をつないでいる時よりも、萌の速度に合わせ易い。
仕事柄かあるいは単なる性分なのか、普段の一美は速足だ。今も意識していないとついつい自分のペースになってしまうのだが、他人の速さでゆっくりと歩くのも、萌が相手なら悪くないと思えた。
二人が、というよりも萌が目指しているのは、某衣料品チェーン店だ。
有名なブランドなので一美もその名は知っているが、そこで服を購入したことはおろか、入ったことすらない。
店の中には同じデザインで色違いのものが、各種サイズを取り揃えてズラリと並んでいる。いかにも『大量生産』されたもの、という風情で。
買い物籠を手にした萌は、ほとんど迷うことなくパッパとTシャツやボトムをそこに放り込んでいく。
一美はその中から一つを手に取って見てみたが、何というか――シンプルだ。色も、形も。今現在彼女が身に着けているものと、ほとんど変わりがないように見える。
何気なく値札を見て、彼は思わず声を上げる。
「――五百九十円!?」
有り得ない物を見る目を手の中のTシャツに落としている一美を、萌は何故そんなに驚いているのか、という眼差しで見上げてきた。
「はい。あ、でも、五枚買うと二千五百円になるんです。お得でしょ? それに丈夫なんです。今着てるのも五年はもってますから」
一美は、「俺が買ってやるから」と言いたくなるのを懸命にこらえる。
そんな提案に萌が頷くわけがないことは、判りきっていた。
結局、萌は十分ほどでTシャツ五枚とボトム二枚を選び終えると、他に目をやることなく真っ直ぐにレジへと向かった。
「それだけでいいのか?」
「はい。Tシャツが流石に伸びちゃって、大分よれよれになってきてたんです。ズボンもこの間ひっかけて穴を開けちゃいました。お給料も入ったし、ついでだから、予備も買っておこうかなって」
店員が待つカウンターに買い物かごを置きながら、萌が恥ずかしそうに言う。
彼女の購入動機に『おしゃれ』という要素が全く感じられず、一美はそういうものなのだろうかと首をかしげた。これまで付き合ってきた女性陣は、買い物となるとああでもないこうでもないととっかえひっかえし、どんなに早くても、一つの店で一時間は費やしたものだが。
萌の行動にも今ひとつ理解が及ばなかった一美だったが、レジ係が打ち出した合計金額を耳にして、また驚愕する。それは、彼がねだられてきた数多くの服の値段一着分の、十分の一になるかどうかというものだった。
その瞬間、一美は使命感にも似た感情に駆られる。
何とかせねば、と。
もう、萌がどう反応するかなどどうでも良かった。
金を払って店を出ると、次はどこへ行くかと萌に尋ねることなく、一美は再び彼女の肩を抱いて歩き出す。店はいくらでも並んでいるので、ウィンドウに飾られているものを眺めながら、物色した。
「先生? どこに行くんですか?」
行き先を言わずに歩く一美に、萌が戸惑いを含んだ声を上げる。
予定では、買い物が終わればそのまま彼のマンションに帰ることになっていたのだ。二人が向かっている方向は駅とは反対で、常に予定を立てて行動する彼らしからぬことに、萌は困惑したのだろう。
「うん? ……ああ」
生返事をした、その時。
ガラスの中でマネキンが身に着けている一枚のワンピースが、一美の目に留まった。
春らしい淡い桜色の、ふんわりとしたデザインだ。
――あれがいい。きっと彼女に良く似合う。
一目でそう思った。
「ここに入ろう」
「え?」
唐突な一美の行動に、萌はキョトンと彼を見上げてきた。呆気に取られている彼女を、問答無用でその店に連れ込む。
「先生、ちょっと……」
店内はしっとりと落ち着いていて、店員が二名、客が三名だ。こじんまりとしているが、雰囲気がいい。
だが、萌は気後れしたように、一歩後ずさった。
そんな萌の肩をポンポンと宥めるように二、三回叩くと、一美は手すきの店員を呼び止める。
「失礼」
「はい?」
三十代半ばと見えるその店員は、にこやかに微笑みながら振り返った。
「あのワンピース、彼女のサイズがあるかな」
「まあ……可愛らしい方。少し、お待ちください、見て参りますわ」
一美を見、そして萌を見た店員は微妙な間をあけつつも、微笑みながらそう答えると踵を返す。
「あ、ちょっと」
「何か?」
一美は萌を置いて店員に近付くと、囁いた。
「値札は外しておいてくれ」
「ああ……はい」
彼女はニッコリと微笑むと、今度こそ店の奥へと姿を消した。
傍に戻ってきた一美を、萌は首を傾げて見上げる。
「先生、何を……」
「あれ、君に似合いそうだろ?」
「わたし?」
「そう、ああいうのも着ろよ」
「でも、わたし、そんなお金ないですよ? すごく高そうです」
「買ってやるから」――そう言いそうになって、一美は口を閉じた。彼女なら、その言葉に素直に頷きそうもない。
さて、こんな時は何と言うべきか。
今まで付き合ってきた女達が何か物をねだる時に口にしていた『理由』の数々を思い出す。
彼女の誕生日――はもう少し先だ。
『付き合い始めて○ヶ月の記念』辺りも良く使われた――三ヶ月目を迎えたことは無かったが。
「もうじき、会ってから一年になるだろう?」
「はい。……でも、それが何か?」
「……そういうの記念にしたりするだろう? 女性は」
「そうなんですか?」
「……」
心の底から訝しそうな萌に、一美はどう答えるのが一番正しいのかを考える。
自分の経験では、というのはまずいだろう。ここは一般論としておくべきか。
「後で中野さんにでも訊いてみろよ。多分、彼女も色々もらうだろ。朗に至っちゃ、付き合ってる相手に殆ど毎月、何かしら贈ってるぞ?」
「……はい……」
男と付き合った経験のない萌は、経験豊かな一美にそう言われれば否定する言葉を持たないのだろう。
半信半疑な面持ちで、それでも素直に首を縦に振った。
やがて戻ってきた店員が萌にワンピースを渡す。彼女はジッとそれを見つめ、次いで一美を見上げる。
彼が無言で頷くと、更に少しの間逡巡した後、試着室に入っていった。
「可愛らしい……妹さんですね?」
伺う口調で店員が言う。それにチラリと目をやって、一美は答えた。
「妹じゃない。恋人だ」
「! ――すみません」
ハッと口元を押さえて慌てて謝る彼女に、彼は軽く肩をすくめて返すだけにとどめる。もしかすると援助交際か何かかと思われているのかもしれないが、そこは無視することにした。
そんなやり取りの間に萌が着替えを終え、試着室から姿を現す。
おずおずと出てきた彼女を見て、自分の見立てが確かなことに満足感を覚えた。
「似合うよ。サイズは?」
「ぴったりです。でも……」
「じゃあ、あれを。着て帰るから。ああ、あと……その靴も。サイズは二十二.五で」
何か言いたげな萌をよそに、一美は店員にさっさと指示を出していく。と、慌てたように萌が彼の袖を引っ張った。
「先生、ちょっと待って、やっぱりダメです。いただけません」
「何故」
「だって、こんなの……持ってても着ることないし……」
何とか断る口実を作り出そうとする萌に、一美はニッと笑いかけた。
「丁度いい。今度、俺の大学の同窓会があるんだ。一緒に行こう」
「ええっ!?」
突然の彼の提案に、萌は目と口を丸くする。
それほど驚くことでもないと思うのだが、彼女には晴天の霹靂だったようだ。
(こいつは、俺にとっての自分の存在ってものがどういうものなのか、ちゃんと解かっているのか?)
解かっていると思いたいが、こんな反応を見せられるとその自信が揺らいでしまう。
まだ呆気に取られている萌は放っておいて、一美はさっさと支払いを済ませると、店員が差し出した彼女が元々着ていた服を受け取った。
「さあ、帰るぞ」
*
一美の部屋に着くなり、「汚してしまうから」と、萌はワンピースからいつもの服に着替えてしまった。
文句を言う一美を完全無視して萌が夕食を作り、それを食べた。
後片付けも終わり、今は惰性で点けているテレビをのんびりと眺めているところだ。
三人掛けのソファの上で、一美の膝の上に座らせるようにして萌を自分の胸に寄りかからせている格好だが、今のようにリラックスさせられるようになるには、ひと月かかった。
人目のない部屋の中でキスをして、おずおずながら彼女がそのキスに応えるようになるには、更にひと月。
未だにそれ以上には進められていないのが、我ながら信じられない。
ぼんやりとそう思いながら柔らかな萌の髪をもてあそんでいると、不意に彼女が身じろぎをした。
「先生、大学の同窓会っていうことは、やっぱりみんなお医者さんなんですよね?」
一美の腕の中で首をひねるようにして振り返り、そう訊いてくる。
「まあ、殆どはそうだな。中には厚生省やら企業に勤めたヤツやらもいるが、だいたいは医者だ」
「小児科のお医者さんになった人って、どのくらいいるんですか?」
「まあ、多くは無いな。三人、だったか……その程度だ」
「少ないんですねぇ……でも、何で先生は小児科になったんですか?」
「さあね」
これはしばしば訊かれることなのだが、答えるのは意外に難しい。一美自身もはっきりした何かがあったわけではないのだ。
だが、ごまかされたと思ったらしい萌は、少し唇を尖らせる。
「教えたくないんですか?」
「そういうわけじゃないが……」
一美は少し迷いつつ、少なくとも自分の中にある考えを口に出す。
「子どものことでオタオタする親を見るのが好きなのかもな」
「いじわるですね」
「そうかもな」
肩をすくめてそう答えた一美に、萌はククッと小鳩が鳴くような小さな笑い声を漏らした。そして、柔らかく囁く。
「ウソです。やっぱり、先生は優しいです」
予想外の感想に、一美は返事をしそびれた。
同じことを言っても、たいていは『性格が悪い』と返されるのだが。
続ける言葉が見つからなくて、彼はただ萌の温もりと微かな重みとを噛み締めていた。
萌も、それ以上は何も言ってこず、部屋の中にはTVのドキュメント番組の語りとBGMだけが流れる。
そうやって無言のままでいると、やがて彼の腕の中で萌がコクリコクリと船をこぎ始めた。
それに気付いた一美は、その頭を自分の胸にもたれさせる。その身体に回した腕に力をこめると、彼女はクルリと寝返りを打って仔猫のように丸くなった。
胸元に感じる柔らかな寝息が心地良い。
男の腕の中でそんなに無防備になるものではないだろう、とは思っても、一美自身、彼女がそこにいるだけで、これまでに無い充足感に満たされてしまうのだ。
――ナニかしようという気が湧いてくる余地も無いほどに。
だから、いつものように、ただ、首を曲げて彼女の頭の天辺にかすめるようなキスを落とすだけにとどめる。
萌から与えられる心地良さに誘われて、一美もトロリとした眠りに墜ちていく。
こうやって抱き締めていても、気が付くと萌はいつの間にか姿を消してしまう。
彼が眠っている隙に、目覚めた彼女は家に帰ってしまうのだ。
彼には、それが不満だった。
以前、萌にはここに移るように言った事がある。
勤務が終わって遅い時間に電車に乗せるのも、他に誰もいない部屋に独りで帰すのも気が進まなかったからだ。
だが、それ以上に大きな理由は、ただ、彼女を傍に置いておきたいというものなのかもしれない。
何もしなくてもいい。
何も話さなくてもいい。
ただ、この腕の中に彼女の温もりがあれば、一美は自分でも不思議なほどに満足するのだ。
かつては、寝ている相手を置き去りにするのは一美の方だった。眠っている隙に姿を消されるとどんな気分になるのかということを、彼は萌によって初めて知らされた。
あやふやになっていく意識の底で、一美はぼんやりと彼女が常に近くにいる生活のことを考えた。
目覚めた時に、隣に彼女がいる生活のことを。




