11
「あ、一美さぁん、こっちこっち、待ってたわ」
朗から指定されたバーに赴いた一美は、その第一声にげんなりした。
その声の主は、麗しい女性ではない。裏声でシナを作ってカウンター席から手を振っているのは、朗だ。
「お前は、また、恥ずかしげもなく……」
店内の視線を浴びながら、渋面で一美は朗の隣に座る。
「よ、お疲れさん」
悪びれるふうも無く朗はヒョイとグラスを上げて、女性陣には絶大な威力を誇る笑顔を浮かべた。
だが、今それを向けられているのは、一美である。彼の機嫌には悪影響を及ぼしこそすれ、改善させることは無いのは自明のことだ。
一美は朗の向こう側に目をやり、怪訝な顔をする。
「女はこれから来るのか?」
「まあ、来るというか、行くというか」
「別の場所で待ち合わせているのか? 珍しいな」
「ちょっとした趣向がありまして」
朗はそう言って澄ましている。何か企んでいるようだが一美には見当もつかず、眉間に皺を寄せた。着いた早々に何だが、さっさと終わらせてとっとと帰りたい気分なのだ。
「取り敢えず、一杯やれよ。ビールでいいだろ?」
「ああ」
一美が頷くと、朗が片手を上げてバーテンダーを呼んだ。
じきにやってきたグラスをカチンと当てると、それぞれが口をつける。
「さて、最近の調子はどうよ」
「別に変わらないさ」
「へえ? でも、ここのところご無沙汰だよなぁ?」
探るように言う朗へ、一美は肩をすくめて答える。
「ウチは今忙しい時期だからな。遊んでる暇は無いさ」
「ふうん」
訳知り顔で相槌を打つ彼に、一美はわけもなくイラッとした。ジロリと横目で睨むが、当の本人は何食わぬ顔でビールを口に運んでいる。
「何が言いたいんだ?」
「判らない? じゃ、時間も無いし、単刀直入にいこうか」
そう言うと、朗はクルリと一美に身体ごと向き直った。
「萌ちゃんとはどうなってるわけ?」
ここで聞くとは思っていなかった名前を突然突き付けられ、一美は返事に詰まる。さりげなくビールで唇を湿らし、答えを見つけるまでの時間を稼いだ。
「どう、とは?」
「またまた、惚けちゃって。あんなにマメに院外で逢ってたのに、急にぱったり止めただろ?」
「病棟が忙しくなったからだ」
「おやぁ? 去年までは、忙しくても全然関係なくオレに付き合ってたじゃない。なのに今年はさっぱりで。お前、遊ぶけど、基本的にはオレと引っ掛けた女の子ばっかだろ? 最後はいつだっけ? 十月? その後、てっきり萌ちゃんと付き合い始めたのかと思ってたのに、それも急に途切れただろ? 丁度、斉藤さんのことがあった頃だよな? 一ヶ月以上女の子なしなんて、有り得ないじゃん、お前」
つらつらと、朗が述べ立てる。それは恐ろしいほど的確で、一美はぐうの音も出ない。どこで覗いていたのだと言いたいぐらいだ。
「俺と彼女は、別に何の関係も無い」
ボソリと、一美はそう返した。
自分の口から出た台詞にも拘らず、呟いた瞬間、何故か胸の中がモヤッとする。その不快な感覚に眉をひそめた彼に気付かず、朗はビールを口に運んだ。
「まあ、まだ『関係』は無いのかもね。でも、実際のところ、お前は彼女のことをどう思ってんの?」
「……ただの職場のスタッフだ」
仏頂面で言い切った一美に、朗はわざとらしいほどの溜息をついた。
「またまたぁ。もっとも、自分の顔は鏡を使わないと見られないからね。気付いてないのも当然か」
「どういう意味だ?」
一美は、眉をひそめて朗に問う。彼は苦笑しながら肩をすくめた。
「お前があの子を見る時、どんな目をしてると思ってんのさ」
「普通の目だろ」
「あはは。同じ目でお前がオレのことを見たら、速攻で縁を切るよ。オレはそっちの気は全然無いから」
笑い飛ばした後、一転、朗は真面目な顔になる。
「じゃあさ、お前はあの子を見て、何を思う? どんなふうに感じるんだ?」
「何って……頼りないな、とか」
「それだけ?」
「……手を貸したくなる、というか。けど、それは当たり前だろ? 彼女、頼りないし」
「頼りない、ねぇ……」
朗は正面を向くと頬杖を突いた。しばらくの沈黙。そして再び話し出す。
「オレはあの子のことを頼りないと思ったことはないな」
「え?」
「可愛いなぁ、とか、いじり倒したいなぁ、とかはあるけどね」
思わずギロリと睨み付けた一美に、朗は「うわ、怖」とか何とか呟きながら浅く笑う。
「まあ、オレの嗜好は置いといて、彼女、仕事はきっちりこなすだろ? 新人とは思えなくらい。あの……亡くなった子のことも乗り切ったし。誰かさんの助けがあったとしてもね、克服したのは彼女自身だ。医者でもナースでも、最初の患者さんに死なれたら、キツイよな。しかも、あの子、ナースになって半年そこそこだろ? ちょっと心配になるくらい、のめり込んでたし。でも、無事、乗り越えた」
「……」
「あのさぁ、誰かに何かしてやりたいな、と思った時点で、少なからずその相手のことを好きなんじゃないかとオレは思うんだよね。お前、今まで付き合った女の子達に対して、そう思ったことある? あ、ちなみに、オレはどの子に対してもそう思ってきたよ?」
ヘラヘラと笑いながら言った朗がどの程度真剣なのかは知れたものではない。
だが、彼にとっては『女は全て愛すべきもの』だから、付き合った女性全員を等しく愛していた、と言われても充分有り得る。
一方で、己を振り返ってみると、どうだろう。
――一美には、ない。
ねだられれば応じるが、彼から何かをしようと思ったのは、何かをしてやりたいと思うのは、萌だけだ。
無言は何よりも雄弁な返答で、朗は往生際の悪い一美に苦笑する。
「後は自分で考えなよ。一番肝心なことは、あの子が他の誰かのものになった時にお前がどう感じるかってことだな。グズグズしてるとホントに手が届かなくなるぜ?」
そう言って、朗が席を立つ。そして、一美の前にスッと一枚の紙切れを差し出した。
「何だ?」
「取っておきのネタ」
手に取って見てみると、簡単な地図と店の名前がある。ここから五分とかからない場所だ。
顔に疑問符を浮かべて見上げた一美に、朗は器用に片目を閉じてよこす。
「リコさん主催の合コン会場。女の子がいるよ。リコさん他、病棟ナース三人――そのうち一人は、萌ちゃん」
「は?」
突然出されたその名前に、思わず一美は手の中のグラスをカウンターに叩き付ける。そんな彼を無視して、朗はニヤニヤと笑いながら付け加えた。
「そして、お相手は若手サラリーマン――斉藤さん率いる、ね」
「何で、そんな」
「リコさんが斉藤さんに連絡取ったらしいよ。メール交換してたみたい。今頃萌ちゃん困ってるかなぁ……それとも、ちょっとお酒飲んでほんわかしてるところで、斉藤さんに口説かれちゃったりしてね」
思わず、一美はメモを握り締める。そんな彼に朗はこの上なく楽しげに笑うと、力の入った肩を二つ三つ叩いた。
「じゃあね、また明日」
言いたいことを言うだけ言って、彼はさっさと店を出て行ってしまう。
残された一美は手を開いてグシャグシャになったメモを見つめた。
斉藤貢――彼はいかにも好青年だった。自分とは、まったく違うタイプで。個人的に顔を合わせていけば、いずれ萌も彼に好意を抱くに違いない。微笑ましい、いかにもお似合いの二人じゃないか。
そう思うのに、二人が並ぶ姿を想像することは、我慢できない。
萌には、手を差し伸べたくなる。
それは認めよう。
笑っていて欲しいと思う。
それも認めよう。
決して、自分以外の誰かの隣にいる姿を見たくはない。
その気持ちが、一番強いかもしれない。
それらを全部ひっくるめたものが『萌のことが好きである』ということになるのであれば、そうなのかもしれない。
一美は、メモと会計伝票を掴んで立ち上がる。ふと伝票に目を落として、苦笑した。
「あの野郎、俺につけてった」
多分、初めから朗はそのつもりだったのだろう。
最初から、一美を萌の元へと導くつもりだったのだ。
たった二杯のビールは、このメモの代金としては安いものだ。もしかすると、今後の支払いは全て一美が持ってもいいほどのでかい借りになったのかもしれない。
会計を済ますと一美は足早にメモの店へと向かう。合コン会場に乗り込むなど甚だみっともない真似だが、構わなかった。
*
その店はカジュアルな居酒屋で、いかにも女性が好みそうな造りだ。
入り口に立ってさほど広くないその店内を見渡せば、すぐにリコたちは見つかった。
女性四人と、男性四人が相向かいで座っている。
女性陣は入り口に背を向けていたが、どれが萌なのかはすぐに判った。彼女の前には斉藤貢が座って、にこやかな笑みを萌に向けて惜しみなく投げかけている。
萌は明らかにビールと思われるものが入ったグラスを手にしていた。中身が殆ど減っていないのは、一美の言ったことを守っているのか、それとも単に味が好みではないのか。
一美はツカツカとそのテーブルに歩み寄り、グラスを口に運ぼうとした萌の手を背中越しに捉えた。
振り返った萌が、彼の姿に目と口を丸くする。
「岩崎先生! ここで何してるんですか!?」
素っ頓狂な声でそう問いただしてきたのは、リコだった。他の二人の看護師もぽかんとして彼を見つめている。それには答えず無言で萌を座らせたまま椅子を引くと、彼女の両脇に手を差し入れて立たせる。椅子に掛けられていたハンドバッグと上着を取ると、萌の手首を掴んだ。
そうして呆気に取られている斉藤を一瞥すると、短く残した。
「悪いな、彼女は連れて行く」
「ちょっと、そんなの困ります! 岩崎先生!」
リコの声は背中で聞いて、一美は萌の手を引いてさっさと歩き出す。
店を出て、道を歩き、ゆっくりと話ができるような場所を探した。
行き着いた先は病院近くの小さな公園で、数少ないベンチはカップルで埋め尽くされていたが、少なくとも、静かだ。
振り返って萌を見ると、彼女は息も絶え絶えだった。走ったわけではなかったが、歩幅の差を考えていなかったのだ。
「……悪い」
手を掴んだまま、一美は謝る。解放したら彼女に逃げられそうな気がして、放す気になれなかった。
しばらくそのままで、萌の息が落ち着くのを待つ。
五分ほどもした頃だろうか、ようやく、彼女が言葉を発した。
「何で、なんです?」
その声には明らかに怒りが含まれている。
(もしかしたら、アイツと会うのを楽しんでいたのか……?)
そんな考えに一美はらしくなく怯みそうになったが、グッと奥歯を噛んで萌を見返した。
「小宮山さん――萌」
「名前で、呼ばないでください。手も、放して」
「逃げないか?」
「……逃げません」
それでもしばらくは手放せず、萌のジトリと睨んでくる眼差しを受け続けた。やがて小さく息をつき、一美はようやく手を開く。
「すまなかった」
「謝るくらいなら、何であんなことをしたんですか。リコさん、怒りますよ?」
「……君はあの場にいたかったのか?」
「それは……」
「彼と付き合うつもりだったのか?」
萌には一美の言う『彼』というのが誰のことなのか、すぐに判ったようだ。キッと眦を吊り上げる。
「先生には関係ありません!」
「いや、ある。彼のことが好きなのか?」
一美は、咄嗟にそう訊いていた。
返ってくるのが、否定ならばいい。
だが、肯定だったらどうしたらいいのだろうか。
(また彼女を連れて、あの店へ戻るのか? 斉藤に引き合わす為に?)
憮然として自問する彼の耳に、心許なげな萌の声が届く。彼女の視線は下がり、自分のつま先を見つめている。
「いい人だと、思います」
「『いい人』? それは好きだと言うわけではないんだな?」
我ながら間が抜けていると思うほど、ホッとした声が出た。彼のその念押しに、俯いた彼女は低い声で反応する。
「好き……?」
「ああ。違うんだな?」
「わたしが誰のことを好きでも、先生には関係ないでしょう?」
微妙に喧嘩腰な口調で、萌がそう言った。
一美は、彼女のその台詞にわずかな引っ掛かりを覚える。その言葉は、つまり、誰か好きな男がいるということになるのではなかろうか。最近の萌の態度を見ていると、一美に気持ちが残っているという可能性は低い気がする。
となると――
「誰か、好きな奴ができたのか?」
思わず、ポロリと一美の口からこぼれた。
途端、萌が顔を上げる。その目に光るものを浮かべながら。
「先生は、無神経です! 何で先生がそんなことを言うんですか!?」
それは、唐突な爆発だった。
何故、彼女が怒っているのか、そして、何故、彼女が泣いているのか、一美には解からない。
「萌――」
戸惑う彼の胸を、萌は両手の拳を固めて叩いてくる。
「わたしの名前を呼ばないで! もう! わたしは! 先生が好きだって、言ったじゃないですか!」
ドン、ドン、と叩きながら、萌は言う。
ポロポロと涙をこぼしながら。
だが、泣いているにも拘らず、彼女のその目に浮かんでいるのは、どう見ても悲しみの色ではなかった。
萌の小さな拳など、全く痛くない。
むしろ彼女の手の方こそ傷めてしまいそうで、一美は自らの手のひらで彼女のそれをそっと包み込む。
「せっかく、忘れようと頑張ってるのに、何で、先生は、そういう……!」
両手を取られてしまっては涙を拭うこともできず、萌の顔はもうグシャグシャだ。
鼻も赤くなっている。
まるで子どものような泣きっぷりだった。
はっきり言って不細工なその顔に、一美は鳩尾の辺りに何かが刺さったような痛みを覚える。
思わず、彼はその泣き顔を胸に抱き寄せた。
萌は、ヒクッとしゃくりあげたきり、固まった。
その小さな頭を自分の胸に押し付けながら、一美は告げる。
「悪い。今更なんだが、俺は君のことが好きらしい」
胸の中の彼女は無言だ。
しばらく経って、声が聞こえた。
「……――は?」
華奢な両肩を手のひらで包んで、顔が見えるように距離を取る。
「多分、俺は君のことが好きなのだと思う」
「……はい?」
ポカンとしている萌が、言いようもなく愛おしい。
微かに開いているその唇を自分のそれで塞いでしまいたくなるのをこらえて、一美はそっと彼女の頬を両手で包み込んだ。
「前に君は、俺が君の事を妹か娘のように思っている、と言っただろう? 多分、そうではないと思う」
「何で」
萌が何かを言おうとするが、それ以上、言葉が見つからないらしい。
眉間に皺は寄っているが、驚きの所為か涙は止まっていて、彼はホッとする。
「何で、そんなに曖昧な言い方なんですか」
「自分でもよく判らないんだ。だが、君が斉藤といるところを想像すると、ムカムカする」
一美の台詞に、萌はしばし考え込むように首をかしげた。
「……それって、やきもちっていうことですか?」
「そうかもしれない」
彼自身納得いかないが、恐らく嫉妬以外の何ものでもないことは認めざるを得ず、頷いた。
萌の眉間の皺が、消える。
「じゃあ、わたしは先生のことを好きなままでいいんですか? わたしの気持ちは、先生の迷惑にならないんですか?」
「と言うより、むしろそのままでいてくれ。……こんな曖昧な言い方では、いやか?」
柄にも無く不安になってそう訊いた一美に、萌はフルフルと頭を振った。
「いいです。わたしは先生のことが好きですから……先生のことを好きなままでいていいなら、それでいいです」
そう言って、彼女はパッと笑顔になった――花がほころぶように。
夜の闇さえ明るく照らしてしまいそうな輝きを放つそれは、初めて見た時の彼女の笑みと、同じものだった。
痛みを覚えるほどに真っ直ぐに向けられた彼女の想いに、一美の胸が温かく締め付けられる。
もしかすると、彼の中のこの気持ちは、あの時から芽吹き始めていたのかもしれない。
ずいぶんな回り道をしてきたが、最初に彼女に笑いかけられた時から、きっと全てが始まっていたのだ。
「頼むから、俺のことを好きでいてくれ」
――ずっと、死ぬまで。
胸の中でそう囁きながら、一美は、もう一度萌を抱き締める。
今度は、優しく、包み込むように。




