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天使と狼  作者: トウリン
はじまり

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11/46

10

 日々は淡々と過ぎていく。


 一美かずよしもえから一方的な『告白』をされてから、ひと月ほどが過ぎた。

 年が明けて二月を迎えた今は冬も深まり、小児科には一年で一番忙しい時期が訪れていた。毎日数人入院し、入れ替わりのように退院していく。


 朝から子ども達の泣き叫ぶ声を聞かされて、一美かずよしの鼓膜はそろそろ限界を超えそうだった。今も、処置で幼児を一人、大泣きさせたところだ。

 小児科医は子ども好き、というふうに思われがちだが、絶対にそれは間違っていると一美は常々思っている。子どもが好きなヤツがこんなにも子どもを泣かせて、耐えられる筈がない。むしろ、子ども嫌いにこそ相応しいに違いない。


 そんなことを考えていた彼の耳に、背後から一服の清涼剤が届けられる。

「岩崎先生、この検体、どうしましょう?」

 振り返ると、もえが血液の入ったスピッツを手にして立っていた。

「ああ、それは保存に回すやつだ。伝票を書くからもう少し置いておいて」

「はい」

 そう言うと、彼女はすぐに背を向ける。

「あ、ちょっと……」

「はい?」

 呼び止められて振り返った萌が、問いかける眼差しで一美を見上げてくる。目的も無く咄嗟に呼び止めてしまっただけの彼は、何とか続ける台詞を探した。


「あ……書けたら、また声をかけるから」

「はい、お願いします。わたし、この辺にいますから」

 軽やかな返事と共に、彼女は去っていく。ごくごく自然なやり取りに、何の屈託も感じられない。

 華奢なその背中から視線を引き剥がすと、転じた先でリコと目が合った。


「何だ?」

「いいえぇ、別にぃ」

 それが「別に」という目か、と思いながらも、一美はその視線を無視してパソコンの前に座った。そうして、電子カルテを開く。


 ――手では事務処理を着々とこなしていきながら、頭の中では別のことを考えていた。


 リコがどの程度事情を承知しているのかは判らないが、萌との間がおかしくなってから、しばしばあんなふうな意味ありげな眼差しを彼に向けてくる。少なくとも、萌と一美との間の空気が微妙なものになっていることには気付いているようだ。

 萌と親しく過ごせていた日々を思い返してみると、彼女が自ら心の内を口にしたことは、酔いつぶれたあの時くらいだ。


 食事をしばしば共にいていた頃も、常に朗らかにしていて、心中を吐露するということが無かった。

 多分、一番親しくしているだろうリコにも、あまり腹を割って話すことはないのだろう。少なくとも、一美のことが好きだということは、話していないに違いない。

 だが、リコはその手のことには勘が働きそうだから、恐らく、萌の様子で薄々察していたのだろう。だから、あんなに一美を牽制していたのだ――彼の方から、線を踏み越えてしまわないように。


 ――萌と一美では、あまりにそぐっていないから。


 ある程度の洞察力を持つ者の目には、一美が萌を幸せにできるようには、見えないから。

 萌の為を思うなら、一美は近付けない方がいい人物と判断されたのだ。

 確かにそうだろう。

 一美自身も、客観的に彼と萌とを見れば、そう思う。

 萌の気持ちを知った今でも自分自身の気持ちがどんな方向に向いているのかが解かっていない彼が、いったいどうやって彼女のことを理解し、幸せにできるというのか。


 一美は、彼女に頼って欲しいと思った。そして、彼女のことを護りたいとも。


 だが、彼女を幸せにできるのかというと――


 『自信がない』


 その言葉を自分が使う日が来ようとは、一美は思ってもみなかった。

「……くそッ」

 一美は小さく毒づく。


 こんなのは、自分らしくない。

 本来の彼は、何にも誰にも執着しない人間だった筈だ。

 なのに、何故、萌のことには拘ってしまうのか。別に、日常業務に差し障りがないのだから、もうどうでもいいではないか。


 その筈なのに。


 彼女が一美のことを好きだと言ったあの翌日から、萌は、いたって『普通』だ。『普通』に戻った。雑談には応じるし、笑顔も作る。


 だが。


 壁を感じる。

 雑談は上辺だけの当たり障りの無いもので、笑顔も形だけのものだ。よそよそしさは常に付いてまわり、そこには空虚な繋がりしか感じられなかった。

 医者と看護師という関係であれば、それで充分だ。

 何の不自由も無い。

 けれども、問題はないと思いながら、一美は全く満足できていない。

 だから、ジリジリしながらも、変化を待っている。

 萌が待てというなら、一美は待とうと思った。待って、一美に対する今の気持ちを忘れ、そうして以前の彼女に戻るというのなら。


 そう思って、ふと、カルテを記録する一美の手が止まる。

 本当に、自分はそれを望んでいるのだろうか――萌が一美のことを好きだというその気持ちを、忘れることを。

 表面的な平穏を得られるようになって、時々そんなことを自問するようになった。

 だが、それに答えは見つかっていない。というよりも、頭の中にふとよぎる度、一美は深く考える前にまた頭の奥に押し込めたくなってしまうのだ。


 だから、いつまで経っても答えは出てこない。


 そしてもう一つ、自分の中のこの彼女に執着する心の意味。それもまた、未だ解答が得られぬままだ。

 思わず、一美の口からは溜息がこぼれる。


 と、ポン、と肩に手が置かれた。続いて、声。

「か・ず・み・ちゃん。溜息なんてついちゃって、どうしたのかな?」

「その読み方をするな」

「最近、ご機嫌斜めだねぇ。欲求不満?」

「黙れ」

 一美はぴしゃりとろうに返すと、再びキーボードを叩き始める。

 そんな彼の隣に朗は椅子を引き寄せて腰を下ろすと、頭の後ろで腕を組んでのんびりと話し始めた。

「最近、飲み行ってないじゃんか? 久し振りに行きませんこと?」

「ああ? ……俺はいい。忙しい」

「付き合い悪いなぁ。可愛い子も呼んじゃうよ?」

「いらん」

「あぁあ、すっかり牙が落ちちゃって……。まあ、そう言わずに。取って置きのいいネタもあるからさぁ」

「……」

 それ以上、断るのも面倒くさくなってきて、一美は溜息をもって、参加の意思を表明する。朗はニンマリと笑ってポンポンと彼の肩を叩いた。


「じゃあ、今度の金曜日ね」

「今日じゃないのか?」

「まあ、色々と都合が。じゃ、金曜日、忘れないでよ」

 能天気にそう言うと、朗はナースステーションから出て行った。

 彼の背中を見送りながら、一美は眉をひそめる。いつもは断ればあっさりと引き下がるのだが、今日はやけにしつこかった。


 一美と同様に、ああ見えて、朗も人間関係は淡白だ。

 イエスならラッキー、ノーなら残念、程度にしか感じない。


 そんな彼があれほど食い下がるとは、それほど『溜まって』いるように見えたのだろうかと、一美は少々顔を引き締めた。



   *



 昼休み、一美かずよしはコートと缶コーヒーを手に、屋上の扉を開けた。

 外は寒いが、それだけに出る者がいないので、静かな場所に行きたいと思った時には第一候補に挙がる。


 彼の狙い通り、屋上に人影は無い――と思ったが、一人、いた。


 その一人に気づいた時、一美にはそれが誰なのか一瞬で知れた。そして、踵を返して中に戻るべきか否か、迷う。

 だが、両腕を手すりに載せて前髪を冷たい風に揺らしながら遠くを見つめているその眼差しに、心が傾いた。


 ――クソ、放っておいてくれと言われただろう。


 一美は自分を罵るが、さりとて、あんな目をしている彼女をそのままにしておくことなど、とうていできない。


 意を決して、一歩を踏み出す。


「小宮山さん」

 彼の呼びかけにもえはビクリと肩を震わせ、振り返った。ついさっきまでその目にあった寂しげな色は、すでに完璧に隠されている。

「岩崎先生」

 彼女は屈託のない笑みを浮かべ、一美を見上げてくる。その笑顔が、何故か彼の心に突き刺さった。


 悲しいのなら、泣けばいい。

 つらいことがあるなら、誰かにすがればいいのだ。

 何故、そうやって自分の中に押し込めて隠してしまうのか。


 そんな、苛立ちにも似た気持ちを押し殺し、一美は手にしていたコートを萌の肩にかけてやる。カーディガン一枚では、寒風を防ぐことはできていない筈だ。

 そうして、慎重に距離を取った。

 傍に行きたいという気持ちを宥め、近くはなり過ぎない、ギリギリの距離を。


 コートを着せかけられ、束の間ホッと頬を緩めた彼女だったが、すぐに我に返ったように瞬きをする

「先生? これ、ご自分で着られるおつもりだったんでしょう?」

 言いながら慌てて脱ごうとする彼女に、肩をすくめてみせる。

「意外と寒くないな、今日は。邪魔だから掛けておいてくれ」

「でも……いえ、ありがとうございます」

 断固として受け取らないかと思われたが、彼女は素直に彼のコートにくるまった。チラリと横目で見ると、彼が着ても膝下まであるものだけに、裾は床に着きそうだ。


 思わず小さく笑いを漏らした一美に、萌は怪訝そうな目を向けてくる。

「何ですか?」

「いや……てるてる坊主みたいだな、と」

 一美の率直な感想に、萌は口を曲げた。

「身長が違うんだから、しょうがないじゃないですか。先生が大きすぎるんですよ」

「悪い」

「好きで背が低いんじゃありませんから」

「食べる割には、伸びなかったんだな」

「ジャンプしたり、努力もしました」

 そう言って、プイと横を向く。

 だが、彼女の台詞で小さいのがピョンピョンと跳んでいる姿を想像してしまった一美は、込み上げてくる笑いを噛み殺すのに一苦労だった。まるでウサギのダンスだ――似合い過ぎる。


 頭上で行なわれている我慢大会に気付いていない萌は、柵に手を掛けて空を見つめながら一美に問いかけてくる。

「先生も屋上によく来るんですか?」

「時々な。……君は?」

「わたしは、結構来ます。こういう……都会って空が見えないから、高いところに来たくなります」

「都会か? このくらいで?」

「わたしが育ったところは、少なくとも、横を向いたら空が見えます。ここは真上を向かないと見えないでしょう? それに、見えても狭いし」

「海といい、空といい、結構田舎なんだな」

「わたしからすると、そっちが普通なんですけどねぇ」


 今の萌は穏やかで寛いでいる感じで――以前のように、彼女を近くに感じる。特に意味の無い、他愛の無い会話に過ぎないのに、心地良い。

 こんなふうに萌と話していると、一美の心の中は、凪いだ海のようになる――時々、大嵐になる時もあるが。

 だが、そんなふうに感じた一美は、ふとあることに気が付いた。


 萌が以前のように話しているということは、彼に対する気持ちがなくなったということなのだろうか。

 そう思うと一美の胸の中に細波が立つ。

 元に戻ることを望んでいたというのに、彼女の気持ちが消えたのかもしれないという考えは、何故か気に食わなかった。

 その矛盾に、一美は戸惑う。

 隣を見下ろすと、萌は変わらず空を眺めていた。


 彼は、無性にその目を自分に向けさせたくなる。そして、思った。

 あの時のように抱き締めたら、また、自分への気持ちがよみがえるのだろうか、と。


 一美は視線を空に投げ、両手を硬く握り締める。その馬鹿げた考えを封じ込めるように。


「岩崎先生?」

 不意に届いたその声に、一美はハッと我に返る。視線を下げれば、丁寧にたたんだコートを差し出して、萌が見上げていた。

「これ、ありがとうございました。暖かかったです。わたし、もう戻らないと」

「ああ……」

 受け取る時に、微かに指先が触れる。


「じゃあ、お先に失礼します」

 ペコンと頭を下げて、萌は小走りで去って行く。


 いともあっさりと。


 彼女の姿が消え失せて、それと共に一美の中からポカリと何かが失われたような気がする。急に気温まで下がったように感じられて、彼はブルリと身震いした。


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