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天使と狼  作者: トウリン
はじまり

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10/46

9

 一美かずよしは苛立っていた。


 ――いや、それは正確ではない。


 正しくは、焦っていた、と言った方がいい。


 何故かといえば、五日前に中庭でもえみつぐのやり取りを一美たちが盗み聞きしてから、彼女の態度がつれないからだ。


 最初の一日目は、てっきり彼らが盗み聞きをしたことを怒っているのだと思っていた。謝罪の意も含めて食事に誘ったのだがすげなく断られ、それは当然かもしれないと、おとなしく引き下がった。

 その時の萌の断りの返事は、簡潔に、「行きません」だった。


 ――「行けない」ではなく。


 翌日、ごくごく普通にリコやろうと病棟で和やかに会話をしている萌を見て、怒りは解けたのだと一美は認識した。

 だから、再び誘いをかけた。


 ――そして、再び、断られた。


 返事は同じ、「行きません」。何か他の理由があって「行けない」のではなく、萌自身の選択で「行かない」と。


 流石におかしいと思った一美は萌に真意を問おうとしたのだが、そうする間もなく立ち去られてしまった。


 その次の日は、彼女は非番。

 住所を知る手だてがないわけではないが、まさか押しかけるわけにもいかず。


 昨日は夜勤で、今日は再び非番だ。


 明日はまた日勤で出てくるが、最早どう声をかけたらよいのか判らなくなっている一美だった。

 そんな彼を見て、ろうはいとも気軽く「頑張れよ」と安易な励ましを投げるばかりだ。そうして、いつものように萌をからかいに行く。


 同罪の筈の朗が何か言うのへ、彼女は困ったように眉をひそめながらも口元を緩めていた。

 萌に普通な態度を取られている彼を見ていると、一美は腹が立ってくる。


 何故、同じ行動を取った朗やリコとは全く態度が変わらないのに、自分の事は避けるのか。


 一美にはそんな理不尽極まりないことをされる理由が解らない。

 全く、思い当たらない。


 怒らせた理由を問えばさらに怒り出すのが女性というものだ。

 少なくとも、今まで付き合ってきた相手は皆、「なに怒ってるんだよ?」言葉は禁句に近いものだった。


 今でも十分ダメージがでかいというのにさらに怒らせた日にはどうなるか。

 だが、このままでは、八方手詰まりもいいところだ。


 かくなる上は、その禁句を口にするしかないのか。

 いや、だが、しかし。


 ――そんなこんなで、一美は同じ土俵に上がってきてくれない萌に苛立っており、同じ土俵に引き込めないでいるその事態に焦っていたのだ。



   *



 職員出入り口に立つ一美かずよしに気付いて、リコと並んで廊下を歩いてきたもえは、ハッとしたように一瞬立ち止まった。が、すぐにまた歩き出し、彼の前まで来るとリコと一緒になって会釈をする。


「お疲れ様でぇす」

「お疲れ様でした」


 陽気なリコとは対照的な、平坦で事務的な声でそう言いながら、萌はうつむきがちに彼の脇を通り抜けていく。


(くそ)

 思わず一美は胸の中で毒づいた。

 もう、ずいぶんと彼女から笑顔を向けられていないような気がする。

 診察中に子どもたちをあやす笑みは、いくらでも見た。それは、いつもと変わらない、明るく朗らかなものだ。


 そう、『看護師』としての萌は、決して以前と変わらない。

 だが、職務を離れ、一美を見つめて、彼と一緒に笑う姿は、もうしばらく目にしていなかった。


 頭を下げた萌が一美の横をすり抜けるようにして行き過ぎ、甘い髪の香りがふわりと彼の鼻先をくすぐる。

 と、脳みそよりも先に、身体が動く。気付けば、一美は身を翻して彼女の腕をつかんでいた。

 萌はびくりと身を震わせて振り返ると、捕らえられている腕を見つめ、そして一美を見上げる。


「ちょっと、岩崎先生、何やってるんです?」

 声を上げたのは、萌ではなくリコだ。

「悪い」

 呟くように謝って、一美は手を放す。

「小宮山さんと、少し話をしたいんだけど」

 彼のそのセリフに、リコは「どうする?」と問いたげな眼差しを萌に向けた。萌は一美に掴まれたところに触れながら、俯く。


「わたしは……」

「小宮山さん」

 名を呼んでジッと彼が見つめると、萌はチラリと目を上げた後、諦めたようにため息をついた。

「リコさん、お疲れ様でした」

「いいの? 待ってようか?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 萌は、リコにペコリと頭を下げる。

 そんな彼女にリコはまだ何か言いたそうにしていたが、小さく肩をすくめると一美に視線を移した。

「この子泣かしたら、ただじゃおきませんからね?」

 睨み上げてくる眼差しには、彼を牽制する色が滲んでいる。

 彼女に言われなくとも、一美に萌を泣かせるつもりは更々ない。


「そんなことするか」

 言いがかりに近いリコの言い草に、一美は眉間にしわを寄せて答えた。

 殆ど睨み合いに近い眼差しを交わし合ったが、やがて、リコは深々とため息をついた――まるで、聞き分けのない子どもの駄々を聞いた母親か何かのように。

「ホント、岩崎先生って……――まあ、いいですけど。じゃあね、萌。困ったら電話してよ」

 いかにも渋々という態度でそう言ったリコに、萌はふわりと微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、だいじょうぶです。お疲れ様でした」

「お疲れ」

 リコは萌に向けて小さく手を振ると、暗闇の中に消えていった。


「じゃあ、どこか店に入るか?」

 その一美の誘いに、萌はかぶりを振る。そうして彼を見上げると、きっぱりと言った。

「駅に着くまでです」

 そうして、彼女は先に立って歩き出す。


 駅までは、どんなにゆっくり歩いても、十五分は稼げない。前振りなしで、単刀直入にやるしかないのだろう。

「君は、何を怒っているんだ?」

 萌の気を引くことも期待して一美はズバリと訊いたつもりだったが、彼女の足は止まらない。振り向くこともせず、顔も見せようともしないまま答えた。

「怒ってなんて、いません」

「その態度は、怒っていると言わないのか?」

 今度は、返事がない。萌は、黙々と歩き続けている。


 このままでは、予想以上に早く駅に到着してしまう。焦れた一美は、萌の腕を掴んで彼に向き直らせた。

 身を屈めて萌の顔を覗き込んだが、辛うじて足は止めたものの、彼女は頑として彼と目を合わせようとはしない。

「小宮山さん、頼むから、君が考えていることを口に出してくれ。正直言って、俺にはさっぱり君が解からない。きっかけは、あの……立ち聞きしてしまったことじゃないのか? 少なくとも、俺には、それしか思い浮かばない」

 それだけ説いても、萌は頑なに口を閉ざしたままだった。


 だんまりは一番厄介だ。何が悪いのかを教えてくれなければ、謝罪も訂正もできやしない。

 一美は、彼女の肩に置いた左手はそのままに、右手を上げてその柔らかな頬にあてがった。そうして、俯いている顔を上げさせる。

 触れ過ぎだということは、判っている。だが、どうしても彼女と目を合わせて話をしたかったのだ――彼女の目を、自分に向けさせたかった。

「俺は、いったい君に何をしたんだ?」

「別に、何もしてません。先生は、何も……」

「じゃあ、何故」

「少し……少し時間をいただければ、また普通になれますから」

「少しって、どれくらいだ。一週間は待ってみた。でも、君は相変わらず俺を避けている」

「それは……一週間じゃ、無理です」

「なら、一ヶ月? 二か月?」

「判りません……」

 殆ど泣く寸前のような震える声でそう答えると、萌は再びうなだれる。


 キレイなまるい頭の天辺の、つむじ。

 そんなものまで、彼女は可愛らしく見えるというのに、一美の片手で掴めてしまいそうなその小さな頭の中で何を考えているのか、彼にはさっぱり解からない。


 怒らせたのではないとすれば、いったい、何がいけないのか。

 別の方向から考えてみようとして、一美は一つの、そして最も可能性の高いものに思い当たった。


「あいつか?」

「え?」

 奥歯を噛み締めるような軋んだ一美の声に、萌が顔を上げる。

「斉藤か? あいつと付き合い始めたから、義理立てしているのか?」

 その名前を耳にした途端、萌は今にも泣きだしそうに目を揺らした。その表情が自分の考えを後押ししているようで、一美は唇を歪めて笑みの形を作る。

「だったら、別に構わないじゃないか。今時、誰かと付き合っているから他の男とは口も利かない、なんてのはないだろう? それとも、あいつから言われているのか?」

「……」

 彼の言葉に、萌は大きな目に沈んだ色を浮かべて見上げてくる。


 無言なのは図星だからだろうか。それに、何故、そんな眼差しを向けてくるのだろう。

 奇妙に疼く胸の痛みは抑え込みながら、一美は続ける。


 努めて軽い口調で。


「俺と君との間には、そんな勘繰られるようなものはないだろう? 気にする必要なんかないさ」

 な? と再び彼女の頬に手を伸ばしたが、萌はツイと一歩後ずさった。

「小宮山さん?」

 呼びかけた彼女は、両手を握り締めて一美を見上げている。

「先生は、何でそんなにわたしに構うんですか」

「構うって、それは――」

 改めて問われて、一美は口ごもる。

 自分にとって、いや、彼女にとって一番正しい答えを出さなければならない。

 だが、それがどんなものなのかが判らない。

 ぐずぐずしていれば萌は立ち去ってしまいそうで、一美は何とか答えをひねり出した。


「……何というか、放っておけないというか、心配というか……」

 我ながら歯切れの悪い言い方にうんざりするが、仕方がない。

 では、何故放っておけないのか、と更に問われたらそれこそ答えに困るところだが、現在の一美の中ではっきりと判っていることといったらそのくらいなのだ。

 だから、それを口にする。

 だが、彼が正解だと思った答えは、萌にとっては地雷だったらしい。その答えを聞いた彼女の拳に、更に力が込められる。


 そして、萌らしからぬ低い声が、響いてきた。


「わたし……そんなふうに心配してもらう必要はありません」

「え?」

「わたし、心配なんかされなくても大丈夫です。それに、斉藤さんの事は、全然、関係ないですから」

「小宮山さん」

「わたし、帰ります。さようなら。お疲れ様でした」

 言うなり萌は踵を返して速足で歩き出す。

 どう見ても怒っているとしか思えない萌の態度に、慌てて一美は追い掛けると彼女の腕を掴んで引き戻した。

「ちょっと、待てって」

 一美の方を向かせても、萌は頑なに顔を上げようとはしない。俯いたまま、言う。


「放っておいてください」

「できない」

「手を放してください」

「いやだ」

「お願いですから」

「断る」

 何を言っても応じない一美に、キッと萌が顔を上げた。

「もう、何でなんですか! わたしは大丈夫だって、言ってるじゃないですか!」

 ここへ来て、萌の声が高くなる。ぐつぐつと煮えていた油に、一滴の雫が落ちたかのように。


「わたしは先生の妹でも、娘でもないんです! 心配してもらうことなんて、一つもないんだから!」


 ――妹? 娘?


 いったい何を言っているのか、一美には理解不能だった。萌の事を、妹などと思ったことは一度もない。

 ましてや、娘だなどと。

 ただ、彼女のことを放っておけないと思っていただけだ――ただ、護り、助けてやりたいと……

 そんな考えが頭をよぎり、一瞬、一美の手から力が抜ける。

 その隙を逃さず、萌が彼のその手を振り払った。そして、踵を返して走り出そうとする。

 ハッと我に返った一美はとっさに手を伸ばし、彼女の腕を取った。身を翻したところを引っ張られた萌が、バランスを崩して彼の腕の中に倒れ込んでくる。

 その華奢な身体を胸元に感じた瞬間、一美は、とっさに、そのまま閉じ込めるようにして腕の中に包み込んでしまった。


 小さくて、柔らかくて、頼りない。

 いつぞやと同じ感触に、彼は思わず腕に力を込める。

 その中で、彼女は肩を強張らせた。

 まるで、こうやって触れられることに怯えているかのように。


 普段の萌が明るく、影など一つも感じさせないから、尚更ふとした時に感じる彼女のもろさが一美の胸に詰まる。


(ああ、くそ)


 そんなことをしてはいけない。

 それはよく解かっているのに。


 ――彼は、自分の中に押し込むように、その小さな身体を抱き締めた。


 一拍遅れて暴れ出した萌の髪に頬を埋め、その耳元で名を呼ぶ。

 落ち着かせたかったのか、それともただ単に彼女の名前を口にしたかっただけなのか、それは彼自身にも判らない。

 その両方なのかもしれないし、あるいはまったく別の理由があるのかもしれない。

 とにかく、一美は、その名を呼んだ。


「萌」


 途端、彼女はビクリと身をすくませる。その身体が小刻みに震えているように感じられて、一美はもう一度囁いた。


「萌……?」

「――……」


 一美の呼びかけに答えたかのように発せられた萌の声は、しかし、彼の耳に届かない。

「え?」

 訊き返した彼は、今度ははっきりと聞き取った。

「何で……」


 ――泣いている?


 か細い声に、一美はギクリとする。後ろから抱きすくめている彼からは、今彼女がどんな顔をしているのかを見て取ることはできなかったが、その声は、確かに涙を含んだものだった。

 思わず、彼の腕から力が抜ける。

 と、するりと萌が擦り抜けた。

 そして一美に向き直ると、そのまま数歩後ずさる。

 その様は、肉食獣から逃れようとしている小動物にも似ていて、彼女が一美の事を警戒していることが、否が応でも感じ取れた。

 街灯を背にした萌の顔は陰になっていて、相変わらず表情が見えない。

 確かめたくて一美が一歩近づけば、萌は二歩下がった。縮まらない距離に彼が焦れた時、萌が口を開く。


「何で、先生はそんなふうにさわれちゃうんですか」

 彼女が今、怒っているのか、泣いているのか。

 せめて、そのどちらなのかが判りさえすれば、何かまともな言葉をかけられそうな気がするのに、一美には彼女の気持ちが解からない。

「それが嫌なのか? 俺が君に触れるのが? だったら、もう指一本触れないさ」

 一美のその言葉に、萌は無言で首を振る。それに合わせて、ふわりと髪が揺れた。

「じゃあ、どうすればいいんだ。俺は、前と同じように君が話すのを聞きたいし、君の笑うところを見ていたい。どうすれば、前と同じようになるんだ?」


 無様な、台詞。


 これまで、どんな女にもこんなみっともない懇願をしたことはない。

 だが一美は、自分の舌を止めることができなかった。


 そんな彼に、萌が答える。


「無理です」


「萌!」

「先生にできることは、ないですよ。先生は何も悪くないですから。先生は変わる必要はないし、多分、変えられません」

「そんなことはないだろう。何かある筈だ」

 人と相対することにおいて、萌に比べたら自分の方が遥かに欠点は多い。彼女よりも、遥かに変える余地はある筈だ。

 これまで誰かの為に自分を変えるなどという愚考は頭をかすめることすらなかったが、萌が離れていくのを阻止できるというのなら、少なくとも変える努力はしてもいいと思える。

 だが、そんな彼の決心に、萌は乾いた小さな笑い声を上げた。


「ふふ、ないですよ。だって、変わったのは、わたしの方ですもの」

「君が? どこが?」

 萌が、一歩、二歩と下がる。

「わたし、気付いちゃったんです」

 また、二歩。そして、一つ息をつく。


「……先生の事が、好きなんだって」


「え?」

 予想だにしていなかった彼女の告白に、一美の腕がだらりと落ちる。

 思わず、間の抜けた声を漏らしてしまった。その時、車道を走り抜けていった一台の車のヘッドライトが、萌を照らし出す。


 彼女の顔に浮かんでいたのは、「ほらね」と言うような、諦めを含んだ笑みだった。

「待っていてくれたら、こんな気持ちなんてすぐに忘れて、また前のようになれたんです。少し離れて、この気持ちをなくしてしまえば。なのに……」

 萌は消え入るような声でそう言って、次の瞬間、クルリと身を翻して走り去った。それはあまりに素早く、呆然と立ちすくむ一美を置き去りにする。

 一人残された一美は、染み込むような寒気の中、身じろぎもできなかった。


 ――俺を、好き? 彼女が?


 「あなたが好きよ」

 「あなたを愛してる」


 そんな言葉は、腐るほど耳にしてきた。ベッドを共にしたり、欲しいものをねだったりする時の女たちの、たいした意味を持たない、殆ど枕詞のようなものだ。

 だが、萌から投げられたその言葉は、一美から思考能力を奪った。

 彼女は、一美を好きだと言った。

 では、自分は彼女をどう思っているのか。


 解からない。


 自分の中にある『萌を傍に置いておきたい』という想いは、果たして、彼女が一美に向けてくる気持ちと同列のものなのだろうか。

 それが食い違ったままでは、きっと、萌を苦しませるだけになる。

 だから、その答えが見つからないうちは萌に近付くべきではないことは、一美の頭でも理解できた――実行できるかどうかは、別として。


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