父の餞別
「お母さん。お弁当作ってくれた?」
「もう、来月から社会人でしょ? お弁当ぐらい自分で作りなさい」
娘がパタパタと階下に駆け降りてくると、その母がキッチンで呆れたように振り返った。
母は調理の最中のようだ。朝食の用意の他に、お弁当箱にもご飯を詰めていた。
「いいじゃん。お弁当作ってもらうなんて、もう最後かもしれないし」
娘は社会人に相応しい真新しいスーツを着ていた。それでいて、子供のように母にお弁当をねだる。まさに学生と社会人の間を生きている、今の娘そのものを現しているかのようだ。
「もう。はい、お弁当。どうぞ」
「やった!」
「……」
居間の奥にいた父が、無言でカサリと新聞紙をめくった。娘と母の会話が聞こえていたのかいなかったのか、それは分からない。だがそのカサリで、己の存在を主張しているようにも見える。
「ほら、あなた。いつまで新聞読んでらっしゃるんですか?」
「何だい、新聞ぐらいゆっくり読ませてくれよ」
父は大きな音を立てて新聞をめくった。
「何言ってるんですか。この子を駅まで送ってくれるんでしょ? 早くご飯食べて下さいね」
「そうよ、お父さん。娘の社会人の門出に、何暢気に構えてんのよ」
「ああ、今日だったか? お前が家を出るのは?」
父はもう一度大きな音を立てて新聞をめくる。それは先程とは、逆の向きだった。先程めくったページを直ぐに戻したのだ。
見ればまだ朝早いというのに、新聞はもうくしゃくしゃだった。何度も同じところを見ている。いや、めくるだけでめくって、目に入ってこない。そういうことだろう。
その様子に娘と母はクスクスと笑った。
「ちゃんと、やっていけそうなのか?」
父はハンドルを握りながら、隣の助手席に座る娘を見た。無事故だけが取り柄の車が、元より事故など縁遠そうな田舎道を駆けていく。
父は先程から何度も娘を盗み見ている。特に目がいくのは、その耳元のようだ。
「大丈夫だって」
娘は窓の外を見ながら答えた。窓の外の風景を、その目に焼きつけようとしているのかもしれない。
「社会人の上に、いきなりの一人暮らしだぞ。本当に、大丈夫か?」
「だって、遠くの会社に決まったんだもん。仕方ないじゃん」
娘はやっと前を向く。
「ふん。そんな言葉遣いでは、会社は勤まらんぞ」
「ええ? 面接じゃ褒められたよ。今時の子にしては、しっかりとした受け答えだって」
「そうか。それにしても、何だ。その、耳まで開けて」
父はやはり娘の耳元に目がいく。
「だって、社会人になったら、ピアス開けていいいって言ったじゃない」
「まだ学生だ」
「卒業式は終わってます」
「月末までは学生だ。だからまだ開けちゃいかんはずだろう?」
「もう。どうでもいいじゃん。それにもう開けてから、一週間だよ。いい加減、うるさく言うの止めてよ」
「社会人というのはな、そうところを――」
「大丈夫だって。それより前見て運転してよ」
娘が呆れたようにそう言うと、
「ふん」
父は鼻を鳴らしてハンドルを握り直した。
「あはは。お母さん、着いたよ。今ね、駅。お弁当おいしかった。ありがとうね。お父さん? どうだったって? 何か、平静装ったけど、寂しかったんじゃないの? 車の中で、ずっとブスッとしてたよ。見送りも投げやりに手を振っただけだしさ。何か餞別はくれたけど」
娘は携帯の電話口でそう言うと、父がくれた紙袋に目を落とした。駅を出たところの地下街で、娘は人ごみを避けて壁による。
「帰ってきてから、ずっと不機嫌そうだったって? やっぱりね。餞別もね。もうぶっきらぼうにさ、押しつけるようにして渡してくるんだよ」
娘は父がくれた紙袋から、その餞別を取り出す。お店で包装してもらったと思しき、ラップとシールがされていた。
「餞別? 何だろうねって? お母さんも知らないの? ま、いいや。ここで開けちゃえ」
娘は携帯を肩に挟むと、奇麗にその包装をといていく。
それは小さな箱だった。重さも軽い。小物なのだろう。
出てきたのは――
「あはは。お父さんに言っておいて」
娘は弾けたように笑い出す。
そして出てきたアクセサリーを持ち上げて、目尻を軽く押さえながら続けた。
「ピアスとイヤリングはちょっと違うって」




