短編:『サイパン玉砕前夜の純愛』
1944年7月。サイパン島、タッポーチョ山の麓に隠された、暗い洞窟の奥 。外の世界は、すでに人間の住む場所ではなくなっていた。昼間の米軍艦隊による狂ったような艦砲射撃と、天空を埋め尽くすグラマンの機銃掃射の弾雨は、彼らの最後の防空壕であった岩肌を容赦なく引き裂き、無惨な生き埋めの恐怖とともに崩落させていた 。
「チッ……、運のねえ。これじゃあ、明日の朝の本隊の突撃の前に、ただの圧死だ」叩き上げの乙種幹部候補生(乙幹)出身であるS軍曹は、片目を深く帽子で隠し、暗闇のなかで雑嚢の底から重厚な鋳鉄製の塊――九七式手榴弾を引き抜いた 。軍曹は、大汗に濡れた手で震える幸子の細い身体を強くその胸に抱き寄せると、歯で手榴弾の安全ピンを躊躇なく引き抜いた 。
「幸子、目を瞑ってろ。一瞬で終わらせてやる」軍曹は手榴弾の頭部にある平らな信管を、自らの被っている頑丈な九〇式鉄帽の天頂部へと、渾身の力でガツンと叩きつけた 。カンッ、という鋭い金属音が暗い洞窟に虚しく響く。本来なら、この衝撃で内部の摩擦点火薬が燃え上がり、火薬が炸裂するはずだった。二人は抱き合ったまま、死の瞬間を待った。ドクン、ドクン、ドクン。静まり返った闇のなかで、お互いの激しい心臓の鼓動と、熱い吐息だけが秒針のように時を刻む。……三秒、四秒、五秒。だが、あの悍ましい火柱は上がらなかった。手榴弾はただの冷たい鉄の塊のまま、沈黙を保ち続けた。……不発弾。死ぬことすら、国家には許されなかったのだ。
「軍曹殿……。お水も、もう乾パンの一粒も、どこにもありません」幸子の乾いた声が、静まり返った闇に優しく響く。彼女が纏う国防色の看護婦制服は、度重なる砲撃の土砂と、流れる汗に塗れて泥まみれになっていた。「……なぁ、幸子。軍隊ってなぁ、綺麗な場所じゃねえんだ。初年兵の頃よ、上年兵の狂った規律のなかで、俺は衆道に目覚めちまった男なんだよ。男を抱き、男に抱かれ、泥水を啜ってきた、ただの狂った野郎なんだ。お前みたいな綺麗な女に、抱きつかれる資格なんかねえんだよ」軍曹は自嘲気味に笑い、自らのドス黒い過去をストレートに告白した。だが、幸子は怯まなかった。彼女は、日本軍がこの島で犯してきた地獄も、男たちの狂気も、すべてを看取り、包帯を巻いてきた女だった。
「いいえ、軍曹殿。……私は、あなたを神聖な軍人として見ているんじゃないわ。ただの一人の、傷ついた男として見ているの。……アメ公の火に灼かれて灰になる前に、あなたのその汚れた地獄のすべてを、私の身体で受け入れたいの」幸子はそう言うと、泥に汚れた国防色の制服のボタンを、躊躇なく指先で外していった。前線の土砂と汗が染み込んだ、白い木綿の素朴な下着が闇の中に浮かび上がる 。軍曹もまた、ボロボロの軍衣を脱ぎ捨てた。その瞬間、暗闇のなかに、軍曹の凄まじい肉体が露わになった。連日の飢えによって極限まで痩せ細りながらも、戦うために無駄な脂肪を削ぎ落としたその四肢は、まるでミケランジェロのダビデ像のように気高く、強固に引き締まっていた。熱帯の洞窟の蒸せ返る熱気のなか、二人の全身から滝のような大汗が吹き出し、互いの肌をヌルヌルと濡らしていく。軍曹の腰から純白の越中褌が引き裂かれ、幸子の木綿の下着の隙間から、汗と愛液に濡れる女性の最も秘められた肉体の最奥の輪郭が生々しく露わになった 。
その死の恐怖と、初めて男の地獄を受け入れる極限の快楽が交錯した瞬間、幸子の身体は激しく痙攣し、失禁の生々しい温もりがサンゴの褥を濡らした。だが、二人はその土砂と体液に塗れた生身の肌をさらに激しく貪り合い、お互いの命を身体の奥深くへと刻み付けた。すべてを出し切り、激しい息を吐き出しながら、軍曹は不気味な気配がすぐそこに迫るのを聞いた。
クチャクチャと、不気味にガムを噛みながら近づいてくる米兵たちの足音。タバコを不敵に咥えた一人の兵隊が、大声で容赦のない掃統の指示を出す声が、洞窟の外から響き渡る。軍曹はニヤリと大汗のなかで獰猛に笑った。
「……なぁ、幸子。俺は最後に、日本の、東京のあの美味いすき焼きをよぉ、腹一杯食べたかったなぁ……」男としての、兵士としての切ない本音を吐き出すと同時に、軍曹は自らをこの地獄に置き去りにした元凶――内地の絶対権力者へ向けて、最大にして最後の侮蔑の咆哮を暗闇に叩きつけた 。
「おい、東條のバカ野郎ッ!! 見てやがれ、テメエのくだらねえ『戦陣訓』なんか糞食らえだッ! 俺たちは国家の命令じゃねえ、一人の男と女の意地のままで、最高に生きて、最高に死んでやるよッ!!」
「軍曹殿……っ!」軍曹は幸子の豊かな乳房を両手で力強く、愛おしく握りしめた。これこそが、二人が生きた絶対的な証だった。
ゴォォォォォォォォッ!!次の瞬間、すべてを焼き尽くす米軍の火炎放射器の激しい紅蓮の炎が洞窟の奥までを完全に覆い尽くした 。地獄の業火が二人の肉体を包み込む刹那、軍曹の耳に最後に残ったのは、腕のなかで幸子が全てを振り絞って叫んだ、「お母さんッ!!」という、烈しく、どこまでも切ない絶叫の響きだった 。その最後の叫び声さえも、凄まじい爆音の中に一瞬でかき消されていく。激しい炎の煙が立ち込めるなか、米兵たちは何事もなかったかのように、しらみ潰しに日本軍の蛸壺を探して、そのまま音を立てて去っていった。ただ静まり返ったサイパンのサンゴの島に、彼らの本物の自由と愛の残響だけが、夕日の光の中に静かに溶けていくのだった。
(サイパン玉砕前夜の純愛 完)




