第37話:再起のレシピ。震える腕に『勝利(カツ)』を
深夜。 店の裏手にある従業員用の倉庫兼、ガルドーさんの個室。 ランプの薄暗い灯りの下、巨漢の戦士はベッドに腰掛け、自身の右腕をじっと見つめていた。
「……動けよ、クソッ」
彼は右手を強く握りしめようとする。だが、指先は微かに痙攣し、力が逃げていく。 かつてドラゴンの爪を受け止め、神経ごと断裂しかけた古傷。 治療師には「完治した」と言われたが、心の底にある恐怖心が、無意識に体にブレーキをかけているのだ。
「ザングの言う通りだ。俺はもう『盾』じゃねぇ。ただのデクの棒だ……」
部屋の隅には、埃を被った愛用の大盾『アイギス』が置かれている。 今の自分には、それを持ち上げる資格すらない。 彼は深く溜息をつき、頭を抱えた。
バンッ!!
突然、扉が荒々しく開け放たれた。
「うおっ!?」 「辛気臭い顔してんじゃないわよ、この筋肉ダルマ」
立っていたのは、湯気を立てるお盆を持った私だった。
「ル、ルネ……? なんだその料理は」 「夜食よ。……それと、『薬』だ」
私は強引に部屋に入り、小さなテーブルにお盆をドン! と置いた。 丼の蓋が、カタリと音を立てる。
「食いなさい。残したら給料から引くわよ」
ガルドーさんは戸惑いながらも、漂ってくる暴力的なまでに香ばしい匂いに喉を鳴らした。 彼はゆっくりと蓋を開けた。
――ボワァッ!
濃厚な湯気が、部屋の湿っぽい空気を一瞬で吹き飛ばした。 現れたのは、丼の縁からはみ出るほど巨大な、黄金色の揚げ物。
「こ、これは……」 「**『マッド・バイソンの特大リブロース・カツ丼』**よ」
今日のメイン食材は、ダンジョンの深層に住む暴れ牛『マッド・バイソン』の背肉。 脂身と赤身のバランスが最高のリブロースを、厚さ3センチという非常識な厚切りにし、低温と高温の油で二度揚げしたものだ。 それを、醤油と出汁を効かせた甘辛い割り下で煮込み、半熟の卵でとろりと閉じてある。
「カツは『勝つ』。……ベタなゲン担ぎだけど、今のあんたには必要でしょ?」
ガルドーさんは言葉を失っていた。 丼の中で輝く黄金の衣。出汁を吸って飴色になった玉ねぎ。そして頂上に乗せられた緑色の三つ葉。 視覚だけで「美味い」と脳が理解してしまう。
「……いただく、ぜ」
ガルドーさんは震える手で箸を取り、重たいカツの一切れを持ち上げた。 ずっしりとした重量感。 大口を開けて、かぶりつく。
サクッ……ジュワアァァッ!!
「……ッ!!!」
ガルドーさんの目がカッと見開かれた。
衣のサクサク感は、割り下を吸っても死んでいない。 そして何より、肉だ。 歯を入れた瞬間、マッド・バイソンの凶暴なまでの旨味と脂が、ダムが決壊したように口の中に溢れ出した。 甘い。辛い。美味い。
すかさず、タレの染み込んだ白飯をかき込む。 卵のまろやかさが、暴れる肉の味を優しく包み込み、渾然一体となって喉を通過していく。
「うぐっ……うぅ……美味ぇ……」
ガルドーさんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 食べる手が止まらない。 一口食べるごとに、胃袋の中心からカッと熱いものが広がっていくのを感じる。
「……熱い。腹が、燃えるようだ」 「当たり前よ。その衣には、『麻痺直し』の薬草と、『闘気』を高めるスパイスを練り込んであるんだから」
私は腕組みをして言った。
「あんたの右腕が動かないのは、筋肉の問題じゃない。『燃料切れ』よ。 恐怖も、不安も、後悔も、全部そのカロリーで焼き尽くしなさい!」
ガルドーさんは無言で丼をかき込み続けた。 ハフッ、ハフッ、ズズッ。 涙と鼻水を流しながら、一心不乱に食らう。
完食し、丼の底に残った米粒一つまで平らげた時。 ガルドーさんの体からは、湯気のような赤いオーラが立ち上っていた。
彼は自分の右腕を見た。 震えは――止まっていた。 拳を握りしめる。骨が軋むほどの力が漲っている。
「……ルネ」
ガルドーさんが立ち上がった。その巨体が、部屋を狭く感じさせるほどの圧力を放っている。
「ごちそうさん。……目が覚めたぜ」
彼は部屋の隅へ歩み寄り、埃を被っていた大盾『アイギス』を片手で軽々と持ち上げた。 ずしりと重い鉄の塊。 だが今の彼には、それが羽のように軽く感じられた。
「行くのか?」 「ああ。……ザングの奴ら、調子に乗って『夜の森』へ向かいやがった。あそこは今夜、スタンピード(魔物の暴走)の予兆が出てる」
ガルドーさんは大盾を背負い、私に向かってニカッと笑った。 そこにはもう、昼間の弱気な敗北者の顔はなかった。
「あいつらは気に食わねぇ。だが、客だ。 ウチの店の客が、不味い飯(魔物の餌)になるのを見過ごすわけにはいかねぇだろ?」
「ふふっ。行ってらっしゃい。……帰ってきたら、デザート出してあげるわ」
ガルドーさんは無言で親指を立て、夜の闇へと飛び出していった。 その背中は、どんな魔物の爪牙も跳ね返す、頼れる『鉄壁』の背中だった。




