第1話:天才料理人は、幻の食材と共に散る
「二番テーブル、甘鯛の松笠揚げ。あがり!」 「あいよ!!」
怒号のような掛け声が飛び交う厨房で、私は愛用の和包丁を一閃させた。 まな板の上で跳ねるようなリズム。銀色の刃が照明を反射し、美しい軌跡を描く。
東京、神楽坂。 路地裏にひっそりと佇む割烹『神楽』は、予約三年待ちと言われる超人気店だ。 ミシュランの星? そんなものはとうの昔に獲ったし、興味もない。私が興味あるのは、目の前の食材が「最高に美味くなる瞬間」を見届けることだけだ。
「料理長、ラストオーダー終わりました。お疲れ様です!」
弟子の若い男が、額の汗を拭いながら声をかけてくる。 私は油の匂いが染みついた白衣を脱ぎ捨て、大きく息を吐いた。
「お疲れ。シンジ、包丁の研ぎが甘い。明日はもっと刃の角度を意識しろ」 「は、はいっ! すみません!」 「あと、賄いのカレー、隠し味にインスタントコーヒー入れただろ? 酸味が立ってて悪くなかったけど、コクを出したいなら次はビターチョコをひとかけら試してみな」 「……へ? あ、ありがとうございます!(なんで食べただけで分かるんだ……この人、人間か?)」
弟子の畏怖と尊敬が入り混じった視線を背中で受け止めつつ、私は厨房を出た。
神楽坂 奏。34歳。独身。 世間では「和食界の若き女帝」だの「千年に一人の美しすぎる料理人」だのと持て囃されているらしい。 鏡を見れば、確かにそこそこの顔が映る。親譲りの色素の薄い茶色の髪に、切れ長の目。肌の手入れなんて化粧水くらいしかしていないが、毎日極上のコラーゲンたっぷりの出汁を味見しているせいか、肌荒れとは無縁だ。
だが、私にとって自分の顔など、ジャガイモの皮ほどの価値もない。 男? 恋人? 悪いが、私の恋人は今朝豊洲市場で仕入れた「大間のマグロ」であり、先週届いた「丹波の黒豆」だ。食材以上に私をときめかせてくれる雄など、この34年間でお目にかかったことがない。
「っぷはぁ……! 生き返る……」
店の勝手口。夜風に当たりながら、缶ビールを煽るこの瞬間だけが、私の休息だ。 喉を駆け抜ける炭酸の刺激と、ホップの苦味。仕事の熱が冷めていく感覚が心地よい。
スマホを取り出し、とあるSNSの画面を開く。 そこには、こんな情報が書き込まれていた。
『【速報】群馬と長野の県境、とある断崖絶壁にて“幻の岩茸”の群生を発見。その味は、アワビと松茸を足して二で割らないほどの濃厚な旨味らしい』
ゴクリ、と喉が鳴った。ビールではない。私の胃袋が鳴ったのだ。 岩茸。断崖絶壁に生える地衣類で、成長が遅く、採取が困難なため「幻」とされる食材。 だが、そんじょそこらの岩茸ではない。「アワビと松茸を足して二で割らない」だと? そんなふざけた食材、料理人として放っておけるわけがないだろう。
「……明日は定休日」
私は空になったビールの缶を握りつぶした。 決まりだ。 待っていろ、幻の岩茸。最高のお吸い物にしてやるからな。
◆
翌日。 私はなぜか、命綱なしで垂直に近い崖にしがみついていた。
「……はぁ、はぁ、なんで料理人がロッククライミングしてるんだか」
自分でも呆れる。 場所は山奥も山奥。登山道など存在しない獣道を三時間歩き、さらに道なき急斜面を登った先。 眼下には、豆粒のように小さくなった自分の車が見える。高所恐怖症の人間なら即死するレベルの高さだ。 もちろん、私は登山のプロではない。ただの料理人だ。 だが、今の私の身体能力は、オリンピック選手をも凌駕しているかもしれない。なぜなら、五メートル上に「それ」があるからだ。
「あった……!」
岩の裂け目。そこに、黒く、肉厚で、朝露に濡れて艶めかしく輝くキノコのような物体が群生している。 間違いない。幻の岩茸、『金剛岩茸』だ。
風が吹き荒れ、足元の岩が脆く崩れる。 だが、私の目には食材しか映っていない。
「よし、あと少し……あと少しで、私の鍋の中に……」
震える指先を伸ばす。 岩の窪みに足をかけ、体を伸ばす。 あともう数センチ。 あの弾力のある肉厚な身を、酢味噌和えにするか、それともシンプルに天ぷらか。想像するだけで口の中に唾液が溢れる。
指先が、ひやりとした岩茸の表面に触れた。 その瞬間だ。
――ガゴッ。
嫌な音が響いた。 足場にしていた岩が、私の体重と経年劣化に耐えきれず、根こそぎ崩落したのだ。
「あ」
体が宙に浮く。 重力が内臓を引っ張り上げるような浮遊感。 スローモーションになる視界の中で、私は必死に手を伸ばした。
命綱へ? 違う。 岩角へ? 違う。
遠ざかっていく「岩茸」に向かってだ。
「嘘でしょ……まだ、食べて、ない……っ!!」
私の絶叫は、風の音にかき消された。 走馬灯なんてものは見えなかった。 見えたのは、これまでの人生で食べてきた最高の料理たちと、これから食べるはずだった未知の食材たちの幻影だけ。
(ああ、冷蔵庫に残してきた熟成三日目の真鯛、シンジがちゃんと処理してくれるかな……) (ぬか床、かき混ぜないと酸っぱくなっちゃうな……) (ていうか、この岩茸、本当に美味しそうだったな……くそっ、一口でいいから齧りたかった……!)
恐怖よりも、未練。 食への飽くなき執着だけを抱えて、私の意識は暗転した。
神楽坂 奏、享年34歳。 死因:食材への異常な執着による転落死。
日本料理界の至宝と呼ばれた女の最期にしては、あまりにもアホらしく、そして私らしい幕切れだった。
……はずだった。
◆
「……ん」
匂いがする。 湿った土の匂いと、カビ臭い藁の匂い。 そして何より、我慢ならないほど強烈な「不味そうなスープ」の匂い。
私はガバッと飛び起きた。
「ちょ、何この臭い!? 誰が出汁取るのに失敗したの!?」
反射的に叫んでいた。 職業病だ。厨房で腐った食材や失敗作の気配を感じると、体が勝手に反応してしまう。
だが、目を開けた先に広がっていたのは、見慣れたステンレスの厨房ではなかった。 ボロボロの木の壁。隙間風が吹き込む窓。 硬くて煎餅布団ですらない、藁を敷き詰めただけのベッド。
「……は?」
状況が理解できない。 私は崖から落ちて……死んだはずだ。全身の骨が砕けてミンチになってもおかしくない高さだった。 慌てて自分の体を見る。
「え?」
白い。 白くて、細い。 三十路を超えて多少なりとも血管が浮き出ていた私の腕が、まるで陶器のように白く、滑らかになっていた。 指も細く、短い。どう見ても子供の手だ。
近くにあった水桶を覗き込む。 水面に映っていたのは、銀色のボブカットに、宝石のような紫色の瞳を持つ、人形のような美少女だった。
「……誰、これ」
私が呆然としていると、部屋の扉がギイィと軋んだ音を立てて開いた。 入ってきたのは、修道服のようなボロ布を纏った老婆だ。手には、あの異臭を放つスープが入ったお椀を持っている。
「おお、ルネ。目が覚めたのかい。三日も熱にうなされて、もうダメかと思ったよ」 「ルネ……?」 「可哀想に、まだ頭がはっきりしないのかい。さあ、栄養をおつけ。特製の野菜スープだよ」
老婆がお椀を差し出す。 目の前に突きつけられたそれを見て、私は「ルネ」だとか「転生」だとか、そんな重大な事実をすべて吹き飛ばすほどの衝撃を受けた。
スープの色は、ドブのような深緑色。 具材は、クタクタに煮込まれすぎて原形を留めていない謎の草。 そして漂う匂いは、青臭さとエグみを濃縮還元したような暴力的な香り。
私の脳内で、前世で培ったスキル【食材鑑定】のようなものが勝手に発動する。
――判定:残飯。 ――調理法:論外。 ――味:舌が壊れるレベル。
「……おばあさん」 「なんだい?」 「これ、人間が食べるものですか?」
私の問いかけに、老婆はきょとんとして答えた。
「何を言ってるんだい。この孤児院じゃ、これが一番のご馳走だよ」
プツン、と。 私の中で何かが切れる音がした。
死んで異世界に来たこと? 百歩譲って許そう。 子供の体になったこと? まあ、長生きできるならいいだろう。 だが。 不味い飯しか食えない人生なんて、死んでいるのと同じだ!!
「……ふざけんじゃないわよ」
私は立ち上がった。 華奢な12歳の体が、怒りで震える。 元・天才料理人、神楽坂奏。 いや、今はルネか。 名前なんてどうでもいい。私の胃袋が、私の魂が、美味しいものを寄越せと叫んでいる。
「おばあさん、厨房はどこ!?」 「えっ、あっちだけど……」 「借りるわよ! 私が本当の“ご馳走”ってやつを教えてあげる!!」
私はドブ色スープを回避し、部屋を飛び出した。 第二の人生の幕開けは、感動の再会でも、勇者としての覚醒でもない。 強烈な空腹と、この世の全ての「不味い飯」への宣戦布告と共に始まったのだった。




