泥仕合【東方二次創作】
迷いの竹林には、雨が降っていた。
藤原妹紅は永遠亭の軒先に立ち、濡れた竹林をぼんやりと眺めていた。そろそろ月の出る頃だが、今夜は雲に覆われていて、月はまったく見えない。
数日前、具合の悪くなった里の人間を永遠亭まで案内したことがあった。今日はその人の忘れ物を、ついでに届けに来ただけだ。看病は永琳と兎たちの仕事で、自分は単なる届け物係。たいした用ではない。
伸ばした指先に滴がつく。妹紅は手を引っ込めて、屋敷で借りた傘を広げようとした。
本音を言えば、傘を借りるのは好きじゃない。あとで返すのが面倒だし、片手がふさがるのも鬱陶しい。それでも今は使うようにしている。慧音に「雨のときは傘を差しなさい」と叱られたことが頭の片隅に残っていた。
*
傘を広げようとしたとき、背後から声がかかった。
「あら、帰るのね」
聞き飽きた仇敵の声に、妹紅は足を止めた。蓬莱山輝夜が柱に寄りかかってこちらを見ている。
「見ての通りだよ」
妹紅は目を合わせずに答えた。普段なら相手をしてもいいが、今夜はさっさと帰るつもりだった。雨の夜は休戦するのが暗黙の了解。相対すれば殺したくなるし、殺さないのなら、顔を合わせたくもない。
足を進めようとしたとき、輝夜がくすりと笑った。
「ああそう。負け戦がよほど嫌いなようね」
「っ……」
この天気じゃ火遊びはできないものね、と続ける。
「別に。おまえが泥を嫌がると思って誘わなかっただけだ」
「たまには雨の中で遊ぶのも悪くないわ。濡れるのが怖いなら無理にとは言わないけれど──」
妹紅は歯嚙みをした。雨の日に火力が落ちるのは事実だったから、荒事は避けてなるべく一人で過ごすようにしていたが。雨が怖いのかと言葉にされて、黙ってはいられなかった。
かぐや姫の澄ました顔が、雨と泥で汚れるのを見たいと思った。
穢れなき月の都から、わざわざ地上に堕ちたのだから──この手でもっと汚してやろう。
表に出ろ、と目だけで合図をする。妹紅は縁側に傘を置いて、ぬかるむ庭に下りていった。
*
しばらくして。
本降りの雨の中、妹紅は輝夜をうつ伏せに転がして馬乗りになっていた。濡れた地面に膝をついて、泥まみれの手で輝夜の頭を押さえる。
「姫が泥に沈むのは見ものだなあ……!」
顔にくっついた髪を手の甲で拭いながら、妹紅は笑いが止まらなかった。泥水が染みて視界が利かず、片方の足が不自然なほうに伸びていたが、もはやどうでもいい。
手応えが次第に鈍くなり、輝夜がぐったりと泥に沈んだのを見計らって、後ろ髪を掴んで顔を上げさせた。
「もう終わりか──」
次の瞬間、輝夜は勢いをつけて体を反転させ、妹紅の背中に手を回した。あっという間に形勢が逆転し、妹紅は頭から泥に突っ込んだ。
「ふふ。自分の顔でも見てみたら?」
後ろ髪を掴まれて泥から引き上げられる。荒い呼吸はどっちのものだろうか。息継ぎをしようと口を開いたところで、先ほどよりも深く、ぬかるみに押し込まれた。酸素を求めて体が震えている。
触れられるほどの死を前にしたとき、自分は生きている、と実感する。
*
その頃。
八意永琳は、和室で碁盤の前に座っていた。碁笥から乳白色の石をひとつ取り出して眺める。
外の世界の碁石には蛤が使われているが、幻想郷には海がない。この白石は、蛤の白を再現するために、自ら樹脂を合成して冷やし固めたものだった。もっとも、蛤の方が趣があると姫は言うのだけれど。
診療所の患者の様子も落ち着いていたし、久しぶりに、輝夜と碁を打とうと思っていた。
指導とはいえ、彼女の手つきも少しずつ様になってきた。雨音を聞きながら静かに碁を打って、二人で昔話をするのも悪くない。
呼びに行こうとしたとき、外に面した廊下で人の気配がした。
濡れた衣の擦れる音がする。障子を開けた永琳が目にしたのは、髪も着物も泥にまみれ、滴を垂らしながら廊下を歩く輝夜の姿だった。数歩後ろには妹紅もついている。
「……なにごとかと思えば」
永琳は溜め息をついた。
「ちょっとね。外で話をしていたの」
「泥遊びの間違いでしょう。姿見で自分を見て頭を冷やしなさい」
「鏡なら妹紅に見せてあげて」
輝夜が答える傍ら、妹紅は縁側に一歩踏み出して、髪の水気を手でしぼっていた。板張りの廊下に水を垂らさないのは彼女なりの心がけかもしれないが、すでに廊下は濡れていて今更である。いや、先を歩いていた姫を注意するべきだろうか。
苛立っているのは、ただ廊下が汚れたからではない。
──そんなに喧嘩が楽しいのかしら。私と碁を打つよりも。
永琳はその言葉を呑み込んだ。わざわざ口にするのは子どもじみている。姫に何かを言うのは止めて、廊下の奥に声をかけた。
「うどんげ」
「はい」
「風呂の支度をお願い。あと、洗いものを回収しておいて」
返事の後、ぱたぱたと足音が近づいてきた。そんな大げさな、と輝夜が呟く。
ほどなくして現れた兎は、姫の姿を見るなり耳をしわくちゃにして呆れ、輝夜を風呂場に連行した。
「まったく」
本降りだった雨はいつのまにか止んでいる。
残された永琳は、咳き込む妹紅に目をやる。放っておいてもよかったが、背中を丸めて苦しそうにしているのを見かねて、屋敷から水差しを持ってきて手渡した。妹紅は受け取った水を口に含むと、一口も飲まずに庭先に向かって吐き出した。
何度か口をすすいだ後も、喉と胸に手を当てて気分が悪そうにしていた。
「うえぇ。泥が詰まってて取れないんだよ」
擦れた声で不満を言う様子が、どうにも癪に障った。
「苛性ソーダでも飲んだらどうかしら」
「なんだそれ」
「詰まりがよく取れる液体よ」
妹紅は一拍置いて、どうせろくなもんじゃない、と返した。
「外で死んでくる」
そう言い残して水差しを返すと、さっさと外へ出ていった。しばらくして、庭の向こうで一瞬だけ火柱が上がる。今頃は再構築してさっぱりしたことだろう。
──碁は、今度にしよう。
永琳は碁盤を片付けながら、微かに流れてくる煙の匂いを感じていた。