イヌホオズキの宝物 前編
バタン、とどうにか扉を閉め鍵をかける。
口からはため息が漏れて、そのままずるずると座り込む。
はあー、と体中の酸素を吐き出したのではと錯覚する程に長い溜息の後、動かなくては、と軽い酸欠状態の頭が考える。
わかってる。立たなきゃいけない。動かなきゃ、それはわかってるんだ。けれど、身体が鉛の様に重く、動かない。いや、動かすことは出来るのだろうが、その気力が無い。この分だと、暫くは使い物にならないだろう。この状態に陥る事は昔からあった。けれどここ最近は目に見えて頻度が上がっている。
これは疲れている時に起こりやすい。ストレスが原因だった筈。
こういう時は出来るだけ楽な姿勢でじっとしていればいい。ある程度回復して動ける様になったら、ベッドに移動する。そのまま眠れそうなら眠る。眠れないなら諦めて起きる。
この時、無理に眠ろうとしない事。逆に眠れなくなるから。諦めて起きた方が眠りやすくなるらしい。
眠らないのならば、落ち着く事をして時間を潰す。終わっていなければその時に入浴を済ませる。
これが、教えられた流れ。
ふう、と短く息を吐き、扉に背中を預ける。扉にもたれたまま全身の力を抜いて、目を閉じる。
本当は。駄目なんだがな。王として、如何なる時でも気を抜いてはならない。それは、寝室に俺一人の状態でもあてはまるわけで・・・今の俺の姿は刺客の格好の的だろう。今日、刺客が送り込まれていなくて良かった。送られていたらこの体は既に冷たくなっていただろう。本当、良かったのか悪かったのか。
それにしても、そこまで溜め込んだ覚えは無かったんだが・・・形としては日々の小さな疲れやストレスが溜まりに溜まってさっきの出来事で爆発した。ということだろう。
あれぐらいの事、何時もなら上手く躱して流せるというのに。
とはいえ、それ以外に思いつく訳でも無い。今日何か特別な事があったという記憶もない。
となると矢張り、あれが原因だろう。
いつも通りに執務を終え、寝室に向かっているところで、女使用人数名に声を掛けられ、少し相手をしてから別れてまた歩き出す。寝室の前に一人の女が立っていて、挨拶をしてから部屋に入った。いや、入ろうとした。
扉を閉めようとしたら、何かに掴まれて、閉まらなくて。振り返ったらさっきの女が扉を掴んでいて、無理矢理閉めようとしても向こうの力が強すぎて駄目で。
全力で閉めようとすれば出来たんだろうけど、それで向こうを怪我させるわけにもいかないから出来ない。
それで迷っている隙に扉をこじ開けて女が入ってきた。
目が血走っていたし、息も荒く、ハアハア言いながら此方に迫って来た。目の前に迫って来たところでようやく意識が戻って、そのまま追い出した。
・・・間違いなくこれが原因だ。
それにしても、あれは本当に気持ち悪かった。服装から察するにメイドの様だったが・・・服がはだけすぎていて確証は無い。それに濃すぎる化粧。つけ過ぎて不快感しか与えなくなった香水。
甘かったり爽やかだったりスパイシーだったり、色々な香が混ざっている様な匂いだった。数種類の香水を重ね掛けしたのだろうか。単に重ねただけではなく、それぞれの香が強過ぎる。
あれは仕事に支障が出るだろう。苦情が出ていないのが不思議なくらいだ。いや、出ているのか?
途中で揉み消されていないか確認しておいた方が良いだろう。
思い出した事により多少の胸焼けはあるが、回復出来た。これなら、もう動けるだろう。
目を開けてゆっくりと立ち上がる。ふらつく身体を、壁に手をつく事で支えつつ、固まった身体を伸ばす。
目眩や吐き気などが無い事を確認して、覚束無い足取りでベッドまで向かう。
なんとかベッドに辿り着き、横になる。横になる、というより殆ど倒れ込むのに近かったが。
靴を脱ぎ棄て、ごろりと仰向けになる。
手を額に持って行き、脱力して目を閉じる。
数分経っただろうか、手をずらして目を開ける。
実際は一分も経っていないかもしれない。なんて、ぼう、としながらどうでもいいことを考える。
身体が怠い。重い。何かをやる気力も無い。
身体は疲れているのに、目は冴えたまま。
一向に襲ってこない睡魔に、眠れそうにないと判断する。
どうしようか。動く気力があるのならば読書や鍛錬など。やることはある。だがその気力が無い。
それに正直なところ、ここで動いたとしても身が入る気がしない。というか入らないだろう。読書は一頁も進まないだろうし、鍛錬も怪我する可能性が高い。
さて、どうしたものか。
ごろごろと、意味も無く寝返りを打ちながら考える。
「・・・」
・・・喉が渇いた。普段なる事のない状態に戸惑う。
そういえば、最後に水分を取ったのは何時だったか。夕食の後?執務の後?入浴の後?いつも水を飲むタイミングで飲んだ記憶が無い。最後に飲んだのは・・・昼前、だろうか。
どうりで喉が渇くはずだ。
元々、一度に飲む量は多くない。寧ろ少ない方だった。だからこまめに飲むようにしていたというのに。忘れていた。
寝られるならばこのまま寝てしまいたいが、睡魔が来る気配はない。
眠いには眠いのだが、寝れるかどうかは別問題だ。
仕方ない。
倦怠感に抗い、どうにか重い身体を起こす。
頭が痛い。
暫く動かずにいると、だんだんとその痛みも引いていった。そこで、漸く立ち上がる。ふらつく身体を支え、水差しの元へ動く。横のコップに水を注ぎ、ゆっくりと飲み干す。
勢いよく飲んだところで意味が無い。残念ながら自分には、急いで飲んで咽る趣味はないので。
注いだ分を飲み終え、椅子に座る。
時計はまだ0時を指していて、月光がぼんやりと室内を照らしている。
今日は明るいな。
外を見上げると、雲一つない空に丸い月が浮かんでいる。
どうやら今日は、満月だったらしい。明るいのも納得だ。明かり要らずの夜だな。
こうやって空を見て時間を潰してもいいが、首が疲れるし、なにより逆に目が冴えてしまった。このままだと、寝られない。明日も早いのだから、早く寝なくてはいけないのに。
こういう時は字を見ることが多い。
読みかけの物や気になっていた物がある時はそれを。無い時や忙しい時は機密性の低い書類の処理。
取り敢えず字を見ておくと眠くなりやすい、と思っているが実際の所はわからない。
そして、今日は特に読みたい本がある訳でも無ければ、急ぎの書類も無い。今日の分は全て終わらせ、翌日分の用意もしてある。
正直、この状態で書類仕事は出来ないだろう。内容が入ってくるか怪しい。となると、本。
たしか、隣の部屋・・・私室には古い本があると聞いた。そこなら呼んでいない本が幾つか在る筈。それでいいだろう。
椅子から重い腰を上げ、廊下に繋がっている物とは別の扉を開ける。
この先は王が使う私室であり、鍵付きの為に本人以外は入れない。
中へ入った瞬間、違和感が通り抜けたかと思えば咳き込んでしまう。
部屋の中は、どこもかしこも埃を被っていて、その白さが無人であった時間を主張していた。
埃、これが咳の理由だろう。現に今、視界に扉を開けた影響で宙を舞っている白いモノが映っている。
埃まみれの部屋。そりゃあそうだ。自分が王となってからは一度も入ったことが無いのだから。
宙を舞っていた埃が床に落ち、落ち着いてきたころ。ふと、視界に明るい何かが映り込んだ。
其方に目をやると、そこにあったのは一冊の本だった。
窓際の机に置かれた、何の変哲も無い本。明かりの無い部屋の中で、窓から差し込む月光がそれを照らしていた。
少し気になり、手に取ってみる。かなり埃を被った本。表紙の埃を払う。月光に当たるようにか動かすと、隠れていた表紙が浮かび上がった。
革製の本、表紙には交差した剣が描かれている。そして、ページの間から見える緑のリボン。本のちょうど真ん中だろうところに挟まれている様だ。
表紙に描かれた剣の絵、そこを指でそっとをなぞる。当然の事だが、何も無く。ただ指に少しざらついた感触があるだけだった。
どうしようか。ここに在るという事は、この本はあの男の私物だ。見てもいいが、気分が悪くなることは容易に想像できる。
見ない方が良い。わかってはいるのだが気になってしまう。
見た方が良い、そんな気がする。根拠のない言葉が頭を支配した。
少しだけ。
そう、自分に言い訳をして表紙に手を掛けた。
チクタク、チクタク
時計の音に頁を捲る音が重なった
―――過去を刻む時計が、動き出す




