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第18話「自身の日記をご一読ください」

 ほんの少し一人で考えさせて、とクナは言ったが、もしかしたら最低でも一晩くらいは思い悩み、考えを巡らせるかもしれない。配偶者が別人に変わってしまったかもしれないということは、最低限それくらいの衝撃を伴うのが自然だ。

 さてこれからどうしたものか、最悪この家を出ていかなければならないかな、と俺が暗い考えを巡らせ始めた頃。ゆっくりと寝室の扉が開き、彼女はまた部屋に戻ってきた。その間およそ2分半。忘れ物かな、と思ったが、その決然とした表情を見る限り、どうやら違う。即席ラーメンがお湯で戻るよりさらに短い時間で答えに辿り着いて戻ってきたらしい。

 あまりの早さに絶句していると、寝台に腰掛ける俺の正面、先程とちょうど同じ位置関係を保ち、決然とクナは告げた。


「あなたの言うことを信じる」


 強い言葉。しかしどこか柔らかいその言葉に、俺は慎重に頷いた。続く言葉を待つ。


「あなたの話には真実があると思った。思いつきや妄想とは思えない。できる限り丁寧に考えたつもりだけど、あなたは本当にカイチ・アキラ、なんだと思う」

「うん。信じてくれてありがとう」

「でも、あなたは同時に、カイ・アキルでもある。その身体は間違いなくアキルのものだし、あなたはアキルの記憶を持っている。何より、あなたの人格は、心は……私の大好きな、アキルそのものなんだ」


 泣きそうな顔で、クナは笑った。

 「あなたはアキルでもある」。言われて初めて気が付いた。確かに、この一日でアキルの記憶が徐々に自身に馴染んできた感覚はある。それは、その記憶にあるアキルの考え方や価値観、姿勢、これまで下してきた決断が、自分にとってほとんど違和感がないためだ。もし自分が同じ経験の下で同じ状況にあれば、ほぼ同じように振る舞い、同じ道を歩んできただろうという確信に近い感覚がある。一卵性の双子だってこうはいかないんじゃないだろうか。「もう一人の自分」とでも呼ぶしかない。

 これを踏まえれば、少なくともクナにとって、子ども達にとって、或いは周囲の友人・知人らにとっても、俺は「別世界の記憶を持った」アキルであるに違いない。


 クナは一つ息をつくと、考え込む俺の隣に腰を下ろした。並んで座ると、彼女の顔は俺の肩くらいの高さになる。その手は膝の上で固く握られており、視線もその辺りに落とされていた。


「だから、私はあなたをアキルだと思って、支える。あなた……とアキルに、何が起こったのかを一緒に突き止める」


 快刀乱麻を断つという表現がぴったりくる、最短経路を走るような明快な結論を聞いて、月音と話しているようだと思った。それから、クナは少し上目遣いにこちらを見る。


「あなたの世界のツクネさんだったら、同じようなことを言うと思う?」


 今自分が考えていたことと同じことを問われ、俺は驚きに目を見開いた。それを受けて、ようやくクナから自然な笑みが零れた。


「当たりだ。あなたとアキルの関係は、私とツクネさんの関係と同じなのかもしれないね」

「……そう、だな。そうなのかもしれない」


 ようやく頷く。俺の意識は図らずも世界を飛び越えて、こちらの世界の月音であるクナと出会った。出会うことができた。それはとても、心の底から、幸運なことだと思う。なぜ俺の意識がこちらの世界に転移してしまったのか、なぜ俺と俺の家族だけがこちらの世界に鏡写しのように存在しているのか、一切が謎のままだ。しかし、それでも。


「ありがとう」


 俺はクナと、それから自分を取り巻く運命に感謝した。


「どういたしまして」


 クナが悪戯っぽく笑い、俺の背中に触れる。そのままぽんぽんと何度か優しく叩く仕草を繰り返していると、不意に俺の手元から光が溢れた。


「え、何」


 光を放っていたのは「会長の指輪」だった。澄んだ青、爽やかな明るいスカイブルーの光は放射状に室内を淡く照らし出した後、すぐに収束するように形を変え、指輪の燐曜石から一筋の細い直線となって伸びた。何かを指し示すかのようなその先には、簡素な机と書棚。目を凝らせば、分厚い本の背表紙にその光の糸は繋がっているように見えた。天空に浮かぶ城でも指しているのかと身構えたが、思ったより目的地が近くだったので安堵する。

 思わずクナと顔を見合わせる。クナが頷いたので、俺達はそっと立ち上がって警戒しながら光の示す方へ歩み寄った。


「これは――日記?」

「うん。アキルが毎日書いてるやつだ」


 本と見違えた重厚な装丁のそれは、アキルの書いていた日記だった。俺が指輪の左手でそっと触れると、青の光は弾けるように消えた。

 俺は、クナにも見えるように机の上に日記のページを開き、魔術具の卓上灯に明かりを灯した。アキルの記憶では、この日記は毎日数行程度「どんな業務を行った」「誰と会った」など短い記録と感想を残しているだけの特に面白みのない文書である。誰に見られても困るものではないので机上の書棚に無造作に並べてある。それに何の意味があるというのか。

 適当に開いた箇所から未来に向かってページを繰り、やがて昨日の日付まで到達した。昨夜アキルが書いた記録である。末尾には「明日の予定。9時30分からPTA会長引き継ぎ。ミグリャ・カクガル氏と会う。於、学校、PTA室」と簡潔に記載されている。俺の持つアキルの記憶には、このような日記を記載したという事実は含まれていなかった。ごく直近の記憶は受け継いでいないのだろうか。

 とはいえ、ここまでは想定通りだった。次のページを捲って、俺とクナは息を呑んだ。

 今日の日記が、ある。いや、後半の文章はちょうど書いている途中のように見える。リアルタイムに淡い光の軌跡が輝き、文字として定着すると光を失った。


「5月15日。

 目覚めると別の世界だった。俺は海地陽という人物になっており、同様にクナは月音、セーラは星羅、スバルは昴、アルタは或斗という少しだけ違う名前の同じ人物として存在していた。最初は夢を見ているのかと思ったが、そうではなかった。別の世界に、エデュカシアと同じ家族がいたことになる。

 クナにそっくりな月音が俺の額に手を触れた瞬間、陽の記憶が頭の中に溢れた。言語はもちろん、これまでの陽の経験のすべてだ。これにより、何とかこの国の言語である日本語でコミュニケーションを取ることができるようになった。陽は、見た目も性格も考え方も自分と怖いくらい一致していて、他人とは思えない。おかげで俺は自然に陽として振る舞い、仕事や家事もこなすことができたと思う。自分がもう一人いるような不思議な感覚だ。

 それから驚いたことに、この世界にもPTAが存在しており、既に要は会長として3年以上の経験を有していた。この点では遥かに俺の先輩だ。……」


 日記はこの世界の文字で書かれていて、クナも読むことができた。二人でこの記述に目を走らせ、再度顔を見合わせる。


「これ……!」

「俺とアキルが……入れ替わってる、ってことか」


 日本に、俺の家族の元に、アキルがいる。

 尚も書き足されていく日記から一度目を離し、俺は天を仰いだ。

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