ボクのかわいい幼馴染が、おっぱいが溶けるかもしれないと気にしている。
夏は暑くて大変でしたが、寒くなるとやっぱり夏が恋しくて、そんな気持ちで書きました。
いつだってカオスは突然やってくる。
「おっぱいって、溶けるのかな?」
虚ろな目をした陽菜がそんなことを呟いたのは、あろうことか英語の授業の真っ最中だった。
ここ連日、一日の最高気温は35℃をゆうに超えていて、本日の最高気温はなんと39℃の予報。人間が人間ではいられなくなるレベルの暑さだ。
だからだろう、陽菜がぶっ壊れたのは。
28℃に設定を固定されたままのエアコン君から、歯車が外れかけているような音が、無常にも静まり返った教室に響いている。
まるで、オレはしっかりと仕事をしているぞと、そう力強く抗議をしているかのようだ。
もちろん彼の頑張りは理解している。しているが、如何せん効果が薄い。
まず彼の図体は、どう見てもこの広さの教室に対応している大きさじゃないのだ。
それに加え、28℃という設定が、教室に詰まった人間の熱にまったく勝てていない。狭い空間に閉じ込められた人間の熱気とは、とかく凄まじいものだから。
朝の通勤でギチギチに人が詰まった弱冷房車のように、人の熱が教室に蔓延している。
さらにこの辺りの席は、エアコン君の微風すら当たらない。こんな状況じゃ、陽菜が壊れてもおかしくはない。
さて、クラスメイト全員が貝にでもなったのだろうか。誰一人として声を発することがない教室は、まるでお通夜のような空気感だ。
察するに、陽菜の先の発言は、たぶんここにいる全員に聞こえてしまったことだろう。
よりにもよって、Miss倖田 (英語の先生、帰国子女だったらしくいつも得意げに海外の話しをしていて、なぜかMiss倖田と呼ぶことを強要してくる49歳)が、自慢の発音を披露しようと、咳払い一つで教室を静めた、丁度そのタイミングだったのだから、運が悪いことこの上ない。
「……ん、ぇ、おっぱ……え?」
Miss倖田(英語の先生以下略の49歳)の間抜けな声は、水底のような教室の空気に吸収されてしまった。
こんな地獄みたいな空気は、たとえどんなに優れたコメディアンにも、どうすることもできないだろう。
一応だが、現実逃避の意味も兼ねて、ここで陽菜の弁護をしておこう。
陽菜の名誉のために言っておくが、普段は『おっぱい』なんて、絶対に言わない子なのだ。
明るいブラウンのボブヘアに、太陽みたいなあったかい笑顔が魅力的な、いたって普通の女の子。
大勢の前で目立つのは苦手だけど、慣れた相手には朗らかな素を見せてくれる癒し系。
クラスに一人いるだけで、教室にほんわかした平和を提供してくれる。ペンギンの赤ちゃんとか子犬とか、動物に例えるならそんな女の子。
それが陽菜。
脳内ピンク一色で、普段から異性の裸のことだけを考えている、クラスメイトの田中君なんかとは違う生物。たとえどんな間違いを犯そうと、いきなり下ネタなんて言うわけがない純情な女の子。
それが陽菜。
見ただけでバストサイズがわかり、授業中に女子を観察しては、ノートにサイズを記録しているような、田中君なんて生物とは断じて違う。授業中はしっかりと先生の話しを聞いている優等生。
それが陽菜。
女子の中でも小柄な方なのに、実はクラスで一番おっぱいが大きい女の子。
それが陽菜だ。
うん、よし……。
いい加減、海の底にいるようなこの空気感をなんとかしないといけない。その義務がボクにはあるのだろう。
陽菜は隣の席だし、認めたくはないけれど、先の発言をした陽菜は、あれからずっとこっちを見てる。どうやら、ボクに質問しているということで間違いないらしい。
それに、陽菜とは小学生の時からの長い付き合いだから。昔からよく懐いてくれているカワイイ陽菜を、このまま下ネタ大好き娘にするなんて、ボクの正義が許さない。
覚悟を決めて陽菜の虚ろな目を見返す。
ブラックホールのような瞳が二つ。先ほどからずっと、ぶれることなくこちらに向けられている。
それが表すのはただ一つ、陽菜がボクの答えを待っているということで、ボクがどうにかしなければならないことは明白だった。
「はぁ?」
とりあえずはジャブ。これで陽菜が正気に戻って恥ずかしがり、リンゴみたいに染まった頬を、教科書で隠して一言。
『な、なんでもないから忘れて!』
なんて、かわいらしく言ってくれたらそれでいい。陽菜の可愛さにやられて、皆さっきの発言は忘却してくれるだろう。万事解決。世は全て事もなし、だ。
「あのね、おっぱいって溶けるのかなって、気になっちゃって」
だが、現実はいつだって厳しい。一縷の望みにかけて確認してみたわけだが、無情にも天国への細糸はぶった切られた。それはもう忌憚なく、バッサリと。
「ほら、おっぱいってふわふわしてるから」
だからなんだ。なにがほら、だ。意味不明だ。
「ごめん陽菜。もう一回だけ、なんて言ったの?」
ゆるゆるな覚悟しかしていなかったボクは、奇跡を信じてもう一度問いかける。頼みます神様仏様、早く陽菜を正気に戻してください。いつもの子犬のような陽菜を返してください。
「だからね、おっぱいって溶けちゃうのかなって」
どうやら神は休暇中らしい。プーケットあたりでのんびりやってるんだろう、クソッたれ。
「うっ……ふぅ……」
ボクが心の中で神様に中指をたてている隙に、田中君がイったらしい。なんて汚らわしい生物でしょう。
これ以上陽菜に『おっぱい』とは言わせてはいけない。ボクが陽菜を薄汚い欲望から守らなければ。
「陽菜、とりあえずもう、おっぱいって言わないで」
「え? なんで? なんでおっぱいって言っちゃダメなの?」
「え、こだわるの? どうしてもおっぱい言いたいの?」
「だって、おっぱいが溶けちゃうのか知りたいから」
「いや、他に言い方あるじゃん。ていうか何なのその探求心。怖いんだけど」
「おっぱいの他の言い方? おっぱいの他の言い方ってなに?」
「ちょっとそこ! shut up! いい加減にしなさい!」
Miss倖田だ。この教室の誰よりも早く正気を取り戻したらしい。突如始まった陽菜の奇行に、クラスメイトたちはまだ呆然としているというのに、さすが年の功である。
丁度いい、このままMiss倖田に味方して、陽菜をなんとかしてもらおう。ボクはもう疲れた。
「Miss倖田! 陽菜がおかしいんです! なんとかしてください!」
「え、えぇ! 任せなさい!」
こんな意味わからんことで怒られるのだけは勘弁願いたい。とりあえず、ボクも被害者ですっていう面で、そそくさとMiss倖田の後ろに隠れる。
Miss倖田は頼られて多少気分を良くしたのか、まっすぐな胸を張って陽菜の前に立ちはだかった。その姿は頼もしく、ボクは心の中で旗をふって応援することにした。
「授業中になんてハレンチな! 恥を知りなさい!」
「でもMiss倖田、私、気が気じゃないんです。おっぱいが溶けちゃうんじゃないかって」
「何を馬鹿なことを言っているのですか!? さっきから、その、お、お、」
「おっぱいですか?」
「シャ、ラーーーープッ!!! おっぱいおっぱい言わないで!!!」
さすがMiss倖田。声量が段違いだ。普段から教壇に立って声を出しているからか、Miss倖田の声は綺麗に響き渡った。たぶん、余裕でとなりの教室には聞こえたことだろう。その事実は、空気を読んで黙っておくことにする。
「おっぱいしか言ってないです。おっぱいおっぱい言ってないです」
「んあぁあああーーーー!!!!」
「んっ……ふぅ……」
Miss倖田の絶叫が響き、田中君が二度目の吐息をもらす。
このままではダメだ。Miss倖田は、早くもいかれた陽菜に壊されてしまいそうだ。
なんとかしなければいけない。けれどボクなんかに何ができるというのだろう。
いや、なにもない。こうなったら、それっぽい言い訳を考えて傍観しているのが吉だ。
Miss倖田を信じよう。
「溶けるわけないでしょ! 何なのいったい!?」
「でもこんなに暑いし、それに、Miss倖田を見てたら不安になって」
「……は? なんでー」
「私のおっぱいも溶けちゃって、Miss倖田みたいになったらどうしようって」
「はぁ!?」
血管が何本か切れた音が聞こえたような気がした。
目を見開くMiss倖田。マジで怖い。あれはガチだ。ガチギレしてる。
でも仕方ない。年下の巨乳に煽られたら、キレても誰も責めれない。
だってかわいそうだもの。
まぁ絶賛ぶっ壊れ中の陽菜は、煽ってる自覚はないだろうけど、これでは戦争不可避だ。
血走った瞳が陽菜をとらえる。それでも当の本人はまったく気にせず、自分のふくよかな胸にそっと手をのせた。じゅうぶんなタメのあと、ゆっくりと口を開く陽菜。
その瞬間、さざ波のように押し寄せてくる嫌な予感。
直観に従い陽菜を止めようとするが、もう遅かった。
「溶けちゃったから、Miss倖田の胸はそんな可哀想な感じなのかと思って」
言葉はナイフだ。時として、それは実物よりもはるかに鋭くなる。研ぎ澄まされたそれは、やわい心に容易に突き刺さってしまう。
「うっ……」
泡をふいて膝から崩れ落ちるMiss倖田。
糸が切れたマリオネットのようになったそれは、もうしばらく動くことはないだろう。
変わり果ててしまった頼りになる先生に、ボクはそっと手を合わせた。
どうか成仏してください。
かわいい陽菜のことは、どうか恨まないでやってください。悪気はないんです。たぶん。
「で、どうなのかな? おっぱいって溶けちゃうのかな?」
ゆらりと立ち上がる陽菜。生気の感じられない真っ黒な双眸にボクの姿が映る。
あれ、いつからホラー映画になったんだ?
瞬き一つせずボクを見つめながら、一歩一歩近づいてくる陽菜。正直メチャクチャ怖い。
先生がやられた今、もう頼れるのは、 日々一緒に切磋琢磨しているクラスメイトたちしかいない。
ボクは助けを求めて、みんなに視線を向けた。
誰一人として目を合わせてくれなかった。
クラスメイトとの間にある絆が希薄すぎて泣けてくる。
「ねぇ、おしえてよ」
気がつけばほんの鼻先、触れそうなほど近くに陽菜の顔。
ボクは蛇に睨まれた蛙よろしく一歩も動けない。
ちょっとでも顔を前に動かせば、陽菜の唇に触れてしまいそうだ。
いやダメだ。
何を考えているんだボクは、おそらくは正気じゃないだろう陽菜にそんな、そんなこと……。
ちょっとだけなら、いいかな?
「ねぇ聞いてる?」
「あ、はい。もちろん」
「じゃあ教えてよ。おっぱいって溶けちゃうの?」
いかんいかん。ボクも暑さでおかしくなっていたらしい。陽菜のプルプルの唇に吸い付くところだった。
自分の欲望は置いておいて、まずは陽菜をなんとかしなければ。
この状況を解決するには、まず状況を整理することが必要だろう。
一つ一つ事実を確認して、問題を明るみにしていく。
その単純作業の先に、きっと解決の糸口があるはずだ。
教室中からクラスメイトたちの視線を感じる。誰もがこの惨事をなんとかしてほしいと、ボクに期待のまなざしを向けてくる。
ボクはその期待を一身に背負い、慎重に口を開いた。
「陽菜、その前に聞いていい? なんでそんな事知りたいの?」
「え、だ、だって、それは!?」
いきなりビンゴだ! 奇行が始まってから、初めて陽菜が感情を表した。
頬を染めて視線を右往左往させているその姿は、普段の陽菜っぽくて実にかわいい。この線で突き詰めていけば、すぐに正気を取り戻してくれるかもしれない。
「おしえてよ陽菜」
「え、えっと、えっとね」
「おっぱいが溶けるのか、どうして陽菜は知りたいの?」
「そ、それは、それはね」
ボクは今、見事に立場を逆転していた。
今や陽菜は、普段の子犬系かわいい女子に戻っていると言っても過言ではない。どんな理由で聞きたがっていたのか知らないけれど、狂っていても恥ずかしいと感じてしまうような理由らしい。
羞恥心のおかげで、陽菜は正気に戻りかけている。このチャンスを逃す手はない。このまま畳みかけるようにして、きっちりと正気に戻してあげよう。小動物系女子という陽菜の立場は、ボクが守る!
「恥ずかしがらずに言ってごらん。ほら」
「ぅ、うん。あのねー」
それから深呼吸を一度挟んだ陽菜は、恥ずかしそうに目をそらしたまま。ぽそりと声をもらした。
「暑さでおっぱいが溶けちゃったら、もう見てもらえないかもしれないと思って」
頬を染めた陽菜が、ありえんくらいかわいい上目遣いで見つめてくる。
けど、これはいったいどういうことかな?
その言い方だとまるで、ボクが普段から、陽菜のおっぱいばかり見ている変態みたいじゃないか。
心外だ。まことに遺憾である。
「え? どういう意味?」
「だって、いつも私のおっぱい見てるでしょ?」
「え? なに? 急に何言ってるの?」
「私気づいてるんだよ? 話してるときも、私の目じゃなくて、おっぱいを見ながら喋ってるの」
「そ、そそんなわけないじゃん! そんなの、人としてあるまじきじゃん!」
「でも、今もおっぱいに話しかけてるよね?」
陽菜の言葉にハッとさせられる。
確かに今、ボクの視界には、陽菜の大きな胸しか見えていなかったから。
咄嗟に言い訳を考える。
けれどもう遅い。
胸を見ていたことは、バッチリ陽菜に見られているから。
どうにもできずに慌てていると、状況はさらに悪化していく。
陽菜が何故か泣きそうになっていた。
「やっぱり、おっぱいが大好きなんでしょ?」
「え、いや、そんなことは」
「そうだよね。大きなおっぱいなら、誰のでもいいんだよね?」
「ちょっ!? そんなことないよ!?」
「どうせおっぱいが大きいから、私にも優しくしてくれるんでしょ!?」
「お、おちちついて!」
「おっぱいが溶けちゃったら、私のことなんて忘れちゃうんでしょ!?」
「そんなわけないから!」
「私じゃなくて、おっぱいだけが好きなんでしょ!?」
途中から興奮状態になっていた陽菜。
思いのたけをぶちまけて、肩で息をしている彼女の瞳から、輝く雫がポトリと落ちる。
世界のどんな湧き水よりも綺麗なそれが、一つ、また一つと落ちていく。
「ぅ、ぅわぁあああん! おっぱいのない私なんてぇ、なんの価値もないんだぁ、うぁああん!」
両の瞳から大洪水を起こして、幼子のように泣き叫ぶ陽菜。
状況は悪化したかもしれないが、陽菜の発言からわかることもあった。
それは、おっぱいおっぱいと狂ったように陽菜が言っていたのは、どうやらボクのせいらしいということ。
ここまで来たら素直になろう。
そうだ。ボクはおっぱい星人だ。
陽菜の大きなおっぱいに、いつも視線が釘付けだ。気づかれていたとは羞恥の極み。
しかも、抑えられないボクの衝動のせいで、大切な陽菜を狂わせてしまった。
陽菜が壊れたのは、暑さなんかのせいじゃない。
ボクのせいだ。
陽菜がおっぱいおっぱい言い出したのは、ボクのせいだったんだ。
ボクが責任をとらなければいけない。でも、大号泣する女の子の扱いなんて、ボクは知らない。
こんなおっぱい星人のボクに、どうすれば陽菜を泣き止ませることができるだろう。
途方に暮れ、おろおろしているだけのボクの背中を押してくれたのは、頼りになるクラスメイトたちだった。
「陽菜を泣かせんなぁ!」
「羨ましいぞかわれ!!」
「男ならバシッと決めろ!」
「巨乳ばっかみんな! 貧乳も見ろよ!」
「うっ……ふぅ……」
「あ? なんか臭くね?」
「これは銀杏の香り。銀杏の独特の臭さは秋に強くなるんだ」
「今は夏だからちょっと黙ってろよ田中」
温かい声援? うん、温かい声援に後押しされて、ボクは責任を取る覚悟を決めた。
この事態を引き起こした責任じゃない。もっと大きな、これからの将来に関わる重大な責任を。
「ねぇ陽菜、陽菜はボクのこと、好きなの?」
小さく頷く目の前の少女。
目に涙をにじませて、それでもしっかりとボクを見るその瞳には、はっきりと力強さが宿っている。
きっと、もうずいぶんと前から、陽菜は正気に戻っていたのだろう。
今ボクの目の前にいるのは、かわいいだけの女の子じゃない。
決意をたたえたその姿は、純粋に綺麗で、大人びた美しさが宿っていた。
「不安にさせてごめん。ボクも陽菜が好きだよ」
「……おっぱいが大きいから?」
「それだけじゃないよ。小さい頃から一緒にいたから、陽菜の好きなところはいっぱいあるんだ」
「ほんとに?」
「もちろんおっぱいが大きいところも大好きだよ」
「……」
ちょっと間違った。一つ大きく咳払いをして誤魔化しておく。
「それに安心して、おっぱいは暑くても溶けないよ」
「ホント!?」
「ホントだよ。だから陽菜のおっぱいがなくなることなんてないんだ」
「よかった。ぅぅ、よかったよぉ」
さっきまでとは違い、今度は嬉し涙を流す陽菜を、ボクはそっと抱きしめる。
少し身体を震わせた陽菜は、だけどそのままボクに身を任せてくれた。
「陽菜、ずっと前から好きだったよ」
「私の方が、ずっと前から好きだったもん」
ボクの腕の中ではにかむ陽菜。
狂ったロボットのように、おっぱいと連呼していた陽菜はもういない。
安心しきったとろけた表情に、ボクは心から安堵した。
固唾をのんで見守っていたクラスメイトたちから、学校中に響くほどの歓声があがる。
今この教室は、ボクたち二人が結ばれたことを祝福するムード一色で、ついさっきまで、教室を凍りつかせていた陽菜の奇行は忘れ去られているようだ。
長年秘めていた想いを伝え、ボクは陽菜と結ばれた。
騒動は解決。ハッピーエンド。世は全て事もなし、だ。
「陽菜さん。ちょっと、話があります」
「……え?」
復活したMiss倖田に、陽菜は連行されていった。




