イェス・オア・ノー
「ねえ、守屋くん。イエスかノーで答えて」
三分咲きの桜の下で、夏希は無邪気な笑みを浮かべた。
高校の卒業式が行われた今日は、卒業生たちの節目を祝うかのように穏やかな晴天だ。昨日はもう少し冷たい風だったが今日はわずかながらに南風が吹いており、記念撮影のために長らく校舎の外にいてもそれほど寒さはつらくない。
夏希は第一志望の大学に見事合格し、四月から大学生になる。そのため、夏希のひとつ下の学年である守屋悟がこの高校の敷地内で夏希と顔を合わせるのは、今日が最後だ。今までは一日の中で最低一回くらいは顔を見ることができたが、明日からはもう、容易に彼女と会うことはできない。
「いい?」
何を企んでいるのか、夏希は楽しそうだった。先ほどまではクラスメイトたちと涙ぐみながら写真を撮っていたのに、悟を校舎の陰のこの場所に連れてきてからはずっと笑顔だ。
悟が一学年先輩である鈴木夏希と出会ったのは、去年の春先に行われた球技大会の運営委員会の会合だった。クラス中から半ば押し付けられるように運営委員にされてしまった悟が、第一回目の会合が開かれる空き教室に行って特に深く考えずに着席したところ、その隣に座ったのが夏希だった。学年は違ったが、球技大会の準備を進めるうちに自然と話す機会が多くなり、「ほかにも鈴木さんがたくさんいるから名前で呼んでいいよ」と気さくに言われたこともあって、悟は「夏希先輩」と呼ぶことにした。
夏希は静かで優等生だ。悟のクラスメイトの女子のように何かに興奮して甲高い声を出すこともなければ、何かとつけて面倒くさがってサボろうとするようなこともない。頭の回転が速くて達観していて、周囲のことをよく気遣える。だが決して不愛想というわけではなく、何か面白いことを見つけると子供のようにはしゃぐところもあった。
その面白いことというのが、悟をからかうことだ。悟をからかう時の夏希は、いつも無邪気に笑っていた。冷たい缶ジュースを不意打ちで悟の頬に当てたり、ふいに悟の手を取って握って「マッサージしてあげるね」と言って笑ったり。
お気に入りの後輩で遊んでいるだけだろう。毎度悟が、若干鬱陶しそうな表情をしつつも完全に嫌がることはなく「またですか、夏希先輩」と言ってクールにあしらうので、その反応が面白いだけだろう。
最初はそう思っていた悟だったが、夏希がそうしてちょっかいをかけてくるのはどうやら自分だけのようだと気付くと、いつしか夏希のことを意識するようになってしまった。そして今ではすっかり、彼女のことを一人の女性として好いている。ただ、それを告げたらもう二度と夏希が自分に構ってくれることはないような気がして、夏希が卒業する今日まで告白はできずにいた。
「最後の日だっていうのに、何を企んでるんですか」
「それは今からわかるわ。守屋くんはイエスかノーしか言っちゃだめだからね」
首を少しだけ傾けて、悟の顔を下からのぞき込むようにして笑う夏希。明日からはもう、その笑顔を見ることができない。そう思うと悟の胸は寂しさと切なさで痛んだが、夏希とのお別れを寂寥感だけで彩りたくなくて、彼女のお遊びにいつも通り何食わぬ顔で付き合うことにした。
「わかりました」
「じゃあ、まず目を閉じて」
夏希は静かな声で言う。
悟はおとなしく目を閉じた。
「……――」
「……っ」
遠くの方で、卒業生たちの笑い声や別れを惜しむ声がかすかに聞こえる。だがしばらくして、悟は高鳴る自分の心臓の音と夏希の声しか聞こえなくなった。
「目、開けて」
夏希に言われて、悟は目を開ける。目の前には、頬を赤らませた夏希の顔。それは目を閉じる前よりも近くにある。
「イエスかノーで答えてね。キスは初めて?」
「……イエ、ス」
早鐘を打つ心臓の脈動で喉が圧迫されて、うまく声が出なかった。それでも夏希にはちゃんと聞こえたようで、夏希は恥ずかしそうにはにかむと「そっか」と一言呟いた。
「じゃあ……もう、ひとつ」
悟と同じように夏希も緊張でドキドキしているのだろう。一言発するのにも勇気を出しているのが、声の調子から容易にわかった。
「もう一回……しても……いい?」
春の風が吹く。
まだ少ししか咲いていない桜の花びらが、一枚二枚、はらりと落ちる。
穏やかな日差しが夏希の頬の赤みを照らし出すと、悟はただ一言答えた。
「イエス」
夏希の顔が近付く。悟は無意識のうちに目を閉じた。
先ほどと同じで、何かが唇に触れている感触がする。それはほんの一瞬のことだったかもしれないが、永遠のようにも思えた。自分は何か動くべきなのかとも思ったが、悟の頭の中は真っ白で、自分の身体なのに指の関節のひとつさえも満足に動かせそうになかった。
――ヒュゥ。
少し強めの風が吹くと、二人の唇は自然と離れた。
悟は目を開ける。夏希が気まずそうに視線をそらすのが目に入ったが、気の利いた言葉は何ひとつ思い浮かばなかった。
初対面の日から少しずつ話すことが増えて、一緒にいる時間が増えて、夏希に惹かれていったのはとても自然なことだと思う。夏希はただお気に入りの後輩をかわいがって遊んでいるだけだったかもしれないが、それでもどこかで悟はうっすらと思っていた。夏希もきっと自分と同じで、少なからず好意を抱いてくれているんじゃないかと。その感覚が、いま確かなものになろうとしている。悟は高鳴る自分の心臓に「邪魔するな」と心の中で命じ、全身に力を入れるようにして奮起した。
「夏希先輩」
「っ……何?」
「一年です。一年経てば、きっとまた一緒です。俺、夏希先輩と同じ大学に行けるように頑張りますから」
「じゃあ……待ってようかな」
夏希はちらりと悟を見たが、すぐにまた視線をそらしてしまった。その頬は、先ほどより明らかに赤くなっている。
「一年間、俺がいなくても我慢できますか」
「我慢って……」
「イエスかノーで答えてください」
先ほど夏希が言った言葉を悟は真似した。夏希はふふっ、と息を吐いて楽しそうに苦笑すると、悟を見て答えた。
「イエス」
「一年間、俺以外の男と俺以上に仲良くしないと約束できますか」
「うん……イエスよ」
年上の夏希をまるで子供扱いしたような口ぶりに、悟は我ながら呆れてしまった。しかし夏希の方は照れくさそうに頷いている。こんなやり取りを、最後まで楽しんでくれている。その無邪気な笑顔を、悟は心底かわいいと思った。
「守屋くん」
「なんですか」
「私と、付き合ってくれますか」
イエスかノーで答えて――答えなんて、全部決まってる。
夏希の肩を掴むと、悟は返事の代わりに三度目のキスをした。まだぎこちなさが残るそのキスを終えると、嬉しさにあふれた夏希のとろけるような笑顔に視線が吸い込まれる。我慢の限界がきた悟は、夏希の身体を両手で強く抱きしめた。