第九話 老醜は虚空に祈りて
マリアは甲斐甲斐しく呪いの面倒を見ようとしたが、当然全て空回り。
赤児の呪いといえど所詮呪い。おしめ替えはできないし、マリアの垂れ下がった乳房に吸いつきもしない。
数日経つと呪いが増長し、庭の薬草は枯れ、貯蔵していた肉は腐った。さしものマリアも呪いの対策をせざる得ない。
褪せ肌に溜まり続ける呪いをほうきで散らし、妖魔を模した蝋人形に祈りを捧げた。あくまで呪いを小屋の外へ散らしているだけで、根本的な解決に至らない。
この国の人間は赤児の呪いを祓えない。
呪いを散らす最中に気がついた。ほうきの柄でうっかり褪せ肌を叩いたら、呪いの青い瞳が笑みを浮かべたのだ。
マリアは試しに褪せ肌の頬を引っ叩いてみる。天井に達していた呪いは薄まり、脳内で赤児の笑い声が響く。
愛しい呪いの子が笑い声を上げている。
褪せ肌を殴れば呪いが薄まるのみならず、我が子の声が聞ける!
この日から、褪せ肌に振るわれる暴力は正しさを纏うようになる。
褪せ肌を引き取って数度季節が巡った。
赤児の呪いは強力だ。普通、呪われてしまえば半年も経たず死に至る。褪せ肌は驚異的な生命力で生きながらえていた。
まるで女神から加護が与えられているかのようだった。
朝になると褪せ肌をほうきで殴りつけた。どれほどマリアに害されようと、褪せ肌はマリアを必要とした。マリアに媚びなければ飯は与えられない。生きていけないのだ。
抵抗できない、それでいて無条件で自分を愛してくれる弱者をいたぶる行為は、マリアに痺れに似た快感をもたらした。
昼は褪せ肌を壁へ突き飛ばす。大袈裟な音を立てて裁縫道具やらが落ちる。呪いの子は笑う。マリアの心は高揚する。
暴力は忌むべき悪徳だ。だが私の暴力は良い暴力だ。我が子が喜んでくれるのだから。
夜になるとマリアは不安で打ち震えた。根本的疑問がマリアの胸をよぎるからだ。
褪せ肌の呪いは本当に私の子なのだろうか?
何せマリアの胎から産まれていない。どうしてマリアの子が縁もゆかりもない褪せ肌を祟っている?
もし呪いが自分の子でないとしたら、自分がやっている行為に意味はあるのか?
這い寄る不安を隠すために寝ている褪せ肌を叩き起こす。赤児の声が止まない。
褪せ肌を引き取って九回季節が回った。
信じがたいことに、褪せ肌はまだ生きていた。愛しい呪いの子も禍々しく育っている。褪せ肌は今年の冬を越えられないだろう。
マリアは取り立て屋の如く、褪せ肌をこき使った。どうやったって死亡税は掠め取られるのだ。せめて養育費分の働きはして欲しい。
その日褪せ肌は先触れなく居間で倒れ、介助も面倒で放置しマリアは眠りについた。
久方ぶりに見た夢には助産師がいた。
夢の中のマリアは当時の姿を取り戻し、彼女の元へ駆け寄ろうとする。どれほど駆けても助産師のそばへ寄ることあたわず、それでも手を伸ばし続ける。
助産師は冷徹な眼差しでマリアを見、肩を落とした。なるたけマリアを視界に入れないよう顔を背け、杖をつきつき遠くへ去っていた。
マリアは泣きながら目覚める。
助産師に見捨てられ、犯してきた罪を理解した。若い頃の妄執にすがり、おぞましい呪いを我が子と思い込み、無関係な子供を虐待した。正しさの名のもとに暴力をふるい、嗜虐の快楽に溺れた。
自分の母親と同じ行為を繰り返している!
ベッドから降り、居間で倒れたままの褪せ肌を彼女の寝床へ運ぶ。褪せ肌の体は小枝のように細い。呪いのせいで精気の失せた顔は死人のよう。
まだ間に合うだろうか? この子に償う機会はあるだろうか?
赦しを乞おうとも思ったが、マリアは知っている。赦しを乞えば子供は親を赦してしまう。
子の生殺与奪は親が握っている。親を赦し愛さねば子はいきていけないのだ。
マリアはよく、よく理解していた。
早朝に杖と食糧を携え、マリアは森へ入る。今宵は新月。
マリアの目的はただひとつ。
『もし万が一、どうしようもなくって呪いをもらっちまったら新月の夜、水面に浮かぶ月に飛び込むんだ。そこで月の妖魔に助けを乞うんだよ』
マリアは歩む。森にある湖目指して粛々と歩む。老いた体は辛苦を切実に語り、マリアの気力を挫く。
彼女は何度も休憩をはさみ、食糧を食い散らかし、震える足を無理矢理前へと進ませる。
若者であれば一時間程度でたどり着く道程を、マリアは丸一日かけて歩いた。
泉のほとりにある木に寄りかかる。マリアの顔には珠のような汗が流れていた。
空には星々が縫い付けられ、マリアの手元を明るく照らしている。月は出ていない。
マリアが水面に目を走らせる。空に浮かんでいないはずの月が水面にでかでかと映り、雲が月のうしろを流れている。マリアは思う。
雲の手前に月があるっていうのかい?
マリアは手頃な石に腰掛け呼吸を整え、湖の中央部で輝く巨大な月に似た異物を睨みつける。
心が鎮まり腹が決まる。
杖を放り捨て、湖に足を一歩進める。たちまち靴に水が染み、えもいえぬ不快感がある。構わず一歩一歩と泉を進む。
ざぶざぶと水をかき分け、瞬く間に腰まで水に浸かり、泥に足を取られ、つんのめり、溺れるように、水面に映る月へ飛び込んだ。
マリアの視界から一切の事物が消え失せ、茫洋とした暗闇が立ち現れた。
落ちる。
マリアは直感でそう感じ取った。
手元すら見えない暗がりは方向感覚を失わせ、平衡感覚をも奪う。
掻き立てられた不安は見る間に膨れ上がり、マリアの精神をずたずたに引き裂いた。
人間の根源的恐怖とは暗闇そのものだ。
口からこぼれ落ちるはヒキガエルのわななきに似た醜い絶叫。音と共に唇は裂け、口内に血が溢れる。耐え難い鉄錆の味に口のものを吐き出すと固い音がする。地に転がるのは己の前歯だ。奥歯だ。舌だ。脈打つ肺だ。闇の中でもてらてら鈍く光る心臓だ。
指先に何かが振り下ろされ皮膚が弾け爪が割れ骨が砕ける。生きたまま皮膚を裂かれ、筋繊維一束一束懇切丁寧に切り裂かれていく。
マリアは痛みに気絶し、痛みで覚醒する。
拷問の果てに、あぶくのような声を聞く。
『老いさらばえて尚果てることない強欲。老醜の極みである。恥知らずが、疾く失せよ』
マリアのまぶたに朝日が刺さる。目を開けば自室のベッドに横たわっていた。マリアは混乱する。湖に向かったのではなかったのか? 新月の月に触れ、闇に落ちていったのは夢だったのか?
心臓が暴れ、汗が止まらない。マリアは動悸が治るまでベッドに体を預けるつもりでいた。
日が天中にかかっても体の変調が治らず、そこでマリアは理解した。
理由はわからないが、妖魔の怒りに触れたのだ。
強引に体を起こし、床に足をつける。体が軋み言うことを聞かない。足に力が入らず立ち上がれない。
怒りに触れてしまったが故に、寿命を奪われてしまった。
しゃがみ込んで叫び、泣き喚きたい衝動に駆られる。感情が内臓を突き破り、心身がばらばらになりそうだった。
子供のように暴れまわれたらどれほど楽だろうか。
マリアは歯を食いしばり、満腔の力を込めて立ち上がる。
夢で再会した助産師を思い出す。マリアを見限ったその瞳の昏さに比ぶれば、妖魔の暗闇など朝焼けだ。
マリアは確信していた。助産師からもらった恩も、生まれてからずっと重ね続けた罪も清算できずに死ぬと。
『老醜の極みである』
あぶく声の通り、彼女は確かに恥を知るべき老女だ。醜く老いたアバズレだ。
マリアの胸にあるは保身のみ。助産師に嫌われたくない、あわよくば褪せ肌から丁重に弔われたい。人間性の底の浅さが妖魔の怒りを買った。
この歳になって人間性は変えようがない。腐臭のする本性を変えることはできない。
マリアの瞳が猛禽類のような鋭さを放つ。
それでも、少しでも良く死ぬために足掻くのだ。
褪せ肌に毎日蝋人形へ祈るようきつく言い聞かせた。彼女の寿命を少しでも伸ばすためだ。
褪せ肌に残してやれる財産もない。共同墓地に入るための金すら残してやれない。自堕落な己の生活を呪う。死者の呪いを貰わぬよう、墓に木を植えろと命令した。
このあとの行動はマリアも説明がつかない。ただ直感で、こうするべきだと思ったに過ぎない。
「ドゥワァ。来い」
マリアは黒肌を持つ男児を呼び寄せる。
褪せ肌が気にかけ面倒を見ており、飯の無心をする。マリアにとって厄介なクソガキに過ぎなかった。
素直にやって来たドゥに、マリアは目線を合わせるよう屈む。
「いいかい? 褪せ肌は今年の冬にも死ぬ。自分の命を投げうってでも助けたいと願うなら、月のない夜に森の湖へ行け。そうしたら、湖に映った月にえいやと飛び込むんだ。そこさいる妖魔に、うんとうんとお願いするんだよ。
褪せ肌をお助けくださいって」
ドゥはぼうとマリアを見つめ返すばかり。
「言葉を話せずとも、うんと頷いたり、首を振ったりくらいはできるだろうに。私の話が理解できたんなら頷きな!」
心ここにあらずといった様子のドゥの顎をマリアは荒々しく掴む。初めてドゥの瞳が揺れる。
「お前が何を考えてるかこっちは知りようがないんだ! ましてお前には言葉がない。頷け! 頷くんだ!」
マリアの爪がドゥの頬に食い込む。ドゥは目をしばたかせ、ひとつこくりと頷いた。
「いいかい? それが肯定だ。拒絶するなら首を振れ。そのどちらでもなければ首を傾げろ。
考えを示せ。
言葉がないからってんで諦めるな。思いを伝えろ。
そうしたらお前の世界は一変する。お前には日々の生活を、世界を変える力があるんだ。世界は変えられる! この歳でも変われる、変われるんだ。私はそう、信じている! わかったか?
わかったんなら頷け!」
ドゥが頷き、マリアはようやく手を離す。まくし立てたせいで息が苦しい。膝に手をつき、ぜいぜいと呼吸する。
「私はもうすぐ死ぬ。あの子を頼んだよ」
ドゥはたっぷりと間を置いてから、控えめに頷いた。
マリアはベッドへ横たわる。緩やかな眠気をまとって毛布に包まるのは今晩で最後だろう。
目を閉じ、褪せ肌を思う。思い出すのは泣き顔ばかりだ。マリアは褪せ肌の笑顔を知らない。
今さら当人へ気遣う言葉をかけても白々しい。マリアはベッドの中で両手を合わせた。
褪せ肌、私がグズなばかりにすまなかった。
どうか幸せになっておくれ。
マリアの意識は白濁し、祈りは誰にも届くことなく虚空へ消えた。