第二十七話 やがて鬱病シンデレラ
「人間。人間の女。おまえを見ていたよ。中々どうして、愉快痛快意味不明な人生を送っているじゃないの」
声色に覚えがあった。絹のような滑らかさで生命力を損なわせる、おぞましい嘲笑が脳を引っ掻き回す。
視界はきれいなパステルカラー。色以外何も存在しないけど、一枚めくれば吐き気を催す世界が露出する。
「信仰心の足らない愚かな番の股から産まれ落ち、赤児の呪いをもらった時は死んだと思ったし、妖魔の像を崇めていた時は家ごと燃やしてやろうとも考えたけれど……。
どんな目に遭おうとも生きようと足掻くのね。わたくし様の作った国で生きたいと願うのね」
この声の主は誰だっけ?
脳みそふわふわ朝ぼらけ。
夢も現も分かったもんじゃない。
「人間。人間の女よ。わたくし様の箱庭を愛した果報者よ。
わたくし様は偉大で親切心に厚いから、おまえに力を与えましょう。ちょっとやそっとじゃ死ねないように。
おまえの美貌を磨いてあげましょう。その美貌で庇護を掠め取れるように。
さぁ、もっとわたくし様を楽しませてご覧?」
そうだ。思い出した。
この声は女神の、乳房の化け物の声だ。
*
はいはいこんにちは私です。
久しぶりな気もするし、そうでもないような気もしますね。
知らねぇよってなあはは笑う。
私は顔をベールで隠し、猿轡噛まされた状態で王宮に向かっている。
男たちに拉致られたあと、いつのまにか気絶していた。目を覚ませば質素な馬車に私ひとり。
戸で隔てられているのに、御者の声がいやにはっきり聞こえてくる。
曰く、見張りの女は衰弱死した。神の御子の声を聞いたためだという。神の御子の声を耳にしてはならない。
曰く、見張りの司祭は領主に引き渡された。村を壊滅に追いやった妖魔の手先として近々処刑される。
どうして物事は悪いようにしかならないのでしょうね。
私の正面にかしげちゃんと大柄司祭が立つんです。揺れる馬車の中でも彼らは直立し、恨みがましい目で私を見下ろしてくるんです。
馬車は揺れるよどこまでも。
日が昇るのを五回数えた頃、馬車が停まる。着いたぞ、と男の声がした。
ベール越しに見えるは見上げるほどの巨大なお城。研ぎ澄まされたゴシック様式は、まるで夢の国のアトラクション。
メイドの格好をした眼光鋭い女が私を出迎え、御者は去った。
私は流されるがままメイドと共に裏口らしきところから入城する。
人気のない通路は段々と臭いが湿気っぽくなりカビ臭さが目立ち始める。目指す場所は処刑場? それならありがたいのだけれど。
辿り着くは寂れた一室。床にほこりが分厚く積もって歩くと足跡がつく。雪上を歩いているみたい!
穴ぼこだらけの天蓋も素敵ですね。蜘蛛の巣張ってない? 薄汚れたカーテンから見える太陽は朧月みたいに小汚い。
メイドは今晩お披露目のパーティーが行われる、机上の飯を喰っておけ、服はクローゼットの中のものを着ろ、と言って去ってしまう。
すごーい、ご飯からおしっこの匂いがする!
何日もご飯を食べていないけど、こいつは無理だ。
扉の片側が取れたクローゼットの中を覗くとズタズタに切り裂かれた新品のドレスがあった。王様んところのセンスは独特でいいですね。
ベッドはほこりが酷くて座れたもんじゃないので、立ち尽くして咽び泣く。
茶化して馬鹿にして、世界とまともに取り合わないようにしても、分かりやすくいびられてるって事実は変わんねんだわ。
あんまり泣きすぎて黒いベールが涙を吸わなくなっていた。
思い立って舌を噛み切ろうとするが、脳内の皆さんご存知ですか?
舌を噛むのってめちゃくちゃ痛ぇの。
背後でかしげちゃんと大柄司祭とドゥが私を睨んできてる。
この期に及んで死ねないとかなんなの?
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
口を開けば出るわ出るわ謝罪マシンガン。マシンガンと違うのは、謝罪の弾丸を放つたんびに重みが減っていくところ。
元気出して!
私は無責任に己を鼓舞する。
王様と結婚なんて将来の安泰が約束されたようなもんだぞ。
超絶ラッキーガールじゃん!
自分の言葉がつるりつるりと上滑り。心に響かぬ声を脳内で怒鳴り散らす。
泣き続けた分だけ時間が過ぎていく。太陽は山際に沈み、月のない夜が世界を支配する。
くすり、と背後で笑う声がする。振り返ると先程のメイドがいた。
パーティーの時間だから出るぞ、服はそれでいいのかと言った。独特な間のある、嫌味たっぷりな物言いに涙が引っ込んでしまう。
良いも悪いも私が身につけているのは泥だらけで擦り切れた修道服。クローゼットのドレスは胸と下半身が丸出しになるよう切り裂かれているので着ることあたわない。
せめてベールくらい外せよ、とメイドが小声でぼやき、刺々しい足音を立て私を案内する。パーティーで受けるであろう悪意と敵意を想像するだけで胃が痛む。裸足で歩いているはずなのに、足裏に感覚が伝わってこない。
行かなきゃだめか?
これから襲い掛かるであろう悪意を想像するだけで、奥歯ががたがた震え出す。
帰りたい。逃げ出したい。
ドゥ、助けて。
ドゥが死んだのは、私のせいなんですけど。
糞じゃん。
見上げれば首が痛くなるほど大きな扉の前に立たされる。奢侈を極めし黄金の扉細工は見る者を威圧する。
心臓が嫌な音をたてて騒ぎ出す。口の中がカラカラで喉が痛い。黒服の執事ふたりが重々しく扉を開く。
豪奢なシャンデリアの光で焦点が合わない。鼻につく、香水の混じり合った匂い。誰かが「来たぞ」とささやいた。ささやきは伝播し、やがて嘲りを伴って大きな渦となる。
慣れてきた目でレッドカーペットを辿れば遥か遠くに玉座が見えた。玉座には醜王の姿。カーペットの両脇に盛装をした男女が所狭しと立っている。私が顔を向ければ、男は吹き出し女は扇で顔を隠し「くさい」「汚い」「貧乏人」「下等民」と陰口を叩く。
「おい、褪せ肌の! 吾が送ったドレスは着なかったのか?!」
醜王の声にギャラリーが湧く。醜王はどうして笑われているかいまいち理解できていないらしく、顔を真っ赤にしている。
皆の視線が私に集中する。
誰もが私を見下し言外に語る。
さぁ、もっと我々を楽しませてご覧?
まるで女神のような傲岸さ。
思わず笑ってしまう。
糞異世界を作った女神が糞なら、そこで生きる人間も糞の濃縮還元野郎しかいないだろうさ。
恐怖と緊張で浮き足立っていた気持ちが冷めていく。鉛のように重く冷たいものが腹の底に立ち現れる。
醜王が手招くので、裸足で毛の長いレッドカーペットを歩く。下卑た笑いと失笑が私へのライスシャワーだ。
誰かが私の足を引っ掛けてやろうと足を出していることに気づいた。私は容赦なく踏みしだく。女の悲鳴が聞こえた気もするが耳に入らない。
「おい、ベールを外せ!」
醜王が怒鳴るので、私はベールをむしり取り床へ叩きつけた。