第二十三話 魔女の帰還
実のところ、教会から逃げ出した時の記憶があまりない。
神々が目覚める深夜、かしげちゃんがどこからか三頭の馬を引いてきた。
私が馬に乗れないことも先刻ご承知の様子で、一頭の馬に二人で乗るよう指差した。残りの一頭に荷物、もう一頭は何も積まず、かしげちゃんは器用に三頭の馬の手綱を束ね教会を抜け出した。
夜の山野に響くは並走する三頭の蹄鉄の音。背後から漂う焦げた悪臭も、轟く爆音も、気づかないふりをした。
私を逃すと言ってかしげちゃんが消えた数時間、何をしていたか問うべきだった。彼女と同じ罪を背負うべきだったのだ。
かしげちゃんの犯した行為を聞いたら、正気ではいられなくなると確信があった。
まともな死に方はできないと、私は静かに悟った。
馬に乗りながら眠り、食事を忘れ山を越える。思い出したように立ち止まっては乗る馬と荷物を積む馬を変え、ひたすらに駆けた。三日目の昼間に一頭の馬が泡を吹いて倒れた。馬を放置し、二頭で山を駆ける。
「少なく見積もっても一ヶ月うまくいけば数ヶ月鎮火にかかるでしょう」
かしげちゃんは木の根に座り、己の血で聖書に何か書きつけていた。馬から降りて休憩を挟む度に行われる奇行だ。
かしげちゃんの衣装は泥だらけ。ボロ切れと言っても差し支えない。
「運が良ければ死んだものとして捜索さえされないかもしれません教会は火事に気を取られわたしたちどころではない」
私は渓流で馬に水を飲ませ、食事を与えていた。三頭いた馬は一頭のみ。無茶な山越えのせいで、今にも死んでしまいそうだった。
「混乱の隙に国外逃亡しますただ準備が不十分間も無く本格的な冬に入るそのためあなたの村で冬を越すその間に資金と新しい馬を用意しますあなたの村は活気があり資金繰りに余裕のある村人が多いわたしは修道女その上処女稼げます稼ぐんだ」
彼女は変わった。話し方は言わずもがな、充血した目は鈍く輝き、口角は常に上がり続けている。昼夜問わず気が違ったような笑い声を上げるようになった。
彼女を変えたのは間違いなく私だ。
私は馬のたてがみを撫でる。ベールがない分、生き物の表情が生々しく瞳に焼き付く。
「山を越えればあなたの故郷ですその馬が生きていれば売り飛ばし死んだら徒歩で村まで向かいますこの馬はもうだめあなたの幼馴染ドゥワァさんにも無心する金が足りない」
黙して彼女の声に耳を傾ける。これは会話と呼べるのだろうか。
見慣れた森に入ったのは翌日の昼下がり。ドゥとどんぐり拾いをした小道に入った途端、郷愁の念が湧いた。
「見て、かしげちゃん! 昔ここで三角屋根の秘密基地をドゥと作ったの!」
「思い出の場所ですか」
「うん! 村のみんなが取り尽くしたみたいだけど、このあたりはきのこが生えてね、秋の絨毯みたいになるの!」
「……それは、わたしも、見たかった」
興奮してまくし立てると、かしげちゃんも控えめに笑ってくれた。話すのに夢中で、森が寂れていることに気づけなかった。
異変に気づいたのは森を抜けて村に入ってから。声を上げることさえできなかった。
田畑があった場所には見上げるほどの木槍が刺さり、上部を見ると生首が掲げられていた。
眼球は腐り落ち、残された肉には虫が集っていた。生首が誰かすぐ見当がついてしまう。これほど綺麗な赤髪を持った人間はひとりしかいない。
ドゥの大親友、赤毛の青年だ。
槍に突き立てられ晒し首になっているのは彼だけではない。両手ではとても数えきれない本数の槍が大地に深々刺さり、それら全てに生首が飾られる。
私たちが馬から降りることも忘れ呆然としていると、蹄鉄を聞きつけたらしい村の女が数人こちらに向かってやってきた。痩せこけているせいで誰が誰だかわからない。
私は馬から降りて彼女らに話を聞こうとするや否や、若い村の女のひとりがあっと叫んだ。
「褪せ肌の魔女だ! 褪せ肌の魔女が帰ってきた!」
耳に痛いその叫びは故郷に戻ってきたことを痛感させた。かしげちゃんも馬から降り、何事かと様子をうかがっている。馬は泡を吐き、今にも倒れてしまいそうだった。
「早く呪いを解け魔女! 恩知らずが、一体私たちが何をしたんだ!」
「……村になにがあったの?」
私の質問に村の女はヒステリーを起こし、私へ砂を投げ始めた。
彼女らの怒りの沸点かわからない。騒ぎを聞きつけた村の女たちが集まり始める。かしげちゃんが警戒しながら私のそばに立った。
ある村の女が私に猛然と近寄ってくる。女は私へビンタをかました。思い出す。
赤毛の奥さんだ。
「あんたのせいで旦那と子供が死んだ!」
目尻を吊り上げ、鋭い声色で私をなじる。
「村の麦が突然、突然だ! 先触れなく枯れ果てた! 何を植えども萎びていくばかり! なおも領主は年貢を取り立てようとする。若衆は領主へ直談判に赴いたが、結果がこれだ! 男どもは皆、皆、殺された!」
赤毛の奥さんは手を振り上げ生首どもを示した。
若衆とは、ドゥも所属していた村の組織だ。
私は上手く呼吸ができなくなる。
「なけなしの貯蓄はすべて領主に接収された。従順ではない、年貢も納められない無能な農奴は死に絶えろとのお達しだ!
森の食糧は取り尽くした。この冬を超えることができずに死ぬ……」
赤毛の奥さんは私の胸ぐらを掴む。
「おい。呪いを解け。お前が消えてすぐだ、村がおかしくなったのは。お前がやったんだろう、不作の呪いを。魔女に育てられた忌み子だ、そのぐらいは容易なんだろ、人でなし! 返せよ、旦那とあの人の子供を。
自分の子の遺骸をスープにして飲んだ心地を教えてやろうか?」
私の胸ぐらを掴む奥さんの手を、かしげちゃんが振り解く。
「離しなさい。この方は神のはしため。危害を加えるは神を誅すると同義!」
「神はパンをくれるのかい?」
かしげちゃんの制止むなしく突き飛ばされた私は地面に倒れてしまう。地面についた手が鈍い痛みを訴えた。見ると手のひらに小石が突き刺さり血が滲んでいる。
それを皮切りに女たちが私たちを取り囲む。中には棍棒のようなものを手にした者もいた。
「わたしの愛に触れるな! 真実の愛を知らぬ愚物ども!」
「お前ら聖職者はいつも村の者を見下して、考えを押し付けて! その鼻持ちならない高慢な態度が大嫌いさね!」
かしげちゃんと奥さんの押し問答が始まった。
視界がチカチカする。奥さんの肌がサイケデリックな極彩色に染まっていた。かしげちゃんの汚れた修道服がななめに引き伸ばされて見える。まばたきを繰り返す。
目を閉じるたび浮かぶのはドゥの顔。
赤毛と楽しげに笑うドゥ。お気に入りの服が破けて途方にくれるドゥ。夜ふかしのせいで半分まぶたを閉じうつらうつらしているドゥ。真剣な表情で調理に励むドゥ。汗を滴らせ麦を背負うドゥ。
『若衆は領主へ直談判に赴いたが、結果がこれだ!』
誰かが私の背中を硬いもので殴った。耐えきれず地面に倒れ伏してしまう。かしげちゃんの悲鳴が聞こえる。
背中の激痛も、口に広がる土の味も、全て私の前を通り過ぎては消えていく。
晴れ晴れとした笑顔を浮かべるドゥが頭を支配して離れないのだ。頭でドゥが悪戯っぽく微笑を浮かべているのだ。
『男どもは皆、皆、殺された!』
ドゥ。
髪の毛を鷲掴みされ顔を引っ張り上げられる。私の首元に光るは家畜解体用包丁。羽交締めされたかしげちゃんが泣きながら何かを言っている。もう何も聞こえない。何も聞きたくない。
ドゥ。私を置いて死んでしまったの?
「ドゥ!」
魂の絶叫が村中にこだまする。あまりの声量に村人は包丁を取り落とす。凄まじい倦怠感に襲われ、意識を保てない。
黒く塗り潰されていく視界の端で村人が次々と地へ倒れていく。
その様子が昔々、私の悲鳴を聞いて倒れたうさぎと似ているなぁと思った。
頬に水滴が落ちる。雨が降り出したのだろうか。私を包むのは垢と油、糞尿の匂い。
目を開く。
視界いっぱいに映るは毛むくじゃらの男。てらてらしている黒い髪は伸び放題で、顔のほとんどが隠れてしまっている。かろうじて見える肌も土に塗れて汚らしい。乞食と思しき男は、覆いかぶさるようにして私の顔を覗き込んでいた。
男の前髪を耳へかけてやる。
前髪に隠された緑の瞳は滂沱と涙を流していた。
「ドゥ……!」
両手を伸ばし垢まみれの彼を抱きしめた。