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第二十二話 教会は燃えているか

 大司教は歌に合わせ肘置きを爪弾く。


「『我らが主 敗走した勝利の女神

  我らに永遠を お与えください

  我らを千年の都に お招きください

  我らに神の力を お与えください

  我らに願いを お教えください

  我らは主の手足なれば』」


 彼が口ずさむは聖歌『花園に住う我らが女神』。神の国の顕現を望む彼が最も愛した聖歌だ。


 シンパが減って痛手ではあるが、従わぬ犬など生かしておく価値がない。

 彼女が消えて訝しむ者も当然いるだろう。恋人と駆け落ちしたとデマを流すか。年齢的に厳しい嘘だ。自殺でもしたことにしようか。大司教から呼び出しを受けたと喧伝していたら厄介だ。

 面倒になったらこの教会ごと神の異界へ送るだけなのだけれど。


 先触れなく腐りかけの果実の香りが部屋に充満した。


「大司教殿、報告が」


 耳を介さず脳へ直接響く老人の声は、頭皮を芋虫が這っているような不快感を与える。


「安易にカミガタリの力を使わないで。会話だけでも神への供物が必要になるのに」

「女神の御子が塔から逃げましたぞ」


 大司教は目を丸くし、ビロウドの椅子に頭を預けた。


「……呆れた。逃げ切れるはずもないのに。見張りのあの子はなにをやっているの?

 引き続き女神の御子の監視をして。カミガタリの力で彼女を引き止めなくていい。僕が馬であとを追う。あの子は馬に乗れなかったはず。徒歩で逃げているんだろう?」

「教会で飼っている馬を盗み出したようでして」


 椅子から立ち上がった大司教の動きが止まる。彼は何度かまばたきを繰り返す。


「神の御子は見張りの女と共謀し、逃げ出しました。儂らの責ではありませぬ! 儂ら命令通り神の御子のみを神の瞳で監視していました。

 神の耳で会話を盗み聞いておれば……」

「引き続き監視を。何かあったら逐一報告して」

「輩どもは今しがた教会を出たばかり。追いかけるのは容易でしょう

 ……女神の御子の表情が気がかりです。見張りの女が奸計を張り巡らしているやも知れません」


 客間の扉が激しく打ち鳴らされる。頭から不快感が消え、腐りかけの果実の香りが多少やわらぐ。返事を待たずに思い両開きの扉が開かれた。


「王子!? 何故ここに?」


 現るるは女神の御子の見張りを任されていた大柄の司祭。額からはだくだくと汗を滴らせ、只事ではない様子。部屋に充満する腐りかけの果実の香りに彼は激しく咳き込んだ。


「……あぁ、視察から戻ったのか。どうなっていた、彼女の村は」

「報告は後で! 外の有様にお気づきにならなかったのですか?」


 部屋へ足元から忍び寄るは木材の爆ぜる音と焦げた匂い。室内に早くも灰色の煙が満ち始める。司祭は大司教の手を乱暴に掴み外へと連れ出した。


「客舎に人が残っているやもと思い、立ち寄ってみれば……!」


 外に出た大司教の目に映るは赤々と照らされた古教会。風に煽られ舞う火の粉。四方から煙が立ち上り、熱風が大司教の肌を焼く。けたたましい爆音が響くので目をやると、食糧庫のあたりから火柱が上がっていた。


「賊です! 山向こうからでも教会が明るかったので何事かと急ぎ戻りましたが、私がついた頃にはこの有様でした! 宿舎は煙と炎に呑まれて近づくこと叶いません! 塔にまで火の手は回っております!

 修道院長も、修道女たちも、祝福の御子も、皆、皆死んだ!

 祝福の御子の力は本物でした。私たちはとんでもないことをしでかした。御子に謝罪の言葉すら……!」


 司祭は迷うことなく厩へと大司教を引っ張っていく。後方で客舎の屋根に火が付いた。


「一度教会本部へ戻り、準備が整い次第総出で鎮火を試みるべきです!」


 厩を開いた司祭が絶句する。四頭いたはずの馬は一頭の老馬だけ。その老馬もどうと地に伏していた。脇腹や首元からは諾々と赤黒い血が流れている。


「なるほど。徹底していて素晴らしいね」


 冷淡な大司教の声に司祭が我に返る。司祭は外を指差し叫ぶ。


「王子! 私の馬はここから離れた林に繋いであります! それに乗り、急ぎ本部へお戻りください!

 意図は掴めませんが、賊はどうやら本気で教会に住う者全てを殺し尽くさんとしている。急いで!」


 熱風が厩をじりじりと焼いていく。大声を張る司祭を尻目に、大司教は目を閉じ手を合わせた。


「神の国と現の狭間に住うまつろわぬ神よ。異界の大淫婦よ。あなたが欲する黄金の髪と白き肌の女どもと、太陽の如く燃ゆる教会を捧ぎます」


 熱風を押し返さん勢いの臭気に司祭は思わず目を閉じる。口呼吸しようものなら喉に臭いが刺さりえずいてしまう。司祭の目から涙があふれ、鼻水が止まらない。


「穢れたバダブに時を与えたように、異国の女衒に時を疾る足を与えたように、我らに力をお与えください。日光よりも燦々とした淫愛を、月光よりも暗澹とした愛執を、我らにお与えください……」


 司祭は身を脅かしていた熱風が止んだことに気づく。司祭はよろめき厩の壁に手を置き膝を折る。


「おいで。カミガタリの真髄を見せてあげる。

 ……それとね、僕はもう王子じゃない」


 司祭の意識が擦り切れる寸前、状況に不釣り合いなほど優しい大司教の声を聞いた。




 その日、建立から八十余年の歴史を持った古教会が消失した。寄宿していた修道女共々、まるで存在していなかったかの如く立ち消えたのだ。


 ふたつ山向こうから古教会の最後を見たと語る羊飼い曰く、


「初めは焦げた臭いがした。夜中なのに赤く光るから火事だと思った。しばらくすると黒い、黒い煙みたいなものが下の方から伸びてきて教会をぽっかり覆った。黒い煙みたいなのが晴れると、教会がなくなっていた」。


 教会が破壊された痕跡はない。代わりに教会のあった場所には、深く暗い洞穴が穿たれていた。

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