第一話 みんな大好き女神様
「人間。人間の女よ。おまえはねぇ、死んだの」
女神と名乗る存在は私のこうべに言葉を垂れる。私は芋虫みたいに平伏していた。
「トラック? だかいう塊にぶつかって、どーん! あたりは肉片ばーらばら。……ふふっ。あんまり無様なものだから、わたくし様ったら笑っちゃったわぁ。
人間の女よ、おまえが死んだのはわたくし様の過ち。本来であれば別の者が死ぬはずだったのにね。ふふふっ。
……間違えて殺してしまった人間、おまえで何人目かしら。覚えてないわぁ。
全能の神とて過ちを繰り返してしまうものねぇ、ふふっ」
彼の存在が語って聞かせるは、私が愛読していた夢小説やなろう小説で見聞きしたような話。神の手違いにより主人公が死ぬ、実にありふれた物語の導入部分。あくまで作り物の、嘘ハッピャクの物語。
「あなたの身に起きたことです!」と語られたとて、現実味がまるでない。
死んだ直後の記憶もない。私は定時に仕事を上がって帰宅中のはず。これは夢だ。夢であってほしかった。
「おまえにも非はあるのよぉ? おまえらがあんまり似たような魂の形をしてるから。過ちを誘発するおまえらこそ、真の悪ではなくって?
神を憎まず、過ちという概念そのものを恨んでちょうだいな」
彼の存在は耳触りの良い絹の声色で、生命力が損なわれるおぞましい嘲笑を上げる。
私は怯えていた。この空間が異様だからだ。
額を擦り付けている地は、土でも石でも木材でもリノリウムでもない未知の触感。色や模様は視界に入れたその時々で変化する。
詳しくあたりを観察しようものなら視界がゆらぐ。像は二重三重にぶれ始め、遠近感覚がおかしくなっていく。脳が理解を拒んでいるみたいだ。
「おまえを蘇らせてあげたいのは山々だけど、時の巻き戻しは最高神たるトキノミコトの領分。おまえが元の世界に戻るのは不可能。
ふふっ、可哀想!」
彼の存在が恐ろしかった。
樹齢が千を超えた大木のような息を呑む神秘が、真夜中の神社のようなおどろおどろしさが、巨大な仏像のような圧倒的存在感が、山林に放り出されたような未知が、人間を腹の底から舐め腐ってる暴力的な無邪気さが、一切合切恐ろしかった。
「人間なんて数十年ぽっちで死んじゃうし、おまえも二十年と少し生きたんでしょう? 十分じゃない。
それに、人間の女。おまえは生きてていいことあった? 糞を製造するだけ、しょうもない存在だったんでしょ。
感謝してほしいくらいだわぁ。偉大なるわたくし様は、おまえを生から解放してあげたんだから」
会ったばかりの存在に、どうして私の人生をばかにされなきゃいけないのだろう。
彼の話は正しい。私は今日も仕事で何度目かの同じ失敗を犯し、先輩に詰められ、直属の上司は深々とため息をついていた。
家に帰っても私の帰りを待つ人はいない。あるのは思考をとろかしてくれる高度数の酎ハイだけ。
友達は少ない。生まれてから異性と交際したことなんて一度もない。
彼の存在の言う通りだ。私の人生はしょうもない。
そこまで言わなくたっていいじゃないか。
しょうもない人生なりに、小さな喜びがあった。仕事で怒られ凹んでいた私に、後輩ちゃんがジュースを奢ってくれた。お礼にお菓子をあげたら喜んでくれた。
小さな楽しみもあった。新しい入浴剤を買った。冷蔵庫に大きいサイズの板チョコが眠っている。来月漫画の新刊が出る。
言葉にすればするほどくだらない人生だが、そんな人生をそれなりに愛していた。
頬がカッカと熱くなる。ばかにするなと言い返してやりたかった。
反論できるはずもなかった。未知の存在に好き勝手のたまえる度胸を持ち合わせていない。
口汚い言葉があふれて仕方ないのに、言葉を吐き出す先がない。油ぎった言葉は腹に沈んで煮えくりかえり、心身を傷つける。
視界が涙でぼやける。生まれてからずっとそうだ。怒りを適切な場面で発することができない。不平不満を飲み下して、ただひとりで煩悶する。他人の顔色を伺って、思いを素直に伝えられない。
言いたいことも言えないで、なんて勇気がない女なんだろう。
「わたくし様は優しさに満ち満ちた慈悲深い女神。不運なおまえを憐れんで、魂の形も今生の記憶もそのまま、人間として転生させてあげましょう。人間にすら義理立てしようとするわたくし様、なんて律義なのかしら。
先見の明があるわたくし様は知っている。同じ世界に転生してもお前はグズのまま。
神々の恩寵あふれた新たなる世界に連れていってあげましょう! ふふふっ」
自称女神は恍惚と語る。彼の存在は己の言葉に酩酊しており、私の姿も朧げなのだろう。
「醜く劣った容姿も美しく作り直してあげる。わざわざこのわたくし様の手で。これは無償の善意。女神からの真実の愛。上位者こそ成せる慈しみ。有難いでしょう得難いでしょう?
好みの番も用意してあげたら完璧ね。わたくし様は完全無欠であるべきだから。
人間の女、おまえの記憶を見せなさい」
そう言うや否や、背後から無遠慮な視線をぶつけられる。その視線は私の皮膚を剥ぎ、臓腑を抉り出さんとしているかのよう。
さらに奇妙なことが起こる。
私は誰のものとも知れぬ視線を、常に受けていたと「思い出した」のだ。他人が存在し得ないような記憶でさえも、強烈な視線を浴びていたのだ。過去が書き換えられたかのように、私は唐突に思い出す。
説明し難い不可思議な現象に冷や汗が吹き出し鳥肌が立つ。
何が起こっているんだ?
「事故の前日に黒髪で褐色肌の男たちが絡み合う本を読んでいたのね。ふーん、黒髪褐色肌の男が好きなんだ?
色恋について友と話してるの?
「普通に結婚して子供産みたい。人並の幸せが欲しい。ありふれた女になって絶望してる。もう俺様キャラに『おもしれー女』って言ってもらえない」
なるほどねぇ?『おもしれー女』って言う、黒髪褐色の男を用意すればいいのね? ふふふっ、キモい趣味!」
自称女神の言葉をうまく理解できない。突拍子のない出来事ばかり起きて頭が回らない。何を言っているんだ?
「おまえは転生早々に自殺なんてしないでね?」
目が回り、気を失う寸前に自称女神の姿を視界の端で捉える。
純白のドレスを着た女神の顔には無数の乳房がぶら下がり、下腹はぱっくりと裂け地を赤黒く染め上げていた。
読んでいただけて光栄です!
完結まで頑張りますのでお付き合いいただけると幸いです!