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早起きが苦にならない体質なのを感謝したのは、この学園に入学して初めてのことだった。
部活をやっているわけでもなく、朝、何か日課があるわけでもない俺は、今まで早起きすること自体があまりなく、そもそもこの体質に気づいていない状態だった。
しかしこの学園に来て、コウと同じ部屋で共に生活するにあたり、色々な生活習慣や今後の生活についてすり合わせをしていくにつれて、長年、一緒にいたのに知らなかったコウの一面を知ることになる。
・・・コウの、寝起きの悪さについて、だ。
コウは俺とは違って長年、習い事をしていて、その関係で毎朝それなりに早く起きているはずなのに、寝起きがあまり良くないようだった。べつに不機嫌になるとかではないのだが、とにかく頭が起きない、起きてから長時間意識が遠退いている状態が続く、つまり起きてすぐに考えて行動することができないタイプだったらしい。
着替えは前日に決まったところに起き、考えないでも自動的に着られるようにして、朝食は目の前に出された物をやっぱり自動的に食べる、というスタイルらしいコウに、朝、食堂に行って食事をするという生活は難しかった。
この学園は常時、寮に付属した広大な食堂が開かれているし、他にもカフェがいくつか存在していて、そのどれもが朝早くから夜遅くまで常時開いている。だから食事も軽食もおやつも、そこで取ろうと思えば取れるのだが、朝のコウは足元も覚束なく、そこまで向かうことが不可能に近かったのだ。
幸いにも、金持ち学園だけあって、寮の部屋はそれなりに豪華で、家電もやけに充実している。つまり部屋の中である程度の料理ができるレベルに整えられていた。そして俺は仕事熱心な両親によって結構放置され気味な生活を長年している所為もあり、わりと料理は得意な方である。
その為、話し合いの結果、朝は早起きが苦じゃないということが今更ながら発覚した一応料理ができる俺が作り、昼は食堂で取る、朝だけの食材を買っていると食材が余りがちになり経済的じゃないので、夜も特別用事がなければ俺が作って部屋で取る、ということで決まった。
代わりに、コウは他の家事・・・、といっても皿洗いとかぐらいしかやることはなく、部屋の掃除ですら互いの自室以外の共有空間、風呂やキッチン周り、リビングなどは流石金持ち学校、専属の清掃員がするのだが、それでもとにかくコウはできる限りの他に必要な家事をやる、ということで話し合いは済み、俺達の生活は回り出していた。
その為、今日も今日とて朝食をささっと作り、コウの部屋に入って一応着替えは終わっているが呆然としているコウを連れ出して食事をさせ、朝は皿洗いすらできないコウを放っておいて後片付けをする。それが終わった頃にようやくコウの意識が戻り始め、俺に全てをやらせてしまったことに対して最近恒例となった謝罪を述べるコウを引き連れ、部屋を出る。
もう高級マンションなんじゃないのかというくらいの規模を誇る寮を突き進み、エントランスまで出て朝の日差しが差し込むそこをさらに突き進んでセキュリティばっちりのドアを通過すると・・・、そのドアを通過した傍に、いつも通り俺達を待っている姿があった。
正確には、俺達、ではなく、コウを待っている姿が。
「おはようございます」
「あっ、お、おはよう、ございます・・・」
「おはよう」
ものすごく丁寧に挨拶して来たそいつは、べつに下級生とかじゃない。俺達と同学年、同じクラスの生徒で、長谷、という名前の、生徒会メンバーほどではないがそれなりに顔の良い生徒だった。
ちなみに、下の名前は太陽の陽に漢数字の一で『きよかず』と読む。長谷陽一。どうして『よういち』と読まないのか、かなり謎に思っているのだが、他人の名前に疑問を呈せるような名前を俺自身、していないので今もって聞けていない。というか、そもそも会話は毎朝のこの挨拶以外、したことがない。
何故なら・・・。
「あー、じゃあ、俺、先行っているなー」
「ちょっと、スズ君!」
「後からのんびり来いよー」
「スズ君!」
長谷にまだ少し動きの鈍いコウを託すようにして、軽く手を振って半ば走り出すようにして先に行く。ある程度距離さえ取れてしまえば追っては来ないので、そこまでくれば歩調を緩めて普通に歩いて校舎へと向かうのだ。
どうしてこんな状況になるのかといえば、長谷があの場所でコウを待っているのがコウの親衛隊設立のお願いの為だと知っているからだ。
・・・そう、コウの親衛隊だ。つまり、長谷はコウの組織化したファンクラブを作りたいと願っている、コウの強烈なファンだった。一応、俺にもちゃんと挨拶してくれる、礼儀正しい態度を崩さないヤツで危険なファンとかではないから特に心配はしていないのだが、それでも毎朝コウが寮を出て来るまで待って、教室へ向かう間に親衛隊設立の許可を得ようとしているのだから、巻き込まれたくないなと思う俺がさっさと逃げ出しても仕方がないレベルではある。
親衛隊は、人気がある生徒にできる。それは当然、生徒会のメンバーじゃなくても人気さえあればできるもので、コウのレベルの高い顔では当然、人気はすぐに出て、親衛隊を設立したいという要望が吹き出したらしい。
そして同じクラスで、コウの親衛隊を希望している中では一番スペックが高いらしい長谷が、周りの要望を取り纏めてコウに訴えているのだ。
なんせ、親衛隊設立の一番の条件は、対象である当人の許可なのだから。
『由梨様の学園生活のお手伝いをさせていただき、ありとあらゆる危険からお守り致します』
・・・と宣言してきた長谷の様子を、コウと一緒にいたが故に目撃してしまった時の衝撃は結構なレベルだった。お手伝いって何? 自分のことは自分でできるだろ、とか、これだけセキュリティばっちりしている学園でそんなに色々危険があるのかよ? とか、諸々の突っ込みが瞬間的に湧き上がったけれど、その突っ込みが一つも口に出せないレベルで長谷が真面目な顔をしていたのも印象的で。
たぶん、ただのファンクラブではなく、親衛隊という形で組織化するのは抜け駆けを禁止したり、他の奴ら、つまり親衛隊に入っていない奴が対象に勝手に近づくのを阻止するという、ようは自分達のための組織するわけで、でもそれだけだと対象に申し訳ないから何かあれば力になります、的な主張をしているのだろう。
でもそれにしたって大袈裟すぎるんじゃないかな、というのが俺の正直な感想だった。
でも、当の隊員達にしてみれば真剣な話なんだろうし、それは長谷の表情を見ても分かるから本人達に向かって茶化す気は微塵もないが、俺としてはその真剣さに付き合う必要性を感じないので、コウが口説き落とされている最中は同行をご遠慮している、ということだ。
そもそもコウは昔から人気があって、勝手にファンクラブみたいなものができやすく、今までだってそういうメンバーはいた。だからそういう存在には俺も慣れっこで、いつものことだろうという気がしていたので平気で置いて行ってしまうのだ。親衛隊なんて大袈裟なもの作りたくないと願っているらしいコウにしてみれば、どうも『裏切り者!』という感じらしいが。
また後で怒られるんだろうな、とは思いつつも、綺麗めの顔立ちをしていても男らしさがある長谷とコウでは百合変換できないから仕方ないよな、と自分で自分にいい言い聞かせ、あっさりその場を去ったわけだが・・・。
実はいつもとは違い、今日はあの二人が百合変換できないことより、もっと重大な使命があるのであの場所を離れなくてはいけない、という事情もあった。
きっかけは、昨日、花城先輩という存在を目の当たりにしたことだ。今まで、俺のこの学園での癒しはコウしかいない、どうにかコウに脳内変化で似合うような誰かを見つけて、強引にでもカップリングし、癒しとするしかないと思っていた。なんせ、脳内変換が不要なレベルの百合っぽい存在がそう簡単にいるわけがないと思っていたからだ。
しかし昨日、花城先輩という完全無欠の百合を見つけてしまい、俺はそんな恥ずべき狭さの見解を捨て去ることにした。そう、世界は広い、この学園も広い、そしてここには選りすぐりのお金持ちが、甘やかされた子供達がいる。だったら男らしさとは無縁の育ちをしている人間だって、探せば沢山いるのではないのか?
視野を広く持つんだ。変換のヴァリエーションを増やすんだ、それでこそ百合愛好家だ!
俺の中には熱い使命感が燃えに燃えていた。もしくは、萌えに萌えていた。そしてその使命感に満ちた目で当たりを血走った目で見渡しながらゆっくりと歩く。
朝の寮から校舎へ向かう時間帯は、当然のことだが人気が多い。しかも学年問わず色んな人間を見かけることができる。それならそこは新たな萌えを発見できる可能性が高いのではないか?
そう思い、チェックが漏れている萌えを探すべく周りを見渡していたわけなのだが・・・、その時、やけに甲高い、朝っぱらから聞くと頭痛を覚えるような歓声が辺りに響き渡ったのだ。
反射的に飛び上がりそうになったのは、純粋に驚いたからで、すぐさま周りを見渡したのは驚きの後に湧き上がった本能的な警戒心によるものだった。
あまりに凄い声だったので、最初、その声が歓声だと分からずに悲鳴のように聞こえてしまい、何か危険が近づいているから皆が悲鳴を上げているのかと思ったのだ。
しかし周りを見渡してすぐに気づいたのは、声を上げている者達が皆、瞳を輝かせ、頬が紅潮し、歓喜に満ちた表情を浮かべていることだった。それは決して、悲鳴を上げているような表情ではない。だからこそ、ようやく脳が聞こえている声を歓声だと判断し、すぐにでもこの場を逃げ出そうと脳が全身に命じていた警戒体制を解除して・・・、皆の視線の先、俺が立ち尽くしている場所から少しだけ後方へとつられるように視線を向けた。
するとそこには、二人の美しきお姉様・・・、に変換可能な存在が並んで歩いていたのだ。
気がつけば、俺の口からは周りと同じように歓声が漏れていた。きっと、何も知らない人間が聞けば同じような歓声だと思うだろうが、実態は違う。俺の口から迸っていたのは、百合を喜ぶ歓声だった。
並んで歩く二人は、百合変換しなければ高身長のイケメンだ。それも、とんでもないレベルのイケメン。そして、俺でも顔を知っているイケメンだった。それもそのはず、その二人は高等部の入学式でも壇上に上がっていた、生徒会メンバーだったのだから。・・・まぁ、基本的には百合っぽい人間しか興味が湧かない俺は、役職がなんだったのかは全く覚えていないのだが、それでもそんな俺ですら顔を覚えるしかないレベルのイケメンが二人、何かを話しながら歩いている。
そのイケメンのうち、一人は肩より少し下まで伸ばした流れるような長髪に、人形のような作り物めいた美しさを持った細い銀縁の眼鏡をかけたイケメン。あまりに顔の作りが人形的に整いすぎているし、全体的に色素が薄い所為か冷たい印象がするが、観賞用にはもってこいみたいな感じもする。
対して、もう一人のイケメンはこれまたサラサラの黒髪をこっちは男子として平均的な短さに整え、切長の目が涼やかで、勿論顔面偏差値はとんでもないレベル。こちらも顔が綺麗系な所為か、なんとなく人形っぽい感じがするのだが、隣を歩く西洋人形っぽいイケメンに対して、こっちは日本人形っぽい。ただ、あの日本人形の夜中に動き出しそうなホラーな感じがしないのは、隣の西洋人形的イケメンより表情が見えるからだろう。
つまり、西洋人形的イケメンは表情がない・・・、というか、多少仏頂面を固定しているようにも見える。まぁ、もしかすると周りの歓声が煩すぎて、本当に仏頂面のまま固定状態になっているのかもしれないが。
その二人が、この薔薇の園である学園で人気が出るのはまぁ、分からないでもない。これだけのイケメンなら、そりゃ、薔薇的価値観なら人気も出るだろう。ただ、薔薇に興味がない俺は、そういう意味ではこの二人に興味は湧かないし、歓声なんて上げるわけもなかった。・・・のだが、単独ではなく、二人で、というか二人っきりでこうして並んで歩いている姿を見ると薔薇ではない花が見えるわけで。
今まで両方お姉様系とかって見たことも考えたこともなかったけど、これ、イケるんじゃね?!
もしもそれぞれが並ぶことなく一人でいたり、もしくは他の誰かが一緒なら百合に変換することは不可能だった。あるいは、昨日までの俺の目なら、百合に映らなかったかもしれない。そう、新たな百合を発掘するという意欲を持っていない目では見つけられない百合だったのだ。
しかし今の、今日からの俺の目は違う。可能性があるものを見つける意欲に萌えているこの目で二人が並んでいる姿を見てみると、それはもう、綺麗系のお姉様同志の百合に変換可能なのだ!
どっちも男臭くない、綺麗系ならイケメンでも変換可能だな! とか、お姉様系同志だと百合にあるまじき展開になりそうな気がしていたけど、互いに認め合う仲みたいな、高め合う仲的な、でも時に衝突しちゃうみたいなっ、そんな変換なら悶えそう! とか、もう脳内はお姉様系百合パラダイス状態になっていて。
少し離れた場所を二人が通り過ぎるまで足を止めてその様をガン見してから、校舎へ向かうその姿をまだ目に刻み込まんばかりに後を追うようにして止まっていた足を動かし、俺も校舎に向かったのだった。
朝から良いモノを見た・・・。
「今日も一人か。そりゃ、そうだよな。お前みたいな平凡、由梨様なんかに相応しくないんだから、早々に飽きられても当然だもんな」
「・・・」
「そろそろ朝だけじゃなくて、日中も一緒に居られなくなるんじゃねーの? まぁ、お前なんて平凡、それが当然だけど」
今日は幸先が良いな、と悦に浸りながら教室に入り、席に座った途端にそんな俺のいい気分に水を差す声が聞こえてきた。席が近いわけでもないのに、コウを長谷の元に置いて先に行き、教室に一人で俺が入るようになって以来、態々近づいて来て毎朝似たようなことを言うその馬鹿は、発言から丸分かりのように、コウの強烈なファンだ。
そんな人間は、大抵、平凡を絵に描いたような俺がコウと一緒にいるのが気に入らず、こういう発言をしてくるわけで・・・、かけられる声には何を言っても無駄だし、そもそも百合変換もできない馬鹿男になんの興味も湧かず、そういう奴に何を言われても気にならない質の俺は、大抵、この類の発言には返事をしないことにしている。しないように、というか、全く何も思わないので、そもそも返事するべき言葉自体が俺の中で存在しないのだが。
俺がそういう反応をした際の相手の反応というのは、大きく二つに分かれる。一つはなんの反応もしない俺に飽き、俺から離れて行く。そしてもう一つは、俺が反応しないことによって馬鹿にされたと感じるのか、いっそう激昂するパターンなのだが、毎朝鬱陶しくやって来るこの馬鹿は後者のようで、俺が黙っていても暫くの間は絶対に離れず、ヒートアップする嫌味を言い続けるのだ。
ちなみにヒートアップしていても一応、声量は抑えているのでそこまで周りに聞こえてはいない。勿論、全く聞こえていないわけではないのだろうが、そこまで聞こえていないのは、こいつがどれだけヒートアップしていても一定の時間で自動的に去って行くのと同じ理由だろう。
つまり、朝は一緒じゃなくても、それ以降の時間は俺とコウはほぼ一緒にいるので、それくらいまだ仲の良い状態の俺に不届きなことを言っていることがコウに知られたら自分がよく思われないだろう、ということを流石に分かっていて、周りに派手に知られたり、まもなくやって来るだろうコウに聞かれたりしないように、一定時間で消え去るのだ。
・・・が、しかし。
「・・・スズ君に、何の用なの?」
「えっ! あ、由梨様! おはようございます! 今日もお美し・・・」
「僕とスズ君は朝だけちょっと別行動になっているだけで、それだってべつに好きで別行動しているわけじゃないんだけど?」
「あ、そう、なんですね・・・、あのっ、俺・・・」
「・・・ここじゃないでしょ、席。どっか行ってくれる?」
「えっと! あの・・・!」
「僕、スズ君に意地悪言う人、大っ嫌い」
大っ嫌い、頂きましたー! ・・・と思わず脳内で茶化さずにはいられないほど、コウの纏う空気は冷たく、硬かった。可愛らしく可憐な顔は一切の表情を浮かべていないのに、目だけが冷たく攻撃的な色を浮かべていて、そこにはっきりと嫌悪と、見ようによっては憎しみのようなモノすら浮かんでいる。
いつもよりだいぶ早く追いついていたらしいコウは、いつの間にか教室に入って来ていたようで、気がつけば席についている俺のすぐ近く、暴言を吐き続ける男の真後ろに立っていたようで・・・、多少高めの地声を嘘みたいに低め、感情が失われたかのような淡々とした口調で言葉を発したのだ。
慌てて馬鹿が飛び退いたのでその馬鹿で隠れていたコウが見えたが、その表情が声同様、感情を失ったかのような状態になっており、目だけが攻撃力満点状態になっている姿を目の当たりにした俺は、コウが淡々とした、それ故に強い感情を感じさせる声で『大っ嫌い』発言をする前からもう分かっていた事実を、改めて認識せざるをえなかった。
こりゃ、もう駄目だな、と。